第88話 レイン家の盾
城壁の上は、風がうるさい。
いや、風だけじゃない。遠くで魔物が吠え、鐘が鳴り、兵が叫ぶ。石の上を走る靴音が、私の胸の奥まで響く。
私はレイン伯爵だ。
そして今夜だけは、ただの貴族ではいられない。
王都ルクスリアの外、黒い霧が波のようにうねっていた。
瘴気が、塊になっている。空気が重い。目の奥が痛む。
城壁の内側で、民が祈っているのが分かる。
神殿の鐘が、怯えを隠すように鳴り続けていた。
「伯爵閣下、北東が薄いです!」
副官の声に、私は頷いた。
地図の上で視線を滑らせ、結界計測器の針を見る。針は狂ったように揺れ、赤い線が増えていく。
「北東の第3支柱、修復班を回せ。弓兵は密度を上げろ。魔導師は私の合図まで温存だ」
命令を出しながら、私は自分の掌を見た。
震えてはいない。震える暇がない。
城壁の下から、老人の咳が聞こえた。
振り返ると、宮廷魔導師長が杖をついて上がってくるところだった。額には汗。ローブは泥に汚れ、足取りは重い。
「伯爵……まだ、持ちますか」
「持たせる。あなたは王城側の臨時結界へ」
「……あの光は、確かに」
魔導師長は言葉を飲み込んだ。
彼は昔から、娘の価値を知っていたはずだ。
知りながら、止められなかった。だから今、彼の目は痛々しいほど正直だ。
「娘が来ています」
「……っ」
魔導師長の肩が震えた。
私は視線を外へ戻す。感情を取り扱うには、戦場は忙しすぎる。
かつて、私はこの国の大結界の一部を担っていた。
正確には、担わされていた。
レイン家の血が、魔力回路が、王家の誇りを支えるために使われるのは当たり前だと、思い込まされていた。
夜半、地下の中枢室へ降りる。
冷たい空気。古い刻印。光る水晶。
そこに魔力を注ぐとき、いつも手が焼けるように痛んだ。
それでも、王家は言った。
よくやった、と。
それで十分だと。
だが本当は、十分ではなかった。
王家の言葉は、娘の眠れない夜を支払うための通貨ではない。
その重荷のほとんどを、娘が引き受けていたと知った日のことを、私は一生忘れない。
娘は今、この城壁の上にはいない。
この国の土も踏んでいない。
それでも、娘の魔力は、ここに届いている。
城壁の外側で、巨大な瘴気塊がうごめいた。
まるで巨大な獣の肩が隆起するみたいに、霧が盛り上がる。
「来るぞ!」
私は杖を掲げた。
短い詠唱でいい。大結界の儀式みたいな長い言葉は、今はいらない。
必要なのは、守る意思と、回路の正確さだ。
石の上に、私の魔力が走る。
城壁に刻まれた古い刻印が、淡く光る。レイン家の印だ。
だが、瘴気は賢い。
ただ押し寄せるだけではない。城壁の端を探るように、霧が細く伸びてくる。
触れた石が黒ずみ、兵の盾が嫌な音を立てて軋んだ。
「副官。盾兵を下げろ。腐食が速い」
「了解!」
魔導師たちが魔力を上げ、浄化の光を散らす。
それでも、霧は笑うように濃くなる。
その瞬間。
耳飾りが、熱を持った。
通信魔導具。
娘の声が、雑音を裂いて届く。
「お父様。無理をしていませんか」
いつもの、落ち着いた声。
戦場の上でも、研究塔の机の前でも、同じ温度で言葉を置ける娘の声。
「無理をするのが仕事だろう」
「それは私の台詞です」
思わず、笑いそうになった。
笑う場面ではないのに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「結界の薄い場所、分かりますか」
「北東だ。第3支柱」
「了解。そこへ流します。お父様は、城壁の刻印を起点に」
「……上から見えているのか」
「はい。見えます。ずっと」
最後の一言が、胸に刺さった。
娘はずっと見ていたのだ。
私が黙って背を向けてきたものも、私が守ろうとして失敗したものも。
瘴気塊が、城壁へと伸びた。
黒い腕。いや、腕に見えるだけの霧の圧力。
触れた瞬間に腐らせるような、嫌な気配。
「レイン伯爵閣下!」
「分かっている」
私は地面に杖先を突き立てた。
「盾形。緩衝層を厚く。外殻は反転位相で弾け」
自分でも驚くほど、言葉が滑らかだった。
昔、娘が結界を調整している背中を見ながら、理解できないふりをしていた理屈。
