宇宙旅行
宇宙の闇は、音もなく広がっていた。
銀糸のような星々の列。その向こうに、
──ひときわ濃い影のような球体がゆっくりと口を開けていた。
ブラックホール。
光すら逃げられない、宇宙の底。
その重力縁を、ひとつの小型観測船が滑るように進んでいた。
◆
「ほら見て、サガ。光が曲がってる。この角度からは“ねじれてる光円”が見えるよ」
透明スクリーン越しに、ピノが興奮気味に指をさす。
黒髪を後ろで結んだ真面目な顔に、珍しく熱が入っていた。
「ふーん」
相棒のサガは簡単に返事した。興味がないわけじゃない。
ただ、胸の奥に何か引っかかるだけだった。
(感情の揺れが薄い──HECチップのせいかもしれない)
「……ふーんじゃねぇだろ。もっとこう、驚けよ」
甲州があきれ顔で肘をつついてくる。
スポーツ万能のくせに宇宙酔い気味で、顔がわずかに青い。
「驚く感情が出ない体質なんだよ、こいつは」
ピノが笑った。
「サガ様は正常な反応です。驚いていない顔の裏で、驚いている可能性もあります」
淡々と告げるのは、メイド服のシルエットを模したAIロボ・ベラ。
顔立ちは人間に近いが、どこか透明感があり、光の反射が人工的だ。
「なにその可能性理論……」
甲州がツッコむ。
◆
船内はにぎやかで、どこか学生旅行の雰囲気だった。
だが、その明るさの奥に、ひとつの“目的”があった。
ピノがブラックホールの“縁”を観測したがっていた理由。
それは──船内の誰もまだ言葉にしていない。
ただ、会話の途切れた瞬間に、サガは横目でピノを見た。
ピノのスマートチップには、ブラックホールの観測データが高速で流れ続けている。
彼の目は、どこか焦っていた。
◆
「……ん?」
ベラの首がかすかに傾いた。
「どうした?」
甲州がよろよろしながら問い返す。
「観測船の重力補正値が……一瞬、跳ねました」
ピノの指が止まった。
「跳ねた?」
「本来の重力勾配と異なる波形です。ブラックホールの外縁に、通常では形成されない“重力の溝”が──」
言い終える前に、船体が震えた。
金属がこすれる嫌な音が響く。
スピーカーから緊急アラームが鳴り響き、船の姿勢がわずかに傾いた。
「な、なんだこれ……!?」
甲州が椅子にしがみつく。
「ピノ! 船体制御どうなってる!?」
サガが叫ぶ。
「ダメ……重力バランサーが、波形を読み切れてない!
これは……“何かに引っ張られてる”……!?」
ベラの声は冷静だった。
「重力異常──本来この距離ではありえません。
ブラックホールの外側に、別の重力源が形成されています」
「別の……?」
理解が追いつく前に、船体が大きく揺れた。
床が傾き、視界が流れ、世界が上下逆に跳ねる。
スクリーンに映るブラックホールの外縁が伸びたように歪む。
「来る──ッ!」
ピノが制御パネルにしがみついた瞬間、
船は巨大な手に鷲掴みにされたように“持ち上げられた”。
◆
船体が裂ける音がした。
圧力変動で警報が爆発するように鳴り響く。
黒が、広がる。
視界が引き伸ばされる。
船体が大きく跳ねた──
その瞬間、時間がひしゃげたように伸びた。
遠くで甲州が叫んでいる気がする。
近くでピノの指が走っている気もする。
だが、サガの五感は、
まるで透明な膜を一枚かぶせたように鈍くなっていた。
船体が折れる音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
ギ……ギギ……ビキィィィッ。
「後部船体──切断されますッ!」
ベラの声が、警報より静かに響く。
サガは、視界の端で“何かがちぎれて飛んでいく”のを見た。
船の後部パーツ。寝室と設備室がまとめて、
真空の裂け目へ吸い込まれていく。
そのとき、不思議なくらい冷静な考えが胸をよぎった。
──あ、死んだわ。
悲鳴もなく。
恐怖もなく。
感情が抑制されているせいか、ただ事実を確認するように。
(死ぬ時って、こんな感じなんだ……)
次の瞬間、加速度が全身を叩きつけた。
体が浮いて、
壁に横から殴りつけられたように跳ね返って、
視界が白黒にフラッシュする。
耳鳴りの奥で誰かが名前を呼んでいる。
それが自分の名前だと気づくまで、数秒のズレがあった。
重力がねじれ、光が引き伸ばされ、
身体が“横へ裂かれるような力”に引きずられる。
サガの視界が白く弾ける。
世界が、音もなく裏返った。
光の輪が、ぞっとするほど近くに見えた。
ピノの悲鳴。
甲州の吠え声。
ベラの冷静な緊急命令。
全部、ゆっくり聞こえる。
心だけが取り残される。
──生き残るとか、そんな段階じゃない。
これは落ちる。落ちるだけだ。
目の前の景色が、反転した。
空気が焼ける。
船体の外殻が剥がれていく。
(死ぬわ……)
そう思ったあたりで、
サガの意識はぷつりと切れた。
◆
次に目を開けたとき──
彼はユグドラシルの麓、緑と光の世界に転がっていた。




