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南端の戦火

夜の帳が落ちる前、南端の防衛線にはすでに地鳴りのような呻きが満ちていた。


カーミラは駆鳥から飛び降りると、

血と土の混じった匂いに即座に顔を強張らせた。


「……遅れた。」


彼女は舌打ちしそうな気配を押し潰し、視線を前線へ向けた。


そこには第2夜軍防衛部隊――

ミレイユたち吸血族の若い兵が、既に限界に追い込まれていた。


ミレイユは片膝をつきながらも、

裂けた肩を押さえて立ち上がろうとしている。


「……カーミラ先輩……来て……くれた……」


「喋らないで。すぐ治癒兵を呼ぶ。

 ミレイユ、必ず戻るって言ったでしょう。」


ミレイユの頬に、泥と血の混ざる線が流れ落ちる。


「……わたし……信じて……ましたから……」


カーミラは震える手でその頭を撫でた。

普段の冷静さも、外交官らしい距離も吹き飛んでいた。


「絶対に守るわ。だから、もう少しだけ耐えて。」


背後でエルフの部隊が展開し始める。

レティアがサガを振り返り、短く息を吸った。


「サガ、行くよ。ここから先は……本物だ。」


サガは喉が渇き、返事は出なかった。

だが脚は震えながらも前へ踏み出した。



戦場に一歩踏み入れた瞬間だった。


――ゴギャアアアアアッ!!!


耳を裂く咆哮とともに、緑の塊が雪崩のように押し寄せてきた。

ゴブリン。だが……異常だ。


普通の群れとは違う。

眼は飢えた獣より濁り、

皮膚は乾いてひび割れ、

指先は餓死寸前の手のように震え、それでも止まらない。


数は……数える意味すらない。


「来るわよッ!!」


レティアが風を巻き起こし、押し寄せる群れを一瞬だけ押し戻す。

風刃が数体の首を切り裂くが、それだけだ。


風では“殺せない”。


「サガっ! 右側、超えてくる!」


反射的に意識が反応した。


びん、と空気が震え、サガの指先に光の線が走る。

透明の糸。

だが今日は――昨日より“濃い”。


サガは訳も分からぬまま、その糸を地面に張った。


突っ込んできたゴブリンの脚が、

細い光の線に触れた瞬間――


グシャッ


生温い感触とともに、膝下が宙に舞った。


サガは吐き気をこらえ、目をそらしながらも必死に次の糸を張る。


「こっち来るな……来るな……!」


レティアの風が背中を押すように守る。

サガは何度も転びながら、

粘着の糸、硬化した糸、足止めの糸――

頭で考える前に指が勝手に動いていた。


レティアが横目でその様子を見て、

戦いながらも震えるように呟く。


(……この人……ミストラを……操ってる?

 風に“乗せて”るんじゃない……ミストラそのもの……?)


