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「連載版」婚約破棄された令嬢ですが、この国の大結界を張っていたのは私なので、隣国の魔導師団長にスカウトされました  作者: 夢見叶
第3部 結界崩壊と国際会議編  第12章 大規模侵攻と二国連合戦

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第88話 レイン家の盾

 城壁の上は、風がうるさい。

 いや、風だけじゃない。遠くで魔物が吠え、鐘が鳴り、兵が叫ぶ。石の上を走る靴音が、私の胸の奥まで響く。


 私はレイン伯爵だ。

 そして今夜だけは、ただの貴族ではいられない。


 王都ルクスリアの外、黒い霧が波のようにうねっていた。

 瘴気が、塊になっている。空気が重い。目の奥が痛む。


 城壁の内側で、民が祈っているのが分かる。

 神殿の鐘が、怯えを隠すように鳴り続けていた。


「伯爵閣下、北東が薄いです!」


 副官の声に、私は頷いた。

 地図の上で視線を滑らせ、結界計測器の針を見る。針は狂ったように揺れ、赤い線が増えていく。


「北東の第3支柱、修復班を回せ。弓兵は密度を上げろ。魔導師は私の合図まで温存だ」


 命令を出しながら、私は自分の掌を見た。

 震えてはいない。震える暇がない。


 城壁の下から、老人の咳が聞こえた。

 振り返ると、宮廷魔導師長が杖をついて上がってくるところだった。額には汗。ローブは泥に汚れ、足取りは重い。


「伯爵……まだ、持ちますか」

「持たせる。あなたは王城側の臨時結界へ」

「……あの光は、確かに」


 魔導師長は言葉を飲み込んだ。

 彼は昔から、娘の価値を知っていたはずだ。

 知りながら、止められなかった。だから今、彼の目は痛々しいほど正直だ。


「娘が来ています」

「……っ」


 魔導師長の肩が震えた。

 私は視線を外へ戻す。感情を取り扱うには、戦場は忙しすぎる。


 かつて、私はこの国の大結界の一部を担っていた。

 正確には、担わされていた。

 レイン家の血が、魔力回路が、王家の誇りを支えるために使われるのは当たり前だと、思い込まされていた。


 夜半、地下の中枢室へ降りる。

 冷たい空気。古い刻印。光る水晶。

 そこに魔力を注ぐとき、いつも手が焼けるように痛んだ。

 それでも、王家は言った。

 よくやった、と。

 それで十分だと。


 だが本当は、十分ではなかった。

 王家の言葉は、娘の眠れない夜を支払うための通貨ではない。


 その重荷のほとんどを、娘が引き受けていたと知った日のことを、私は一生忘れない。


 娘は今、この城壁の上にはいない。

 この国の土も踏んでいない。

 それでも、娘の魔力は、ここに届いている。


 城壁の外側で、巨大な瘴気塊がうごめいた。

 まるで巨大な獣の肩が隆起するみたいに、霧が盛り上がる。


「来るぞ!」


 私は杖を掲げた。

 短い詠唱でいい。大結界の儀式みたいな長い言葉は、今はいらない。

 必要なのは、守る意思と、回路の正確さだ。


 石の上に、私の魔力が走る。

 城壁に刻まれた古い刻印が、淡く光る。レイン家の印だ。


 だが、瘴気は賢い。

 ただ押し寄せるだけではない。城壁の端を探るように、霧が細く伸びてくる。

 触れた石が黒ずみ、兵の盾が嫌な音を立てて軋んだ。


「副官。盾兵を下げろ。腐食が速い」

「了解!」


 魔導師たちが魔力を上げ、浄化の光を散らす。

 それでも、霧は笑うように濃くなる。


 その瞬間。

 耳飾りが、熱を持った。


 通信魔導具。

 娘の声が、雑音を裂いて届く。


「お父様。無理をしていませんか」


 いつもの、落ち着いた声。

 戦場の上でも、研究塔の机の前でも、同じ温度で言葉を置ける娘の声。


「無理をするのが仕事だろう」

「それは私の台詞です」


 思わず、笑いそうになった。

 笑う場面ではないのに、胸の奥が少しだけ軽くなる。


「結界の薄い場所、分かりますか」

「北東だ。第3支柱」

「了解。そこへ流します。お父様は、城壁の刻印を起点に」

「……上から見えているのか」

「はい。見えます。ずっと」


 最後の一言が、胸に刺さった。

 娘はずっと見ていたのだ。

 私が黙って背を向けてきたものも、私が守ろうとして失敗したものも。


 瘴気塊が、城壁へと伸びた。

 黒い腕。いや、腕に見えるだけの霧の圧力。

 触れた瞬間に腐らせるような、嫌な気配。


「レイン伯爵閣下!」

「分かっている」


 私は地面に杖先を突き立てた。


