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宇宙旅行

宇宙の闇は、音もなく広がっていた。

銀糸のような星々の列。その向こうに、

──ひときわ濃い影のような球体がゆっくりと口を開けていた。


ブラックホール。

光すら逃げられない、宇宙の底。


その重力縁を、ひとつの小型観測船が滑るように進んでいた。



「ほら見て、サガ。光が曲がってる。この角度からは“ねじれてる光円”が見えるよ」


透明スクリーン越しに、ピノが興奮気味に指をさす。

黒髪を後ろで結んだ真面目な顔に、珍しく熱が入っていた。


「ふーん」

相棒のサガは簡単に返事した。興味がないわけじゃない。

ただ、胸の奥に何か引っかかるだけだった。

(感情の揺れが薄い──HECチップのせいかもしれない)


「……ふーんじゃねぇだろ。もっとこう、驚けよ」

甲州があきれ顔で肘をつついてくる。

スポーツ万能のくせに宇宙酔い気味で、顔がわずかに青い。


「驚く感情が出ない体質なんだよ、こいつは」

ピノが笑った。


「サガ様は正常な反応です。驚いていない顔の裏で、驚いている可能性もあります」

淡々と告げるのは、メイド服のシルエットを模したAIロボ・ベラ。

顔立ちは人間に近いが、どこか透明感があり、光の反射が人工的だ。


「なにその可能性理論……」

甲州がツッコむ。



船内はにぎやかで、どこか学生旅行の雰囲気だった。

だが、その明るさの奥に、ひとつの“目的”があった。


ピノがブラックホールの“縁”を観測したがっていた理由。

それは──船内の誰もまだ言葉にしていない。


ただ、会話の途切れた瞬間に、サガは横目でピノを見た。

ピノのスマートチップには、ブラックホールの観測データが高速で流れ続けている。


彼の目は、どこか焦っていた。



「……ん?」

ベラの首がかすかに傾いた。


「どうした?」

甲州がよろよろしながら問い返す。


「観測船の重力補正値が……一瞬、跳ねました」


ピノの指が止まった。

「跳ねた?」

「本来の重力勾配と異なる波形です。ブラックホールの外縁に、通常では形成されない“重力の溝”が──」


言い終える前に、船体が震えた。


金属がこすれる嫌な音が響く。

スピーカーから緊急アラームが鳴り響き、船の姿勢がわずかに傾いた。


「な、なんだこれ……!?」

甲州が椅子にしがみつく。


「ピノ! 船体制御どうなってる!?」

サガが叫ぶ。


「ダメ……重力バランサーが、波形を読み切れてない!

 これは……“何かに引っ張られてる”……!?」


ベラの声は冷静だった。

「重力異常──本来この距離ではありえません。

 ブラックホールの外側に、別の重力源が形成されています」


「別の……?」


理解が追いつく前に、船体が大きく揺れた。


床が傾き、視界が流れ、世界が上下逆に跳ねる。

スクリーンに映るブラックホールの外縁が伸びたように歪む。


「来る──ッ!」


ピノが制御パネルにしがみついた瞬間、

船は巨大な手に鷲掴みにされたように“持ち上げられた”。



船体が裂ける音がした。

圧力変動で警報が爆発するように鳴り響く。


黒が、広がる。


視界が引き伸ばされる。


船体が大きく跳ねた──

その瞬間、時間がひしゃげたように伸びた。


遠くで甲州が叫んでいる気がする。

近くでピノの指が走っている気もする。


だが、サガの五感は、

まるで透明な膜を一枚かぶせたように鈍くなっていた。


船体が折れる音だけが、やけに鮮明に聞こえた。


 ギ……ギギ……ビキィィィッ。


「後部船体──切断されますッ!」

ベラの声が、警報より静かに響く。


サガは、視界の端で“何かがちぎれて飛んでいく”のを見た。

船の後部パーツ。寝室と設備室がまとめて、

真空の裂け目へ吸い込まれていく。


そのとき、不思議なくらい冷静な考えが胸をよぎった。


──あ、死んだわ。


悲鳴もなく。

恐怖もなく。

感情が抑制されているせいか、ただ事実を確認するように。


(死ぬ時って、こんな感じなんだ……)


次の瞬間、加速度が全身を叩きつけた。


体が浮いて、

壁に横から殴りつけられたように跳ね返って、

視界が白黒にフラッシュする。


耳鳴りの奥で誰かが名前を呼んでいる。

それが自分の名前だと気づくまで、数秒のズレがあった。


重力がねじれ、光が引き伸ばされ、

身体が“横へ裂かれるような力”に引きずられる。


サガの視界が白く弾ける。

世界が、音もなく裏返った。


光の輪が、ぞっとするほど近くに見えた。


ピノの悲鳴。

甲州の吠え声。

ベラの冷静な緊急命令。


全部、ゆっくり聞こえる。


心だけが取り残される。


──生き残るとか、そんな段階じゃない。

 これは落ちる。落ちるだけだ。


目の前の景色が、反転した。


空気が焼ける。

船体の外殻が剥がれていく。


(死ぬわ……)


そう思ったあたりで、

サガの意識はぷつりと切れた。



次に目を開けたとき──

彼はユグドラシルの麓、緑と光の世界に転がっていた。

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