第93話 さよならのかわりに
最終話まで後2話!
アストリア王城の尖塔は、昔より少し低く見えた。
私が地面に立っていないから、という理由もある。
足元には、薄く光る膜。
結界の上空に浮かぶ飛行艇の甲板で、私は手のひらをかざし、王城前広場を見下ろしていた。
「……緊張しているか」
隣で、セイジュ様が静かな声を落とす。
「していません。たぶん」
「たぶんは禁止だ」
「いまそれ言うんですか」
口が勝手に軽口を返して、私は自分で自分に呆れた。
でも、こういうときほど、彼のいつもの調子が助かる。
甲板の向こうで、ノエルが計測器を抱えたままこちらをちらりと見て、親指を立てた。
ノエルは口だけ動かして、たぶんこう言っていた。
『先生、刺しに行かないで、刺し返されないでください』
失礼だけど、正しい。
私は笑って、指で小さく丸を作って返した。
大丈夫。今日は刺さない。きちんと、終わらせる。
つまり、投影の準備は完了。
逃げ道は、もうない。
……いや。
逃げ道を作るのが得意な私が、今日は逃げないだけだ。
思い出す。
玉座の間の重たい空気と、外庭の噴水の音。
あの日、私はセイジュ様に言った。
「もう、戻るつもりはありません」
彼は短くうなずいて、私より先に1歩だけ前へ出た。
私が逃げないように、ではない。
私が選んだ距離を、誰にも踏み荒らさせないために。
王城から使者が来たのは、戦いが終わって、条約文書に署名が入った翌朝だった。
正式な面会と謝罪を。
そして、感謝を。
地上に降りて、王家の前に立ってほしい、と。
その願いが、どれだけ重いかは分かる。
かつて捨てた相手が、世界を救った。
その現実を、目で見て、耳で聞いて、形にして残したいのだろう。
けれど私は、首を横に振った。
約束なので、とだけ言って。
私は1度、アストリアで言われた。
2度とこの国の土を踏むな、と。
その言葉は、私の背中を押してくれた言葉でもある。
だから私は、それを破らない。
破ってしまったら、あの日の私が、かわいそうだ。
「始めるか」
セイジュ様が私の手首にそっと触れて、魔力の流れを整えてくれる。
熱はないのに、触れられた場所だけ、妙に温かい。
「……はい」
私は息を吸って、吐いた。
結界に、ほんの少しだけ窓を作る。
窓の向こうに、私の姿を投げる。
光が集まり、空中に輪郭が浮かぶ。
結界投影。
いまの私は、王城前の空にいるように見えるはずだ。
広場には、人が揃っていた。
先頭に、国王陛下。
その隣に、レオン様。
少し後ろに、リリアナ様。
そして、私の両親。
父は背筋を伸ばし、母は手を胸の前で組んでいる。
……帰れないのに、帰ってきた気分になる。
最悪だ。
胸の奥が、少しだけ痛む。
「アリア・レイン殿」
国王陛下が膝をついた。
王が、王城前で。
それだけで、周囲の貴族たちが息を呑むのが分かった。
「この国は、あなたを利用し、追い出し、そして……その結果、民を危険に晒した」
陛下の声は震えていた。
「謝罪する。遅すぎると分かっている。それでも、言わせてほしい」
私は投影のまま、ゆっくり頭を下げた。
礼儀を失うのは、簡単だ。
でも、簡単な方を選ぶと、あとで自分が疲れる。
「謝罪を受け取ります、陛下」
声が意外と落ち着いていて、私は内心で少し驚いた。
「そして、条約に署名してくださったことも。あれは、国としての責任です」
国王陛下が顔を上げる。
まっすぐな目で、私を見た。
昔は、私を見ていなかった目だ。
次に前へ出たのは、父だった。
「アリア」
たったそれだけで、喉の奥がきゅっとなる。
父は不器用だ。
私も、似ている。
「よくやった」
父の声はいつも通り低く、短い。
「……そして、すまなかった。父として、国の代表として」
「お父様」
私は笑ったつもりだった。
でも、きっと、情けない顔をしている。
母が1歩だけ前に出て、涙を拭いながら言った。
「会えなくてもいいの。生きていてくれたら」
「お母様……」
「それに、あなたはもう、帰る場所を見つけたでしょう?」
母の視線が、私の背後の甲板へ向いた。
もちろん地上からは見えないはずなのに、分かった気がした。
