揺らぐ森、決まらぬ会議、そして火急の夜
長老棟の大広間には、夜の冷気が滲み込んでいた。
天井のミストラ灯が淡い青を落とし、石壁に影が揺れる。
二日目の会議は、まだ終わりの兆しを見せていない。
五名の長老が円卓を囲み、団長リュシアンが無言のまま姿勢を正す。
吸血族の使者カーミラは少し離れた席で指を組み、
静かに、確実に、場の空気を読み取っていた。
南端の異変。
ミストラの乱れ。
ゴブリンの異常な出没。
誰もがそれを重大と理解している。
それでも長老たちは、結論に手を伸ばそうとしなかった。
「焦りは、判断の敵だ。」
オルヴィンが重い声を落とす。
「まだ断定には早い。
原因が見えぬまま動けば、森そのものを危うくする。」
イリスもそれに続く。
スヴェルは沈黙の中で眉間に指を当て、
「……事象の推移を、もう一度整理したい」と言うだけだった。
熟練のはずの彼らの言葉は、
どれも立派で、どれも空虚だった。
リュシアンは席から動かず、しかし闘う前の獣のように神経だけが鋭く張り詰めている。
南端で何が進行しているか、兵を失った者の顔を知る者として、
彼は悠長な議論を憎んでいた。
カーミラは長老たちの沈黙をひとつひとつ見渡し、静かに口を開く。
「……変調は、“監視すべき段階”をとうに越えています。
南端の歪みは、吸血族領にまで波及し始めています。」
声は穏やか。だが刃だった。
空気がわずかに張りつめ、いくつかの視線がカーミラに向く。
「原因を探すより、被害を拡げぬことが先です。
今動かねば、守れるものを手放すことになります。」
反論はなかった。
しかし、決断もしなかった。
「……軽々に軍を動かすべきではない。」
「証拠が薄い。」
「外の種族の動きを基準にする必要はない。」
結局は、昨日と同じ言葉ばかりが延々と並ぶ。
レティアは席の端で拳を固めた。
ミストラの揺らぎは、彼女の肌に確かに伝わっている。
この場の誰よりも、危機の足音を感じている。
それでも、若輩である自分の言葉は、重みを持たない。
会議は夜灯が燃え尽きそうになるほど長引き、
ついに誰かが吐息を洩らした時――
扉が叩きつけられる音が響いた。
「失礼します! 前線より火急の報せです!」
斥候の青年が飛び込み、血走った目で叫ぶ。
「ゴブリンが……異常な勢いで押し寄せています!
数は……三万、いや、もっと……増え続けていて、前線では数の見当がつきません!」
会議室の空気が一瞬にして凍りついた。
「吸血族側の前線が突破されかけています!
斥候隊は撤退、各陣は……支えきれません!」
カーミラは目を伏せ、息を深く吐いた。
その表情は、怒りでも悲しみでもなく――確信だった。
「……遅かった。」
その一言には、誰も反論できなかった。
リュシアンが、静かに、しかし鋼のような声で立ち上がる。
「状況は明白。
――南端の援護を急がねばなりません。」
長老たちの中で最も年長のロークが、重々しく目を閉じて言った。
「森は、子らの血を望まぬ。
だが……今、剣を抜かねば、守るべきものが消える。」
ようやく決断は下された。
その頃、別棟ではシーラがすでに動いていた。
侍女の走る音を聞きつけると、迷いなく指示を飛ばす。
「ヴァーナーーーー!!!至急よ!」
呼ばれた警備班長ヴァーナが駆け込むと、
シーラは机上に設えた鍵束を手に取り、倉庫の封印を解きながら言った。
「魔除けの煙草を二百。
聖水皮袋《セレスティアの滴》を百。
飛び脚ブーツ《ウィンドステップ》は、騎士団分すべて出すわ。」
「長老たちの許可は……?」
「必要ない。
森の“呼吸”が乱れている時に、誰が許可を与えられるの?」
シーラは淡々としていたが、
ヴァーナは彼女の背後にひとつの決意を見る。
「……分かりました。すぐに。」
ヴァーナが走り去ったあと、
倉庫の灯を背にしたシーラは誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「遅い決断は、守るものを削るだけよ……。」
ミストラ灯が揺れ、
その青白い光だけが、彼女の横顔を静かに照らしていた。