「盾形。緩衝層を厚く。外殻は反転位相で弾け」


 自分でも驚くほど、言葉が滑らかだった。

 昔、娘が結界を調整している背中を見ながら、理解できないふりをしていた理屈。

 今は、理解しなければ死ぬ。


 城壁の外側に、光が立ち上がる。

 薄い金色の膜。

 だが、次の瞬間、その膜の上にもう一枚、透明な層が重なった。


 私の魔力ではない。

 あまりにも、よく知っている質だ。


「……来たな」


「来ています。私の結界を、お父様の防御に重ねます」


 娘の言葉が終わる前に、瘴気塊がぶつかった。


 ガラスが割れるような音。

 いや、割れない。

 音だけが割れ、膜は耐えた。


 衝撃が城壁の石を震わせ、兵がよろめく。

 それでも、膜は沈まない。


 私の盾と、娘の遠隔結界が、噛み合っている。


 城壁の上を走る魔力の流れが、一本の川みたいに揃っていく。

 結界の縫い目が消える。

 境界が、ただの境界ではなくなる。


「お父様、回路を合わせて。私の流路に、少しだけ寄せてください」

「命令される歳でもないが」

「なら、お願いです」


 その言い方はずるい。

 私は短く息を吐いて、魔力の出力を変えた。


 すると、膜が鳴いた。

 鐘ではない。金属でもない。

 魔力が同調したときだけ出る、澄んだ共鳴音。


 兵たちが顔を上げる。

 誰かが小さく呟いた。


「……レイン家の盾だ」


 その言葉が広がる前に、瘴気塊がもう一度、全身で突進してきた。

 今度は、ただ弾くだけでは足りない。

 押し返さねば、次で破られる。


「アリア、押し返せるか」

「できます。お父様が、支えてくれれば」


 私は答えを聞く前に、決めた。

 娘がこの国を守るために自分を削っていた頃、私は父として何をしていた。

 今さら悔やんでも遅い。

 なら、今やれることをやる。


「全員、伏せろ! 私の合図で結界に魔力を流せ!」


 兵たちが身を低くする。

 魔導師たちが息を揃える。


 私は杖を高く掲げた。

 娘の魔力の流れに、自分の回路を重ねる。

 父の盾としてではない。

 同じ家の魔導師として。


「今だ!」


 城壁の刻印が一斉に光った。

 私の魔力と、娘の魔力が、同じ方向へ跳ねる。


 膜が、外へ膨らむ。

 黒い塊を押し返す。

 そして、反転位相が噛み合った瞬間、瘴気塊は自分の重さに耐えきれず、弾かれた。


 黒い霧が空に散り、風に裂かれる。

 城壁の上に、しばらく静寂が落ちた。


 誰かが、息を吸う音がした。

 次の瞬間、歓声ではなく、安堵のざわめきが広がる。


「今のうちに修復を。支柱の刻印を塗り直せ。石灰と魔力粉を混ぜろ、急げ」


 私は叫び、走る者たちを見送った。

 魔導師長がこちらへ近づき、震える声で言う。


「伯爵……あなた方は、まだ」

「まだ終わりではない。だが、折れない」


 私は耳飾りに指を当てた。


「よく、ここまで来たな」


 たったそれだけで、喉が熱くなる。

 父として言うべき言葉は山ほどあるのに、戦場の言葉しか出てこない。


 娘は少し間を置いて、静かに返した。


「お父様こそ。……ここにいてくれて、ありがとうございます」


 私は目を閉じた。

 城壁の外には、まだ瘴気がある。

 戦いは終わっていない。

 だが、今夜だけは確かに思える。


 レイン家は、王家の道具ではない。

 誰かに捧げるための血ではない。


 守りたいものを、自分で選ぶための盾だ。


「次は、もっと大きい波が来ます」


 娘の声が、少しだけ低くなる。

 いつも淡々としている娘が、疲れを隠しているのが分かる。


「魔力は持つのか」

「持たせます。……セイジュ様も、近くにいますから」

「そうか」


 あの男の名を聞くだけで、妙に安心してしまう自分が悔しい。

 だが、悔しがっている場合ではない。


「アリア」

「はい」

「今度は、おまえに言う。無理をするな」

「……努力します」


 短い返事。

 その裏にある頑固さも、優しさも、私は知っている。


 次の波が来る前に、私は杖を握り直した。


 娘の魔力と、私の魔力が、まだ同調している。

 その感覚が、頼もしくて、少しだけ怖いほどだった。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます! 


 父・レイン伯爵が「盾」を選び直した夜でした。次は、さらに大きな瘴気の波――そしてアリアが隣国側として下す決断が迫ります。


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