そんな違和感が喉まで出かかった瞬間――


背後で、兵の悲鳴。


カーミラだった。

ミレイユを抱えながら、左腕に深い裂傷を負っている。


「まだ終わらないの!? 本当にどれだけ――」


その叫びを、ゴブリンの狂気がかき消した。



戦いは日が落ちてからも続いた。

沈む夕陽が、血の海のような地表を照らす。


いくら叩いても、

倒れても倒れても、

ゴブリンは死体を踏み台にしてくる。


レティアの風は荒れ、カーミラの斬撃は赤い軌跡を描き、

サガの糸は次々と光の罠となって森に張り巡らされた。


地面が震えていた。


いや、震えているのではない。

歩兵の靴音のように揺れている。

どこからかわからないが、何か巨大なものが“押し寄せてくる”。


レティアの声が遠い。

自分を呼んでいるはずなのに、

耳の奥に水が詰まったみたいに、音が遅れて届く。


「サガ、行くよ! 深く息を吸って!」


息を吸おうとして、吸えなかった。

肺が固まっている。

心臓は暴走しているのに、身体は逆らってくる。


喉が痛い。

冷たい金属を飲み込んだような感覚。


前を見る――

見なければよかった。


闇色の波が、木々の間を埋め尽くしている。


ゴブリンだ。

ただの群れじゃない。

腹がへこみ、頬がこけ、眼の中に“欲望しかない穴”が空いている。


「く、来る……!」


気づいた時には、もう走り出していた。

自分の意思じゃない。

脚が勝手に動く。

転ばないように、それだけ考えるだけで精一杯。


目の前に牙が迫る。

横からレティアの風が吹き飛ばす。

耳が痛い。

鼓膜の内側が切れたかと思うほど。


でも……生きてる。

まだ。


「右! サガ、右から来る!」


振り向けない。

怖すぎて、首が動かない。


視界の端で、緑色の影が飛びかかった。

思考より早く、手が勝手に伸び――


光った。


指先から透明の糸が走り、

ゴブリンの腕がそのまま空中で切断された。


“やった”という実感より先に、

血の匂いが鼻に刺さり、胃液が込みあげた。


「うっ……!」


嘔吐いている暇はない。

影が覆いかぶさってくる。

糸を放つ。

放つ。

放つ。

単純な“押し返し”のためだけに。


でも、数が……終わらない。


背中に何かがぶつかる。

痛い。

熱い。

振り返る余裕なんてない。


どこかでレティアが叫んでいる。

風が切り裂く音がして、何かが倒れた。


だが、声が遠い。

風が遠い。

戦場の音が、全部“裏側”へ回っていく。


サガのすぐ前の世界だけが異様に鮮明だ。


糸を張る。

切れる。

張る。

貼り付く。

張る。

硬くする。

張る。


何度も、何度も、指先の皮が破れるほど繰り返す。


「なんで……なんで終わらないんだ……!」


恐怖より“怒り”が先に出た。

押し寄せてくる波への、純粋な拒絶。


もう嫌だ。


もう来るな。


来るな。


来るんじゃねぇ――!!


腹の奥から何かが爆発し、

次の瞬間、前方一帯が光の罠で埋め尽くされた。


十数体のゴブリンがまとめて切断され、

重い音を立てて崩れ落ちた。


胸が痛い。

呼吸ができない。

視界がチカチカする。


(死ぬ……これ、俺……死ぬ……)


誰かの手が肩を強く掴んだ。


「サガ! 深呼吸して! 吸って、吐いて!」


レティアだ。

顔が泥まみれで、腕も血まみれで、

だけど目だけが真っ直ぐだった。


サガは言われるまま息を吸い、吐いた。

吸って……吐く……

ようやく、視界の端に色が戻ってくる。


だが戦いは続く。


まだ来る。

まだ来る。

まだ――来る。


糸を張る。

足を止める。

風が吹く。

誰かが倒れる。

また張る。


繰り返し。


ただの生存本能だけで。


最後の一体を切り裂いた瞬間、

世界から音が消えた。


だが、終わりは突然訪れた。


「族長グロムより伝達ーーー!」

遠くで甲高い叫びが響く。

「食料を発見ッ!! 全軍、撤退ッ!!」


その瞬間、

ゴブリンの群れは蜘蛛の子を散らすように消えていった。


ただし――

戦場には血だけが残った。



◇ 静寂。


足元に、切断された腕や足が転がっている。

半分潰れた頭蓋。

開ききった瞳。


サガは震える手で口を押さえた。


「……っ……」


吐いた。

胃の中のもの全部。

何も出なくなるまで。


背中をそっとさすられた。

レティアだった。


「サガ……生きててよかった。」


声が震えている。

サガのよりずっと小さく。


「俺……これ……向いてない……」


レティアは首を振った。


「向いてるとか向いてないとか、そんなの……関係ないよ。

 生きた。それがすべて。」


その言葉の意味が、その時のサガにはわからなかった。

ただ、涙がこぼれた。

自分でも驚くほど。


明け方まで続いた戦いの余熱が、ようやく冷えはじめていた。


深夜の休息所。


焚き火の周りで、

戦士たちが無言のまま固いパンを噛みしめている。


誰も喋らない。

喋ったら、何かが崩れる。


レティアのマントは血と泥にまみれ、

カーミラは腕を布で巻いたまま微動だにしない。

サガは糸を使いすぎて指先が痺れていた。


体中が痛い。

でも――死んではいない。


レティアが静かに、サガの隣に腰を下ろす。


「……サガ。今日は、本当に……ありがとう。」


サガは震えた声で返す。


「俺……助けたのか……だいたい……なんでこんなところに……?」


言い切れなかった。


レティアは横目でサガを見つめ、

焚き火の向こうに消えた血煙を、ただ静かに見送った。


「“慣れる”しかないのよ。

 戦う理由は……あとで、ゆっくり見えてくるから。」


その声は、戦場とは違う温度を帯びていた。


そしてサガは、

ついに自分が戻れない場所に踏み込んだことを、

じわりと理解していった。

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