第90話 静寂と歓声
最終話まで後5話!
白い光が、まだ瞼の裏に残っている。
耳の奥で、きいん、と細い音が鳴っていた。焦げた匂い。冷えた風。空中指揮艇の甲板が、ゆっくり揺れる。
光の中心にいた記憶は、ところどころ欠けている。
結界の式が、ぎし、と音を立てて軋んだ瞬間。私は倒れかけて、誰かの腕に引き寄せられた。
熱い。冷たい。重い。軽い。
相反する感覚が一斉に流れ込む。
セイジュの魔力だった。
圧縮された雷みたいな魔力が、私の回路に滑り込み、結界の網へと一気に広がった。怖いくらいに正確で、怖いくらいに優しい流れ方で。
だから、私は最後に笑ってしまったのだと思う。
こんな状況で、安心してしまった自分が、少し悔しくて。
「……アリア」
名前を呼ばれて、私はようやく自分が誰かに抱えられていると気づいた。
「セイジュ……?」
「無理に起きるな。まだ、戻っていない」
「戻っていないのは、たぶん私の足です」
口が勝手に軽口を吐く。つまり生きている。
セイジュの腕は、いつもより強かった。逃がさない、というより落とさない、の方。
ふ、と風向きが変わった瞬間。
下から、音が来た。
……わああああっ。
地鳴りみたいな歓声。
次いで、角笛。剣の柄を打ち鳴らす金属音。泣き声まで混ざっている。
戦場が、いきなり祭りみたいになっている。
でも祭りの音って、だいたい哀しみも一緒に連れてくる。
「……勝った、の?」
私が言うより先に、ノエルが転がるように駆け寄ってきた。首から下げた計測器を、私の顔の前に突きつける。
「勝ちました。たぶん。数値的に」
「たぶん、って」
ノエルは真顔で、指先で水晶盤を叩いた。
「結界強度、安定。歪み、許容範囲。瘴気侵入度、ほぼゼロ。つまり、たぶん勝ちです」
「今の状況で、たぶんを残すの、好きね」
「嫌いです。でも、現場はだいたい、たぶんで動くんですよ」
背後で、リゼットが乾いた笑いを漏らした。
「ノエルのたぶんは、信用していい。こいつが不安がるときは、数字が嘘をついてるときだけだ」
「やめてください。余計に怖い」
カイルが甲板の端から顔を出した。
「団長、周辺の残敵反応はなし。ただ……瘴気の残留が北側に濃い」
「把握した。封鎖は続行だ」
セイジュの声は、戦闘の熱をまるごと凍らせるみたいに冷静だった。
こういうところが、前線の人たちにとっての救いなのだと思う。誰かが揺れないと、全員が倒れる。
私は肩だけ笑いながら、甲板の縁に視線を滑らせた。
白光が引いた空の下、平原には、黒い残骸が散っていた。さっきまで動いていたものが、動かないものになった跡。煙が、細く上にのぼっている。
そして。
王都ルクスリアは、そこにあった。
壊れかけた城壁も、焼けた外郭も見える。だけど、崩れていない。
街全体を覆うように、淡い光の輪が外側からかぶさっている。私が、外から投げ込んだ新しい殻だ。
外殻層。緩衝層。内側保護層。
名前を付けると急に冷たいけれど、これはただの技術じゃない。今、あの街で泣いて笑っている人たちの、薄い布団みたいなものだ。
「……ああ」
息が、ようやく落ちた。
胸の奥の硬いものが、少しだけ溶ける。
「見えるか」
「見えます」
セイジュが、私の背に手を回して身体を支えたまま、城の方角を指す。
王城のバルコニーに、人影があった。距離は遠い。けれど、ノエルが計測器の補助機能を起動すると、光の輪の内側が少し拡大された。
王冠の影。
そして、その隣に立つ、見慣れた姿。
「……レオン様」
声に出してしまった瞬間、自分でも驚いた。
嫌悪でも憎しみでもない。たぶん、名前としての習慣だけが残っていた。
バルコニーの上で、レオンは空を見上げていた。
きっと、私が張った光の輪を。
頬を伝うものが、陽にきらりと光った。涙だ。
あの人は、今さら理解したのだろう。
守ってくれたのは、我が国の大結界ではない。
捨てたはずの魔導師が、外から作った結界だ。
そして私は、あの国の土を踏まない。
そう決めたのは、私で。
そう言い切らせたのは、彼だった。
二度とこの国の土を踏むな。
あの言葉は、私の足枷じゃない。私の盾になった。国が頭を下げる場所を、ちゃんと作ってくれたから。
胸が、痛むわけじゃない。
ただ、乾いた音がする。因果が、遅れて追いついてきた音。
「……見なくていい」
セイジュが、低い声で言った。
私の視界に、黒いローブの肩が少しだけかぶさる。盾みたいに。
「いいえ。見ます」
私は、その肩越しにもう1度、バルコニーを見た。
王も、そこにいる。背中が小さく見える。
王は、手すりに両手をついて、長く息を吐いていた。
その姿だけで、国の重さが分かる。
……私が背負う重さとは、別の種類の。
