第95話 そして、未来へ
求婚の翌日から、私は奇妙なくらい穏やかな日々を過ごした。
戦場の白い光も、空を裂く瘴気の音も、まだ耳の奥に残っているのに。
目の前にあるのは、メイド長マリアナが並べた布と紐とピンと、侍女たちの真剣な顔だけだった。
「動かないでくださいませ。結界より難しいんですから」
「どちらがですか」
「どちらもです」
真顔で言い切られて、笑うしかない。
肩に落ちる白い布地は軽いのに、背中を押す視線は重い。
「アリア様、泣くなら今です。式が始まったら禁止です」
「禁止の根拠は」
「私の胃です」
私が理屈を探す前に、リゼットが扉から顔を出した。
「まだかかりそう? 広場の外がすごいよ。祝福の光が過剰で、幻術隊が仕事してる」
「祝福の光を制限するという発想はないの?」
「ないね。だって今日は、団長の暴走を止める理由がない」
その名前を出した途端、廊下の向こうが静かになった。
足音がひとつ。無駄がなくて、まっすぐで、私の方へ向かってくる。
「……来た」
マリアナが小さく頷き、扉を開ける。
セイジュは正装の上に団長紋章をつけていた。いつもより髪が整っている。だから余計に、銀の瞳が刺さるように見えた。
「逃げないな」
「逃げる先がありませんので」
「違う。逃げないでくれるのが、うれしい」
たったそれだけで、胸の奥の何かがほどけた。
戦場で私を抱きかかえた腕が、今は指先だけで私の手を取る。
怖いくらい丁寧だった。
「セイジュ」
「何だ」
「今日は、結界の話をしません」
「了解した。代わりに、妻の話をする」
私は咳払いで誤魔化した。リゼットが肩を震わせ、マリアナが遠い目をした。
「さあ。行きますよ、主任」
「その呼び方はやめてください」
「無理。癖」
扉の外は、祝福の騒音だった。
ガルディア王都の大広場。石畳が磨かれ、旗が風に鳴り、空には安全確認済みの小さな光の結界が舞っている。
その中央に、簡易祭壇が組まれていた。大げさな神殿ではない。研究塔が設計した、魔術師のための誓約台だ。
最前列には、ガルディア王アレクシスと宰相ユリウスが並んでいる。
その横にレイン家。父は相変わらず背筋がまっすぐで、母は私より先に目を潤ませていた。
「泣かないって言ったのに」
「母としての規則です」
規則なら仕方がない。
私は笑って、視線を泳がせた。
遠い、さらにその奥。
各国代表の席の端に、アストリアの紋が見える。
そこに、レオンとリリアナがいた。
こちらを見ていた。
近づいてこない。声もかけない。
ただ、祝福の場を壊さない距離で、静かに頭を下げる。
胸の中に、ほんの少しだけ痛みが生まれる。
でも、それはもう刃じゃない。
古い痣に触れたときの、鈍い感覚に近かった。
ユリウスが、小さく咳払いをして場を整えた。
あの人の咳払いは、会議場でも戦場でも、世界を静かにさせる。
「本日は、ガルディア王国と、そして大陸各国の未来のために。二人の誓約をここに認める」
「堅いですね」
「公文書に残るので」
「なるほど。なら、私は科学的に誓います」
私が口にした瞬間、あちこちで笑いが起きた。
セイジュが私の横で、ほんの少しだけ眉を動かす。
「アリア・レイン」
アレクシス王が私の名を呼んだ。
「あなたは、あなたの選択でここに立っているか」
「はい」
「誰かに押しつけられた立場ではなく」
「はい」
「なら、ガルディアはそれを祝福する」
その言葉は、王が臣下に与える恩寵というより、対等な一人に送る敬意だった。
私は、息を吐く。
次に、セイジュが私を見た。
戦場で魔力が同調したときの、あの目だ。
逃げ場がない。けれど、逃げたくない。
「アリア」
「はい」
「おまえが働く場所も、眠る場所も、泣く場所も。全部、守る」
「……欲張りですね」
「足りないのは嫌いだ」
私の指に、指輪がはめられる。
ただの宝石ではない。細い刻印は結界の式だ。魔力の回路が、互いを穏やかに繋ぐ。
私は笑ってしまった。
「それ、研究塔の規格ですよね」
「実用が一番だ」
「ロマンは」
「後で、こちらが用意する」
後で、の言い方がずるい。
私は自分の指輪を持ち上げて、彼の手を取った。
「セイジュ・アルバート。私は、私の意思であなたを選びます」
声が震えそうで、私は少しだけ意地悪を混ぜた。
「ただし、仕事の邪魔をしたら結界で閉じ込めます」
「歓迎する」
「歓迎しないでください」
「なら、邪魔はしない。代わりに、休ませる」
周囲の拍手が広場を揺らす。
魔導師団が、普段の訓練みたいな声量で祝福を叫ぶ。
リカルドが先頭で腕を振り回していた。
「団長ー! 主任ー! いや、奥様ー! お幸せにー!」
その叫びに、私の頬は確実に熱くなる。
横でセイジュが、小さく勝ち誇った顔をした。腹立つ。
式が終わると、今度は祝宴だ。
私は父と向き合い、母に抱きしめられ、弟妹たちに押しつぶされそうになった。
