第91話 戦後交渉の席
最終話まで後4話!
戦いが終わった、と口で言うのは簡単だ。
だが、終わったあとに残るものは、いつだって面倒で、重い。
連合軍の浮遊指揮艇は、王都の外縁をゆっくり旋回していた。
甲板に張られた大きな天幕。そこが今夜の簡易会議室だ。
床板の下に地面はない。だから、あの女は約束を破らずに済む。
天幕の中は、血と煙の匂いがまだ薄く漂っていた。
外では兵が笑い、泣き、抱き合っている。歓声は幾度も波のように押し寄せて、布の壁を震わせる。
そのたびに俺は、机の上の羊皮紙が揺れないよう、文鎮を軽く押さえた。
紙の束の角を揃えながら、ふと、嫌な記憶がよぎる。
婚約破棄のときだ。
アリア・レインは、たった1つだけ求めた。
口約束ではなく、文書。王太子が署名し、王家が認める形での解消。
あの時、アストリアはそれすら渋った。
今夜、アストリアが署名するのは、1枚ではない。
国の未来と責任を、何枚もの条文で縛る紙束だ。
皮肉というには生ぬるい。歴史の意趣返しだ。
「宰相閣下、最終案です。議長と各国代表の仮署名も揃いました」
書記官が差し出した束を受け取る。
紙の端に、赤い蝋で押された印。セルジュ議長の確認印。北方代表の乾いた署名。南方代表のやけに軽い署名。
そして最後の空白だけが、やけに白い。
そこに入るのは、アストリア王国王太子、レオン・ルクスリアの署名だ。
「……よくまとめた」
「閣下の修正が早すぎて、こちらが追いつきません」
「追いつけ。俺の胃が先に限界だ」
小声で返すと、書記官が笑いを噛み殺した。
笑いが許されるのは、こういう薄暗い場所だけだ。
席順は、意図的に組んだ。
正面にレオン。隣に王妃リリアナ。少し後ろにアストリア国王の代理として老臣。
そして反対側に、ガルディア魔導師団長セイジュ・アルバート。
セイジュの隣には、レイン伯爵。背筋を伸ばしているが、その指先は硬い。
最後に、部屋の端。
椅子に深く座り、淡い毛布を肩に掛けられた女性がいる。
アリア・レイン。
今この戦場を救った結界の中心でありながら、政治の中心からは、少しだけ離れている。
セイジュが彼女の背後に立つ。
誰にも触れさせない距離。だが、彼女が少し揺れると、迷いなく手を伸ばして支える。
合理主義の塊みたいな男が、今は独占欲を隠そうともしない。
隅の方で、魔導具班の少年が投影機の調整をしていた。
ノエルは徹夜の目をしているくせに、動きだけは機械みたいに正確だ。
「始めるぞ」
俺が言うと、場の空気が一段冷える。
敵が消えた瞬間から、人はまた別の敵を探し始める。
だからこそ、先に文字で縛る。
「では、戦後処理会議を開始します」
俺は椅子の背から身を起こし、声を整える。
「確認事項は4点。第1に、アストリア大結界システムの扱いです」
俺が指を鳴らすと、ノエルの投影機が淡く光り、空中に地図が浮かんだ。
大結界の残存ライン。崩れた箇所。アリアが上空から張り直した臨時結界の輪。
数値が並ぶたび、アストリア側の老臣が顔を青くする。
「本日より、アストリアの旧式中枢は停止。稼働は臨時結界と、国際管理下の新制御網へ移行します」
「それは……王家の権限を、他国に渡すということか」
老臣が掠れた声で言った。
レオンが、首を振る。
「渡す。いや、返すべきだ」
「殿下……」
「守れなかった。だから、守れる形にする。俺の意地は、国民の命より下だ」
短いが、ちゃんとした言葉だ。
以前の彼なら、喉の奥で噛み砕いて飲み込んでいた類の言葉だろう。
「第2に、監督体制。結界運用評議会を設置し、議長都市レオニアが事務局を担う。座席は7。ガルディア、アストリア、北方連合、南方海商国家、中央諸国、レオニア、そして技術監査枠です」
「技術監査枠とは」
「魔導師が入ります。政治家だけに魔力の命綱を握らせないためだ」
ここで、アリアが目を開けた。
俺の方ではなく、浮かぶ地図の歪みを見ている。
「……監査枠の選定は、恣意的になりやすいです」
彼女がぽつりと言う。
声は細いのに、揺れない。
「だから、候補は複数国推薦。拒否権は持たせない。代わりに、監査報告は全公開だ」
「なら、最低限は」
アリアはそれ以上、言わない。
助言はするが、決定には乗らない。線引きが鮮明だ。
「第3に、技術主導国。ガルディアが設計と運用の責任を担う。これは会議で合意済みです」
「ガルディアが……」
南方代表ロドリゴが肩をすくめる。
「儲け話があるなら、みんな目の色が変わる。いいことだ」
「黙っていてくれ、ロドリゴ」
「はいはい。真面目な顔は胃に悪い」
場が少し緩む。
緩んだところで、締める。
「第4に、レイン家とアリア・レインへの謝罪と褒賞」
レイン伯爵の目が、わずかに細くなる。
