第89話 最後の波
最終話まで後6話!
空中指揮艇の床が、微かに震えている。
風が強い。甲板の結界が風圧を散らしても、鎧みたいな冷気が肌に張り付く。
窓の向こう、平原は黒い。
魔物の群れが、影を重ねて波みたいにうねっている。王都の城壁はまだ立っている。だが、誰の顔にも余裕はない。勝てるかどうかではない。どこまで死者を減らせるか、そんな目だ。
俺は作戦卓を離れ、計測器の横に立つノエルを見た。
「数値は」
「第1リング、強度47。第2リングは56。第3リングは……」
ノエルが言いよどむ。
「主任の魔力残量、推定8。回復が追いついてない。これ、普通なら失神します」
隣で、アリアが地図盤を見つめていた。
指先が空中に浮かぶ結界図の線をなぞる。線が揺れるたび、彼女のまつ毛がわずかに震える。
結界は3重。外壁を守る第1、市街を守る第2、最後の避難区画を守る第3。
外が削られても内へ逃げ込むほど硬くする。彼女が作った設計だ。理屈は美しい。運用は地獄だ。
「北東、もう1段……薄くして、緩衝層を削って」
「それ以上削ったら、第2の内側が痛む」
俺が言うと、アリアは笑うふりをした。
「大丈夫です。痛むのは、結界の方ですから」
ああ、そういう言い方をする。
自分の限界だけは、計算に入れない。
通信魔導具が鳴った。
カイルの声だ。前線にいる。
「団長! 北西、抜けます! あいつら、結界の薄い所だけ嗅ぎ分けて来てる!」
「嗅ぎ分けてるんじゃない。瘴気が流れてる所へ集まってる」
俺は視線だけでアリアに確認した。
彼女は小さく頷く。分かってる、という顔だ。
「カイル、無理に押すな。第2へ下げろ」
「下げたら民が!」
「下げなかったら全員死ぬ。選べ」
沈黙のあと、カイルが歯を食いしばった声で返す。
「……了解。第2に誘導する。団長、主任を頼みます」
「言われるまでもない」
外で警鐘が鳴った。指揮艇の側面を、何かが叩いた衝撃が伝わる。
瘴気の塊だ。第88話で城壁側が弾き返したやつより、さらに重い。ぶつかった場所の空気が、一瞬だけ黒く染まった。
リカルドの通信が割り込む。声が掠れていた。
「団長、来た。最後の波だ。今までの比じゃない。数も質も」
「分かってる。引くな。引いたら王都が割れる」
「了解。……ったく、現場の胃がもたん」
ノエルが唇を噛む。
「主任、再配分、間に合いますか」
「間に合わせます」
アリアは即答した。即答しすぎて、怖い。
俺は彼女の横顔を見た。
唇の端が白い。呼吸が浅い。指先が震えているのに、目だけは平然としている。
その平然が、俺の神経を逆撫でする。
次の瞬間、彼女の肩が小さく跳ねた。
結界図の線が、ふっと暗くなる。
「……っ」
声にならない息。膝が折れかけ、アリアの身体が前に傾く。
俺は反射で腕を伸ばし、彼女の腰を支えた。
軽い。こんなに軽かったか、と一瞬思ってしまうくらい。
「アリア」
「平気、です」
「その顔で言うな」
彼女の指先はまだ空を掴もうとしている。
結界を離したら、下が死ぬ。分かってる。だから、握り続ける。
その強さに、腹が立つ。惚れてるから、もっと腹が立つ。
俺の脳裏に、昔の光景がよぎった。
国境で初めて会った時。彼女は結界の内側で、誰にも気づかれないように魔力を流し続けていた。
俺がSランクを潰しても、彼女は自分の仕事の方が先だと言った。
あの時から、ずっと同じだ。
「少し、預けろ」
俺は彼女の背に手を回し、胸元の魔導核に自分の魔力を集めた。
アリアが目を見開く。
「だめです。セイジュは、攻撃に」
「黙れ。俺の魔力は俺が使う」
「でも、あなたの魔力は破壊向きで」
「破壊向きだから何だ。整えればいい」
ノエルが焦った声を出す。
「団長、それ、暴発したら結界ごと割れますよ!」
「割れないようにする。おまえ、流路の弁を開けろ。主任の式に合わせて」
「無茶だ……いや、無茶が標準でしたねこの2人」
俺は短い詠唱で、自分の魔力を結界系の流路へ落とし込む。
破壊向きの魔力を、防御に回すのは相性が悪い。普通なら弾かれて終わる。
だが、俺たちは普通じゃない。
何年も、同じ机で、同じ地図を見て、同じ結界をいじってきた。
アリアの式は、俺の魔力が通れるように調整されている。
いや、正確には。
俺の魔力が通るように、彼女が自分を削って仕込んでいた。
魔力が触れた瞬間、熱い痛みが腕を走った。