私の世界の中心が、そこにあることを。
そして最後に、レオン様が前に出た。
顔色が、悪い。
疲れているのは当然だ。戦場にいたのだから。
でも、それだけじゃない。
彼の疲れは、もっと古いところから来ている。
「アリア」
呼び捨てにした声が、少し震えた。
「……1度だけでいい。直接会って、謝りたい」
レオン様は拳を握りしめた。
「俺は、ずっと……逃げた。都合のいい言葉を並べて、責任を押しつけて」
広場の空気が張りつめる。
きっと、ここで私が降りてしまえば、彼は救われる。
謝って、許されて、物語の主人公に戻れる。
でも、それは違う。
これは、彼の物語じゃない。
私の人生だ。
「……降りません」
私ははっきり言った。
レオン様の目が揺れる。
その揺れは、私の胸を少しだけ刺した。
それでも、言う。
「約束なので」
レオン様は、息を呑んだ。
そして、苦い笑いを漏らした。
「俺が言った言葉だな」
「はい」
「……2度とこの国の土を踏むな、って」
彼の喉が上下する。
自分の言葉が、自分を縛る瞬間。
私はそれを、ずっと待っていたわけじゃない。
でも、やっぱり、少しだけ、胸がすっとする。
リリアナ様が、そっと頭を下げた。
「アリア様。私も……謝りたいです」
「リリアナ様」
「私、あの頃、何も分かっていませんでした。泣けば守ってもらえると思って……」
「分かっています」
私は彼女を責める気になれなかった。
彼女は道具にされた。私も、道具にされた。
違うのは、私が壊れなかったことだけだ。
「これからは、あなたが学ぶ番です」
私はそう言って、ほんの少し微笑んだ。
「王妃でいるなら、泣くだけでは守れません。守る側になってください」
リリアナ様が唇を噛み、うなずく。
その横で、レオン様は、うつむいたままだ。
私は空を見上げた。
雲は高く、冬の青が澄んでいる。
この空の下で、私は何年も、国の盾として息をひそめていた。
もう、終わった。
私の役目は、アストリアの盾ではない。
最後に、私はレオン様を見た。
「レオン様」
「……なんだ」
声が掠れている。
「どうか、末永く後悔してください」
私は穏やかに言った。
「それが、私からあなたへの、最後のざまぁです」
広場の誰かが息を吸う音がした。
レオン様の顔が、歪む。
怒りではない。反論でもない。
ただ、痛みだ。
「……分かった」
彼はそれだけ言って、深く頭を下げた。
私は、もう言うことがなかった。
言い残したくないからこそ、ここへ来たのだ。
「お父様。お母様」
私は、最後に呼んだ。
「元気で」
父は、短くうなずいた。
母は、泣きながら笑った。
投影の輪郭が、ほどけていく。
光の粒が風に溶け、空に散った。
王城前広場には、私のいない光だけが残る。
そして私は、ちゃんと、いなくなる。
甲板の上に戻った私は、急に力が抜けて、膝をつきそうになった。
その肩を、セイジュ様が迷いなく抱いた。
「終わったな」
「……はい」
「よく耐えた」
「耐えたのは、セイジュ様です。私の面倒をずっと見てるんですから」
「それは当然だ」
「当然って」
笑いそうになって、私は鼻の奥がつんとした。
泣くのは、まだ下手だ。
でも、下手でもいい。
ここには、下手を許してくれる人がいる。
遠くで、王城の鐘が鳴った。
きっと、式典の合図だろう。
私のいない式典。
それでいい。
「アリア」
セイジュ様が、私の額に自分の額を軽く当てた。
「帰ったら、話の続きだ」
「……何の話ですか」
「求婚の返事を、もう1度聞く」
「またですか」
「何度でも聞く」
私はため息をついて、でも、頷いた。
「はい。何度でも言います。喜んで」
飛行艇が旋回し、アストリアの空が遠ざかっていく。
さよならのかわりに、私は未来を選ぶ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
アリアが「さよなら」を終えて「未来」を選べたのは、読んでくださる皆さまのおかげです。
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