「姉上、結界の式より難しいのは、こういうのですか」
「そうね。反論できない」
リゼットが酒杯を持って近づいてくる。
「おめでとう。今日くらいは、責任とか世界とか忘れなよ」
「忘れたいのに、周りが忘れさせてくれません」
「それは団長が原因だね」
視線の先で、セイジュが各国代表に囲まれていた。
政治の質問と、結界の質問と、私への質問が混ざっている。
彼は眉ひとつ動かさずに捌いているのに、私の方を見る頻度だけは明らかに多い。
不意に、ノエルが私の横に滑り込んだ。
背伸びして、私の耳元に囁く。
「師匠。さっきの指輪、魔力同調の安定化がすごいです。つまりですね」
「今はやめて」
「つまり夫婦です」
「やめて」
私は額を押さえた。隣でリゼットが腹を抱えて笑う。
それでも、私は思った。
こういう騒がしさは、悪くない。
祝宴の端で、アストリアの席が静かに立ち上がるのが見えた。
レオンとリリアナが、こちらへ向かう……ことはない。
ただ、もう一度だけ頭を下げて、去っていく。
私は追わなかった。
追う必要がないからだ。
私の物語は、もう彼らの反応で決まるものではない。
数日後。
研究塔の最上階は、いつもの匂いを取り戻していた。
紙とインクと金属と、微かな魔力の残り香。
私は机に地図を広げ、ノエルの観測網データを重ねる。
「世界結界ネットワーク構想、正式名称どうします?」
「正式名称は政治が決める」
ユリウスがさらっと言い切る。
「私は予算を取る。あなたは、動く理屈を作れ」
「理屈なら、任せてください」
セイジュが後ろから覗き込み、私の髪を指で払った。
「まずは、大陸の要所に中継核を置く。魔力の流路を、一本の鎖じゃなく網にする」
「鎖、って言葉は嫌いです」
「分かった。網だ。……捕まえるための」
「捕まえないでください」
夫婦になっても、会話の癖は変わらないらしい。
変わったのは、言葉の裏にある確信の量だ。
扉がノックされ、マリアナが顔を出した。
「来客です。グラナから」
「また修理依頼?」
「違います。……子どもです」
小さな足音が、床を叩く。
国境都市グラナで、私の結界を見てはしゃいでいたあの子だ。今度は泥ではなく、きちんと靴を履いている。
「アリアさま!」
「こんにちは。よく来たね」
「これ、みせてほしいの」
差し出されたのは、紙に描かれた歪な魔方陣だった。
丸が3つ、線が4本。たぶん、本人は結界のつもり。
「ぼく、まどうしになる。アリアさまみたいに」
「……なるほど」
私はしゃがんで、紙の上に指を置いた。
「ここをこう繋げるとね。風が逃げなくなる」
「ほんと?」
「ほんと。結界は、守るための形だから」
子どもの目が丸くなる。
背後でノエルがうずうずしているのが分かった。セイジュは腕を組んで、静かに見守っている。
私は、笑った。
世界が怖いから結界を張るのではない。
世界を好きでいるために、結界を張る。
窓の外には、王都の空。
以前よりも透明に見えた。たぶん、私の目が変わっただけだ。
私はかつて、自分が捨てられたのだと思い込んでいた。
けれど本当は、私は自分の手で未来を選び直した。
そして今、選び続けている。
セイジュが私の肩に手を置く。
「アリア」
「はい」
「次は、どこを守る」
「世界です。……でも、今は」
「今は?」
「今は、ここ。あなたの隣」
彼は少しだけ目を細めた。
その表情が、私の最強の結界だった。
そして、未来へ。
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます!
第3部「結界崩壊と国際会議編」最終話まで、アリアとセイジュの歩みを見届けていただけたことが、作者として何よりのご褒美です。婚約破棄の痛みから始まった物語が、ただの「ざまぁ」ではなく、守りたい人と場所を見つけて“未来へ選び直す”話として着地できたのは、読んでくださる皆さまの熱量があってこそでした。
もし少しでも「続きを追ってよかった」「この二人の距離感が好き」「結界×恋愛の組み合わせが刺さった」と感じていただけたら、ブックマークや評価でそっと背中を押していただけると、とても励みになります。感想も一言だけでも大歓迎です(好きな場面・推し台詞・気になった点など何でも!)。いただいた反応は次の更新の燃料になります。
この先は、結婚式の裏側や指輪の刻印の秘密、世界結界ネットワークの試運転で起きる小さな事件、そしてセイジュの独占欲が平時にどう暴走するのか……甘くて少し笑える番外編も書いていく予定です。アリアが「守る側」から「共に生きる側」へ変わっていく姿も、もう少しだけお付き合いいただけたら嬉しいです。
最後まで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。ありがとうございました!




