出陣決定と三者の動き
ユグドラシルの麓に薄い霧が立ちこめ、
夜明け前の灰色の光が、長老議場の窓を静かに満たしていた。
議場の奥では、五名の長老が小声で言い争っている。
正面に置かれた水盤には、南端の揺らぎがぼんやり映し出されていた。
「――外来者は留め置くべきだ。里の中で監視すればよい。」
保守派のオルヴィンが硬い声を出す。
「いや、力を確かめるべきだろう。」
ロークは水盤を睨みつけたまま続ける。
「訓練場での報告は聞いている。あの“糸”…どこから出てきた。」
「使い捨てる気か?」
スヴェルが睨むように問うと、ロークは肩をすくめた。
「必要ならばな。」
「……戦場に出せば、何が隠れているか見える。」
イリスが静かに言う。
声は柔らかいが、考えは冷たい刃に近い。
「観察としては理にかなうわ。」
シーラだけが沈黙していたが、
その手はすでに机の下でメモを折り曲げている。
そこには、昨夜密かに進めた軍備準備計画の指示がまとめられていた。
――南端は待ってくれない。
完全に理解しているのは彼女だけだった。
「出陣は避けられない。
ならば、あの子をどう扱うかは……出た後に決めるしかないわね。」
静かに呟いたシーラの声に、
議場に重い沈黙が落ちた。
◇
出陣の号令が里に響き渡るころ、
サガは半隔離の小屋で胸の奥の不安を抱えていた。
ピノと甲州の気配だけは、
森の向こうから確かに感じる。
けれど――振り返る余裕がないほど、
外では太鼓と駆鳥の鳴き声が重なり始めている。
扉が開き、レティアが立っていた。
いつもの鋭さよりも柔らかい光を瞳に宿し、
彼女は何も言わずサガの手を取る。
「行くよ、サガ。
……わたしも一緒だから。」
短い言葉だった。
けれど、そこには守るという迷いのない覚悟が宿っていた。
サガの胸のざわめきは、自分でも説明のつかない温度を帯びる。
広場へ出ると、駆鳥が列を成し、戦士たちが装備を整えていた。
吸血族の混成部隊も揃い、隊列はまるで嵐の前の海のように緊張している。
その中で、ひとつの影がサガに近づいた。
深紅の外套。
吸血族の外交官にして戦士、カーミラ。
彼女は歩みを止めると、
まるで光の筋を見るように、サガの体内の“ミストラの揺らぎ”を覗き込んだ。
挑発でも、興味本位でもない。
もっと深い――捕食者とは違う種類の、
存在構造そのものを見るまなざしだった。
「あなたも来るのね、サガ……」
彼女の声はひどく静かで、ひどく妖しい。
「楽しみだわ。こういう“変化”は、戦場のほうが本性を見せる。」
レティアの眉がひくりと動く。
「……その言い方、やめてください。
サガを試す場所じゃない。」
「試すのは世界よ。」
カーミラは微かに笑い、隊列へと戻っていった。
レティアはしばし沈黙し、サガの手を強く握り直す。
「気にしなくていい。あなたは……わたしが守る。」
サガは言葉を失う。
騎士たちの号令。
吸血族の低い整列音。
駆鳥の蹄が地を叩く。
世界が、否応なく動き出した。
そしてその中心に――
まだ自分の力さえ理解していないサガが立っていた。
やがて太鼓が鳴り響く。
出陣だ。




