南端の戦火
夜の帳が落ちる前、南端の防衛線にはすでに地鳴りのような呻きが満ちていた。
カーミラは駆鳥から飛び降りると、
血と土の混じった匂いに即座に顔を強張らせた。
「……遅れた。」
彼女は舌打ちしそうな気配を押し潰し、視線を前線へ向けた。
そこには第2夜軍防衛部隊――
ミレイユたち吸血族の若い兵が、既に限界に追い込まれていた。
ミレイユは片膝をつきながらも、
裂けた肩を押さえて立ち上がろうとしている。
「……カーミラ先輩……来て……くれた……」
「喋らないで。すぐ治癒兵を呼ぶ。
ミレイユ、必ず戻るって言ったでしょう。」
ミレイユの頬に、泥と血の混ざる線が流れ落ちる。
「……わたし……信じて……ましたから……」
カーミラは震える手でその頭を撫でた。
普段の冷静さも、外交官らしい距離も吹き飛んでいた。
「絶対に守るわ。だから、もう少しだけ耐えて。」
背後でエルフの部隊が展開し始める。
レティアがサガを振り返り、短く息を吸った。
「サガ、行くよ。ここから先は……本物だ。」
サガは喉が渇き、返事は出なかった。
だが脚は震えながらも前へ踏み出した。
◇
戦場に一歩踏み入れた瞬間だった。
――ゴギャアアアアアッ!!!
耳を裂く咆哮とともに、緑の塊が雪崩のように押し寄せてきた。
ゴブリン。だが……異常だ。
普通の群れとは違う。
眼は飢えた獣より濁り、
皮膚は乾いてひび割れ、
指先は餓死寸前の手のように震え、それでも止まらない。
数は……数える意味すらない。
「来るわよッ!!」
レティアが風を巻き起こし、押し寄せる群れを一瞬だけ押し戻す。
風刃が数体の首を切り裂くが、それだけだ。
風では“殺せない”。
「サガっ! 右側、超えてくる!」
反射的に意識が反応した。
びん、と空気が震え、サガの指先に光の線が走る。
透明の糸。
だが今日は――昨日より“濃い”。
サガは訳も分からぬまま、その糸を地面に張った。
突っ込んできたゴブリンの脚が、
細い光の線に触れた瞬間――
グシャッ
生温い感触とともに、膝下が宙に舞った。
サガは吐き気をこらえ、目をそらしながらも必死に次の糸を張る。
「こっち来るな……来るな……!」
レティアの風が背中を押すように守る。
サガは何度も転びながら、
粘着の糸、硬化した糸、足止めの糸――
頭で考える前に指が勝手に動いていた。
レティアが横目でその様子を見て、
戦いながらも震えるように呟く。
(……この人……ミストラを……操ってる?
風に“乗せて”るんじゃない……ミストラそのもの……?)
そんな違和感が喉まで出かかった瞬間――
背後で、兵の悲鳴。
カーミラだった。
ミレイユを抱えながら、左腕に深い裂傷を負っている。
「まだ終わらないの!? 本当にどれだけ――」
その叫びを、ゴブリンの狂気がかき消した。
◇
戦いは日が落ちてからも続いた。
沈む夕陽が、血の海のような地表を照らす。
いくら叩いても、
倒れても倒れても、
ゴブリンは死体を踏み台にしてくる。
レティアの風は荒れ、カーミラの斬撃は赤い軌跡を描き、
サガの糸は次々と光の罠となって森に張り巡らされた。
地面が震えていた。
いや、震えているのではない。
歩兵の靴音のように揺れている。
どこからかわからないが、何か巨大なものが“押し寄せてくる”。
レティアの声が遠い。
自分を呼んでいるはずなのに、
耳の奥に水が詰まったみたいに、音が遅れて届く。
「サガ、行くよ! 深く息を吸って!」
息を吸おうとして、吸えなかった。
肺が固まっている。
心臓は暴走しているのに、身体は逆らってくる。
喉が痛い。
冷たい金属を飲み込んだような感覚。
前を見る――
見なければよかった。
闇色の波が、木々の間を埋め尽くしている。
ゴブリンだ。
ただの群れじゃない。
腹がへこみ、頬がこけ、眼の中に“欲望しかない穴”が空いている。
「く、来る……!」
気づいた時には、もう走り出していた。
自分の意思じゃない。
脚が勝手に動く。
転ばないように、それだけ考えるだけで精一杯。
目の前に牙が迫る。