この場で彼が望むのは、情緒的な拍手ではない。国としての言葉と、形だ。
「アストリアは、レイン家を功労者として公式に認定し、爵位を昇格させる。加えて称号を贈る。補償金と研究支援金も条文に明記します」
「称号……?」
リリアナが小さく息をのむ。
ここで、レオンが立ち上がった。
膝が少し震えていたが、それでも、真正面から言う。
「俺から提案する。レイン家に、国の盾の称号を」
「……」
「大結界を張っていたのは、王家ではない。レイン家だ。特に、アリア・レインだ」
老臣が止めようとする。
「殿下、それは王家の威信が」
「威信で国民は守れない」
レオンは視線を逸らさない。
「俺は、あの人を便利だと笑った」
「……」
「そして、捨てた。その結果を、今、見た」
その言葉は、戦場の歓声より静かで、だからこそ刺さる。
レイン伯爵は、何も言わない。言わないまま、背筋だけがより真っ直ぐになる。
俺は書類を机の中央へ滑らせた。
インク壺と羽ペン。署名欄。複数の印章欄。
「以上を条文化し、各国の監督体制を付す。署名は、まずアストリア王太子から」
「……分かった」
レオンが椅子に戻り、ペンを取った。
ペン先が紙に触れた瞬間、布越しに外の風が吹き、天幕が揺れた。
インクの匂いが立つ。
レオンの手は一度止まる。
その沈黙の間に、俺は思う。
これは謝罪の署名ではない。
責任の署名だ。
そして、二度と同じ過ちを繰り返さないための鎖だ。
レオンは深く息を吐き、名前を書いた。
レオン・ルクスリア。
たったそれだけの線で、国が動く。
人は血を流して戦い、最後は、線を引いて終える。
「確認します。署名は有効です」
議長が淡々と言う。
続いて、国王代理、王妃、そして各国代表が順に署名を重ねていく。
最後に、俺がガルディア宰相として署名した。
筆圧は強く。読み違えの余地がないように。
署名が終わり、議長が封蝋を落とし始めた頃。
レオンが、アリアの方へ視線を向けた。
「アリア・レイン。……礼を言いたい」
「礼は、もう受け取りました」
彼女は静かに言った。
「私は、技術顧問です。結界と仕組みの話はします」
「……」
「でも、政治の決定は、あなた方の責任です。私の名前で、都合よく清算しないでください」
空気が、凍る。
だが、凍っていい。むしろ、その方が安全だ。
セイジュが、彼女の肩に掛けた毛布を少し直す。
指が触れる時間は短い。けれど、そこにある独占欲は、隠しようがない。
セイジュが俺にだけ聞こえる声で言う。
「……追い詰めるなよ」
「追い詰めているのは誰だ」
「俺も、世界も、全部だろうが」
そう言って、彼は口を閉ざす。
珍しく感情が滲む。これも戦後の副作用か。
レオンが、苦く笑った。
「俺は、都合よく使うことしか知らなかった。今さらだが、学ぶ」
「学ぶのは結構です。国として、忘れないでください」
「忘れない。文書にした」
彼が机の上の条文を見た。
自嘲でも、皮肉でもない。確認だ。
俺はそこで、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
この女は、もう戻らない。
戻らないまま、必要なところにだけ手を伸ばす。
それを許す土台を、俺たちは今、紙の上に作った。
外から、また歓声が上がった。
誰かが歌い始め、すぐに拍手が混ざる。
戦いの終わりを祝う音だ。
俺は、書類の束を丁寧に揃え、封を確認した。
「これで、国と人の落とし前はついた」
口にしてみると、意外と苦い。
落とし前など、つくはずがないのに。
それでも、つけたことにしないと、明日が来ない。
だから俺は立ち上がり、会議を締めた。
「各国は今夜中に写しを持ち帰れ。明日からは運用だ。感傷は後に回せ」
そう言う俺の声は、いつも通り冷たかった。
だが、胸の奥でだけ、ほんの少し熱が残っている。
この紙切れが、世界の首をつなぐ。
あの女が、もう二度と同じ目に遭わないための鎖にもなる。
俺は、最後にもう一度だけ、アリアの方を見た。
彼女は目を閉じ、セイジュの影の中で、静かに呼吸していた。
戦場の勝者は、いつだって疲れている。
そして、勝者が疲れた分だけ、俺たちは働く。
そういう役回りだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
戦いの「後」にこそ物語の牙があります。署名で縛った約束は、次話で代償と“甘い救済”に化ける予定です。
セイジュの独占欲が思わぬ形で露わになり、アリアは自分の居場所を選びます。レオンの償いも、まだ始まったばかり。
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