南端
森の南端。
朝靄のなかで、ゴブリンの巣穴はいつもより冷えていた。
腹の鳴る音が、洞窟に反響する。
食料は、もう三日もまともに手に入っていない。
族長グロムは膝を抱え、岩壁に頭を預けていた。
狩りに出ても何も獲れない。
森は痩せ、川には魚一尾いない。
いつも何かが足りない。
食料が足りない。
力が足りない。
頭が足りない。
運も、未来も、誇りも──全部足りない。
(俺たちは、いつもそうだ……)
胸の奥に渦巻く重さは、言葉にならない。
部族を率いるには、あまりにも小さく弱い自分が情けなかった。
そのときだった。
洞窟が、風もないのにひんやりと揺れた。
黒い靄のようなものが、ぬるりと床を這い、
族長の影に溶け込むようにまとわりつく。
「…………?」
グロムが震える声で名を呼ぶと、
靄は人の形をとらぬまま囁いた。
「森の奥へ行け。土地を広げろ。
お前たちの飢えは、そこで満たされる。」
優しい声だった。
あまりに優しいので、涙がこぼれた。
抗える者は、誰もいなかった。
「……いくぞ…みんなで。森の奥へ……。
ここにいても……何も変わらねえ……。」
部族は動き始める。
生きるため、ただそれだけを願って。
***
同じ頃、エルフの前線キャンプ。
偵察に出ていた三人──フィオレン、ミュレル、リアン──が、
息を切らして拠点へ戻ってきた。
「た、隊長ッ……数が……増えてます!
ゴブリン、あれ……追われてるみたいに、めちゃくちゃで!」
訓練場にいた者たちがざわつく。
そのざわめきを裂くように、
静かな足音が一つだけ前へ出た。
騎士団長リュシアン。
「……南端の状況を話せ。」
声は低いが、重さがあった。
三人組の喧騒が、波のようにしんと静まる。
フィオレンが焦って身振りを交えて説明し、
ミュレルが補足を入れ、
リアンが最後に淡々とまとめる。
リュシアンは一言も遮らない。
だが、その眼だけは鋭く、森の奥の何かを測っていた。
「……なるほど。侮ったか…。」
眉間に皺を寄せ、
朝靄のなかへ歩み去っていく。
彼が消えたあと、
ようやく誰かが息を吐いた。
***
その少し後。
巫女代行のエリュナが、
ひとり森の地脈に指を触れた。
ミストラが脈打つように震えている。
まるで「何かが押し寄せてくる」と告げるように。
「……いやな波……。
本当に、始まるのかもしれない。」
黒い鳥が枝から飛び立ち、
森の奥へ消えた。
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