拒絶じゃない。調律だ。
俺の魔力が、アリアの魔力の波に合わせて削られていく。角が取れ、形が整い、結界の織り糸に変わっていく。
「っ……!」
アリアが息を呑み、俺の腕を掴んだ。
指先が冷たい。なのに、魔力だけは熱い。
「合わせるな。俺が合わせる」
「そんな、乱暴な」
「俺は元々、乱暴だ」
俺が言うと、アリアはかすかに笑った。
その笑いが、今の俺には救いみたいに響く。
ノエルが計測器を叩くように見て叫ぶ。
「同調率、68……72……え、上がり方おかしい! これ、理論上の上限、超えてる!」
彼がこちらを見る。目が妙に輝いていた。
「団長と主任、魔力的にはもう夫婦ですよね」
「今それ言うな」
「現場の士気が上がるので言います。兵の方が恋愛で燃えるんです」
「燃やす方向が違う」
「でも、燃えてます。数値が」
アリアが赤くなりかけて、でもすぐに唇を結んだ。
赤くなる余裕があるなら、まだ戦える。そう思う自分が嫌になる。
外の景色が、黒で埋まっていく。
最後の波は、単なる群れじゃない。
瘴気が固まり、肉が絡み、いくつもの魔物が溶けて一つの塊になったみたいな、汚い嵐だ。
あれが城壁に当たれば、押し潰す。
結界に当たれば、削り取る。
そして、削り取った分だけ、さらに濃くなる。
「団長、撃てますか!」
別の通信。砲台班だ。
俺の得意な殲滅魔術なら、あの嵐を一時的に散らせる。だが、今俺が魔力を引いたら、結界が薄くなる。
「撃たない。今は結界優先だ」
「了解……っ、くそ!」
アリアが喉の奥で息を整えた。
「第1リング、耐えます。第2リング、薄くして……第3リングに流します」
「俺の分も使え。遠慮するな」
「遠慮ではなく、計算です」
「なら計算しろ。俺の魔力も、おまえの資材だ」
彼女が一瞬、俺を見上げた。
戦場の風音の中で、目だけが静かだった。
「……分かりました。借ります」
「返すな。返すなよ」
「そこは返します」
くだらない会話をしているのに、手の中の魔力は真剣に絡み合う。
2つの流れが、1つの太い川になる感覚。
結界図の線が、暗い青から白へ変わっていく。
第1リングの裂け目が塞がり、第2リングの薄い部分が滑らかに繋がる。第3リングは、最後の砦として、厚みを増した。
指揮艇が、また揺れた。
窓の外で、黒い嵐がこちらへ跳ね上がる。
その瞬間、アリアが俺の胸に額を預けた。
「少しだけ……立っていられません」
「倒れるな。俺が立たせる」
「なら、支えてください」
「最初からそうしてる」
俺は彼女の背を抱えたまま、魔力の流路をさらに開いた。
痛みが増す。だが、痛みの向こうで、結界が鳴る音が変わる。
軋みじゃない。整列する音だ。鎖がきしむ音が、糸が張る音に変わる。
下の王都が、光を帯び始めた。
城壁の上に立つ人影が、白い輪の中で小さく見える。
レイン伯爵が、あの盾を維持しているのが分かった。あの家の魔力は、迷いがない。父の盾と、娘の殻が、同じ方向を向いている。
黒い嵐が、結界の最外殻にぶつかった。
音が消える。
消えたあと、光だけが残った。
アリアの魔力と俺の魔力が、境目を失う。
身体の中で、心臓が2つあるみたいに脈打つ。
怖い。気持ちいい。どっちも本当だ。
ノエルが震える声で言った。
「主任、団長、いけます。第1リング、強度91。第2も88。第3、99……これ、都市結界の限界値ですよ」
「限界なら、塗り替える」
俺が言うと、アリアが小さく頷いた。
その頷きが、合図になった。
「最後の波を、押し返します」
「押し返すんじゃない。光で、上書きする」
俺たちは同時に息を吸った。
アリアが結界式の終端を閉じ、俺が魔力を一気に流し込む。
流し込むというより、預ける。彼女の式に、俺の全部を一瞬だけ乗せる。
光が膨らむ。
白い波が、黒い嵐を飲み込む。
視界の端から端まで、白になる。
俺の腕の中で、アリアの体温だけが確かだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
アリアと団長が同じ光で最後の波を押し返す瞬間、書いていてこちらまで息が止まりました。
次話は――戦いの代償と、2人だけの「約束」をはっきり形にします。
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