横からレティアの風が吹き飛ばす。
耳が痛い。
鼓膜の内側が切れたかと思うほど。
でも……生きてる。
まだ。
「右! サガ、右から来る!」
振り向けない。
怖すぎて、首が動かない。
視界の端で、緑色の影が飛びかかった。
思考より早く、手が勝手に伸び――
光った。
指先から透明の糸が走り、
ゴブリンの腕がそのまま空中で切断された。
“やった”という実感より先に、
血の匂いが鼻に刺さり、胃液が込みあげた。
「うっ……!」
嘔吐いている暇はない。
影が覆いかぶさってくる。
糸を放つ。
放つ。
放つ。
単純な“押し返し”のためだけに。
でも、数が……終わらない。
背中に何かがぶつかる。
痛い。
熱い。
振り返る余裕なんてない。
どこかでレティアが叫んでいる。
風が切り裂く音がして、何かが倒れた。
だが、声が遠い。
風が遠い。
戦場の音が、全部“裏側”へ回っていく。
サガのすぐ前の世界だけが異様に鮮明だ。
糸を張る。
切れる。
張る。
貼り付く。
張る。
硬くする。
張る。
何度も、何度も、指先の皮が破れるほど繰り返す。
「なんで……なんで終わらないんだ……!」
恐怖より“怒り”が先に出た。
押し寄せてくる波への、純粋な拒絶。
もう嫌だ。
もう来るな。
来るな。
来るんじゃねぇ――!!
腹の奥から何かが爆発し、
次の瞬間、前方一帯が光の罠で埋め尽くされた。
十数体のゴブリンがまとめて切断され、
重い音を立てて崩れ落ちた。
胸が痛い。
呼吸ができない。
視界がチカチカする。
(死ぬ……これ、俺……死ぬ……)
誰かの手が肩を強く掴んだ。
「サガ! 深呼吸して! 吸って、吐いて!」
レティアだ。
顔が泥まみれで、腕も血まみれで、
だけど目だけが真っ直ぐだった。
サガは言われるまま息を吸い、吐いた。
吸って……吐く……
ようやく、視界の端に色が戻ってくる。
だが戦いは続く。
まだ来る。
まだ来る。
まだ――来る。
糸を張る。
足を止める。
風が吹く。
誰かが倒れる。
また張る。
繰り返し。
ただの生存本能だけで。
最後の一体を切り裂いた瞬間、
世界から音が消えた。
だが、終わりは突然訪れた。
「族長グロムより伝達ーーー!」
遠くで甲高い叫びが響く。
「食料を発見ッ!! 全軍、撤退ッ!!」
その瞬間、
ゴブリンの群れは蜘蛛の子を散らすように消えていった。
ただし――
戦場には血だけが残った。
◇
◇ 静寂。
足元に、切断された腕や足が転がっている。
半分潰れた頭蓋。
開ききった瞳。
サガは震える手で口を押さえた。
「……っ……」
吐いた。
胃の中のもの全部。
何も出なくなるまで。
背中をそっとさすられた。
レティアだった。
「サガ……生きててよかった。」
声が震えている。
サガのよりずっと小さく。
「俺……これ……向いてない……」
レティアは首を振った。
「向いてるとか向いてないとか、そんなの……関係ないよ。
生きた。それがすべて。」
その言葉の意味が、その時のサガにはわからなかった。
ただ、涙がこぼれた。
自分でも驚くほど。
明け方まで続いた戦いの余熱が、ようやく冷えはじめていた。
深夜の休息所。
焚き火の周りで、
戦士たちが無言のまま固いパンを噛みしめている。
誰も喋らない。
喋ったら、何かが崩れる。
レティアのマントは血と泥にまみれ、
カーミラは腕を布で巻いたまま微動だにしない。
サガは糸を使いすぎて指先が痺れていた。
体中が痛い。
でも――死んではいない。
レティアが静かに、サガの隣に腰を下ろす。
「……サガ。今日は、本当に……ありがとう。」
サガは震えた声で返す。
「俺……助けたのか……だいたい……なんでこんなところに……?」
言い切れなかった。
レティアは横目でサガを見つめ、
焚き火の向こうに消えた血煙を、ただ静かに見送った。
「“慣れる”しかないのよ。
戦う理由は……あとで、ゆっくり見えてくるから。」
その声は、戦場とは違う温度を帯びていた。
そしてサガは、
ついに自分が戻れない場所に踏み込んだことを、
じわりと理解していった。