今は、理解しなければ死ぬ。
城壁の外側に、光が立ち上がる。
薄い金色の膜。
だが、次の瞬間、その膜の上にもう一枚、透明な層が重なった。
私の魔力ではない。
あまりにも、よく知っている質だ。
「……来たな」
「来ています。私の結界を、お父様の防御に重ねます」
娘の言葉が終わる前に、瘴気塊がぶつかった。
ガラスが割れるような音。
いや、割れない。
音だけが割れ、膜は耐えた。
衝撃が城壁の石を震わせ、兵がよろめく。
それでも、膜は沈まない。
私の盾と、娘の遠隔結界が、噛み合っている。
城壁の上を走る魔力の流れが、一本の川みたいに揃っていく。
結界の縫い目が消える。
境界が、ただの境界ではなくなる。
「お父様、回路を合わせて。私の流路に、少しだけ寄せてください」
「命令される歳でもないが」
「なら、お願いです」
その言い方はずるい。
私は短く息を吐いて、魔力の出力を変えた。
すると、膜が鳴いた。
鐘ではない。金属でもない。
魔力が同調したときだけ出る、澄んだ共鳴音。
兵たちが顔を上げる。
誰かが小さく呟いた。
「……レイン家の盾だ」
その言葉が広がる前に、瘴気塊がもう一度、全身で突進してきた。
今度は、ただ弾くだけでは足りない。
押し返さねば、次で破られる。
「アリア、押し返せるか」
「できます。お父様が、支えてくれれば」
私は答えを聞く前に、決めた。
娘がこの国を守るために自分を削っていた頃、私は父として何をしていた。
今さら悔やんでも遅い。
なら、今やれることをやる。
「全員、伏せろ! 私の合図で結界に魔力を流せ!」
兵たちが身を低くする。
魔導師たちが息を揃える。
私は杖を高く掲げた。
娘の魔力の流れに、自分の回路を重ねる。
父の盾としてではない。
同じ家の魔導師として。
「今だ!」
城壁の刻印が一斉に光った。
私の魔力と、娘の魔力が、同じ方向へ跳ねる。
膜が、外へ膨らむ。
黒い塊を押し返す。
そして、反転位相が噛み合った瞬間、瘴気塊は自分の重さに耐えきれず、弾かれた。
黒い霧が空に散り、風に裂かれる。
城壁の上に、しばらく静寂が落ちた。
誰かが、息を吸う音がした。
次の瞬間、歓声ではなく、安堵のざわめきが広がる。
「今のうちに修復を。支柱の刻印を塗り直せ。石灰と魔力粉を混ぜろ、急げ」
私は叫び、走る者たちを見送った。
魔導師長がこちらへ近づき、震える声で言う。
「伯爵……あなた方は、まだ」
「まだ終わりではない。だが、折れない」
私は耳飾りに指を当てた。
「よく、ここまで来たな」
たったそれだけで、喉が熱くなる。
父として言うべき言葉は山ほどあるのに、戦場の言葉しか出てこない。
娘は少し間を置いて、静かに返した。
「お父様こそ。……ここにいてくれて、ありがとうございます」
私は目を閉じた。
城壁の外には、まだ瘴気がある。
戦いは終わっていない。
だが、今夜だけは確かに思える。
レイン家は、王家の道具ではない。
誰かに捧げるための血ではない。
守りたいものを、自分で選ぶための盾だ。
「次は、もっと大きい波が来ます」
娘の声が、少しだけ低くなる。
いつも淡々としている娘が、疲れを隠しているのが分かる。
「魔力は持つのか」
「持たせます。……セイジュ様も、近くにいますから」
「そうか」
あの男の名を聞くだけで、妙に安心してしまう自分が悔しい。
だが、悔しがっている場合ではない。
「アリア」
「はい」
「今度は、おまえに言う。無理をするな」
「……努力します」
短い返事。
その裏にある頑固さも、優しさも、私は知っている。
次の波が来る前に、私は杖を握り直した。
娘の魔力と、私の魔力が、まだ同調している。
その感覚が、頼もしくて、少しだけ怖いほどだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
父・レイン伯爵が「盾」を選び直した夜でした。次は、さらに大きな瘴気の波――そしてアリアが隣国側として下す決断が迫ります。
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