私は結界の外側にいる。
でも、あの街の空気の震えは、結界を通して伝わってくる。歓声の波が、光の輪に触れて揺れる。まるで水面みたいに。
遠い地上で、誰かが空を指さした。
たぶん、指揮艇を見つけたのだろう。
私は、指先だけ動かして、光の輪の一部に小さな点を灯した。揺らめく星みたいに。
届くかどうか分からない。
でも、見上げた人の目に入ればいい。
「アリア」
セイジュが私の額に、自分の額を軽く当てた。
「終わったか」
「戦いは、たぶん」
「ノエルの真似をするな」
「……終わりましたね」
私が言うと、セイジュは少しだけ目を細めた。
笑っているのか、苦いのか、いつも判断が難しい。
「終わらせた。おまえが」
「半分は、あなたです。さっき、魔力を預けてくれたでしょう」
セイジュの喉が、わずかに鳴った。
「貸しただけだ。返せ」
「今ここで?」
「冗談だ。半分だけな」
「その言い回し、まだ使うんですね」
その瞬間、私の身体がふらついた。
セイジュの腕が、すぐに強くなる。
「ほら」
「……すみません」
「謝るな。働きすぎだ」
「言われたくない人ランキング、1位です」
リゼットが、わざとらしく咳払いをした。
「団長。いちゃつくなら、あとにしてください。負傷者の回収が始まります」
「いちゃついてない」
セイジュが即答した。私は危うく笑いそうになる。
甲板の向こうで、救護班の合図灯が点った。
地上では、兵士たちが動き出している。倒れた仲間を担ぎ、魔導師が簡易治癒をかけ、騎士が瓦礫をどかす。歓声は、まだ続いていた。勝利の叫びと、生き残った安堵と、失ったものの嗚咽が混ざった、ぐちゃぐちゃの音。
私は通信の水晶を探し、胸元の小さな耳飾りに指を当てた。
「王都城壁上のレイン伯爵へ。聞こえますか」
1拍おいて、ざらりとした雑音の向こうから父の声が返る。
『聞こえている。……よく、やったな』
短い。だけど、父らしい。
私は喉の奥が少しだけ熱くなるのを、無理やり飲み込んだ。
「そちらは」
『生きている。おまえの結界が、守った』
「父の盾も、守りました」
『……ふん。なら、これで貸し借りなしだ』
貸し借りの計算で済む話じゃないのに。
でも、父はこういう言い方でしか、優しさを出せない。
「お父様、無茶はしないで」
『おまえが言うな』
私は小さく笑って、通信を切った。
「アリア、結界、通路を」
「はい。内側の第2層、南門方向だけ開けます」
私は目を閉じ、魔力の流れを頭の中で地図にする。
光の輪は、1枚の膜じゃない。緩衝層、誘導層、保護層。必要なところだけ薄くし、必要なところだけ固くする。
南門から、救護班と補給が入る。
北側は、まだ閉じたまま。残り火のような瘴気が、遠くの谷に渦巻いている。
「……残ってる」
小さく呟くと、ノエルが即座に反応した。
「残ってます。瘴気の濃度、通常の3倍。核が砕けても、地形にしみた分が戻ってきます」
「つまり、油断すると、また出る」
「はい。だから、たぶん、まだ終わってません」
私は目を開けて、セイジュを見上げた。
「……帰れませんね」
「帰る。帰らせる。今日中に、最低限の封鎖まで済ませる」
短い言葉。けれど、私の身体の芯に、真っすぐ入ってくる。
セイジュは自分の外套を外し、私の肩にかけた。
黒い布が、夜みたいに熱を吸って、私の体温を守る。
「歩けます」
「歩かせない」
「過保護です」
「今だけだ。……いや、違うな。ずっとだ」
不意打ちで言われて、私は言葉を失った。
リゼットが背中で、あからさまに笑っている気配がする。ノエルは絶対に今、数値以外のものを計測している。
「セイジュ」
「何だ」
「……ありがとう」
言った瞬間、自分の顔が熱くなるのが分かった。戦場で言う言葉じゃないのに。
でも、戦場だからこそ、言うべきだ。
セイジュは、少しだけ視線を逸らした。
「礼は、あとで」
「あとで、って」
「生きて戻ったら、好きに言え」
ずるい。
それ、約束みたいじゃない。
下で、また歓声が上がる。
王都の上空に、光の輪が静かに回っていた。風に揺れず、魔物の鳴き声にも揺れず、ただそこにある。
私はセイジュの腕の中で、もう1度だけ深く息を吐いた。
「……終わりましたね」
今度は、自分に言い聞かせるみたいに。
セイジュの返事は、短かった。
「ああ」
ここまでお読みいただきありがとうございます!
外殻結界は張れましたが、瘴気の残り火とその裏で動いた手はまだ消えていません。過保護な魔導師団長セイジュとアリアの距離も、戦いの後ほど加速します。
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