第87話 王城防衛線
王城の鐘が、今日だけで何回鳴っただろう。
鳴るたびに、空気が薄くなる。人の声が細くなる。祈りが増える。
そして、結界の外からは、獣とも風ともつかない唸り声が押し寄せてくる。
私は王妃として、避難区画の入口に立っていた。
鎧を着た騎士たちが、子どもを抱えた母親を導く。神官が、震える手で光の札を配る。魔導師たちは汗だくで、壁に刻まれた簡易陣へ魔力を流し続けている。
ここは王城の地下へ続く最後の通路だ。ここを守れなければ、王都の心臓が潰れる。
……いいえ。もっと正しく言えば。
ここを守れなければ、私が選んだ王の国が終わる。
外では、連合軍が王都外縁で戦っている。ガルディアの黒いローブと、アストリアの青い外套が混じって走る姿が、遠目でも分かる。
その中心には、彼がいるはずだ。
ガルディアの魔導師団長、セイジュ。
そして――彼と並んで、彼女も。
アリア・レイン。
かつて、この国の王太子の婚約者だった女性。
私が、奪ってしまったと噂される女性。
でも本当は、私たちが奪ったのは婚約だけではない。国の盾そのものだった。
地面が、どん、と揺れた。
誰かが悲鳴を上げ、次の瞬間、上から砂埃がぱらぱら落ちてくる。
「崩落じゃない、外壁だ! 北門側が抉られた!」
伝令の声が跳ねた。私の背中に冷たい汗が流れる。
「避難の列を止めないで。負傷者を先に、次に子ども。荷物は最小限で」
「王妃殿下、あなたは――」
「私はここにいます。今いなくなったら、みんなの足が止まる」
言い切ってから、口の中が乾いているのに気づいた。
怖い。逃げたい。泣きたい。
でも、逃げられない立場を選んだのは私だ。
通路の脇では、治療係が床に毛布を敷き、負傷者を寝かせていた。
血の匂い。瘴気に焼かれた皮膚の匂い。消毒の薬草の匂いが混ざって、目の奥が熱くなる。
「大丈夫です。深く息をして。……はい、そう。今、痛みを薄くします」
私は回復の魔術を重ねる。光が指先に集まり、傷の縁に沿ってゆっくり広がった。
術は得意ではない。けれど、いま目の前の命を落とすわけにはいかない。
「王妃様……外が、黒い……」
若い騎士が、唇を震わせた。
彼の視線の先、通路の奥の換気孔から、微かに紫がかった霧が流れ込んでくる。
瘴気だ。大結界が健在なら、ここまで匂いは届かない。
私は喉の奥で、苦いものを飲み込んだ。
大結界は絶対だと、私は信じていた。
信じたかった。
そう信じれば、私の罪が軽くなる気がしたから。
階段の上から、足音が乱れて降りてきた。
鎧の音に混じって、息を呑むような静けさが1瞬だけ広がる。
レオン様が現れた。
王太子ではなく、国王代理としての装い。マントの端が裂け、頬に煤がついている。
「リリアナ。ここは?」
「避難は続いています。けれど、瘴気が……」
「分かっている。上はもっと酷い」
彼は短く言って、拳を握った。
目が、揺れている。数年前の夜会で見るような、きらびやかな自信はない。
「……俺が、言ったんだ」
聞き返す前に、レオン様は続けた。
「2度とこの国の土を踏むな、と。あの時、あの子に」
「……」
この場で、過去を掘り返す余裕はない。
でも、彼の声はひどく弱かった。謝罪にすらなれない、独白の形。
「今は、命を優先する。そう決めた。だから、ここを頼む」
「はい。陛下にも、そう伝えます」
レオン様は頷いた。私の手を取りそうになって、やめた。
そのためらいが、余計に痛い。
「リリアナ。……すまない」
「謝るなら、生きてからにしましょう。私たち、まだ役目が残っています」
言った私の声が、思ったより震えていた。
レオン様は何か言いかけたが、背後でまた衝撃が起き、舌打ちして駆け上がっていった。
また、衝撃。
今度は近い。石が擦れる音がして、天井の奥で何かが割れた気配がした。
「王宮魔導師隊、上へ! 城壁結界を補強しろ!」
「殿下はバルコニーへ下がれ、と陛下から――」
「私は下がりません。……でも、陛下には伝えて。避難区画の状況は維持できています、と」
伝令の少年が頷き、走り去る。
その背中が、小さすぎて胸が痛い。
通路の入口に、白髪の老魔導師が現れた。
王宮魔導師の長老だ。普段は儀式にしか出てこない人が、今日は泥まみれで、息を切らしている。
「王妃殿下。上が、持たん。……外側から、何かが結界を喰っている」
「喰う?」
「瘴気だ。魔物だけではない。黒い塊が、膜に張り付いて削っている」
私は、凍ったように頷いた。
昨日まで、こんな敵はいなかった。
結界を壊すために生まれたような、嫌な意思を感じる。
「それなら、結界の層を厚く……」
「厚くするだけでは追いつかん。喰われる速度が速い。……まるで、穴を開けることだけを狙っている」
「誰かが、誘導しているのですか」
「分からん。ただ、あれは瘴気そのものが形を持ったように見える。切っても焼いても、粘る」
ぞくりとした。
魔物より、瘴気の方が怖い。目に見えないものは、人の心を食べる。
そのときだ。
音が変わった。
これまでの轟音は、石を叩く音だった。
今は、もっと細い。金属が軋むような、鎖が擦れるような――胸の内側を直接引っ掻く音。
老魔導師が、顔を上げた。
皺だらけの瞳が、驚いたように見開かれる。
「……来た」
「何がですか」
「魔力の流れが、逆だ。外から……外から、殻が被さる」
通路の上、王城の中心へ向かって、淡い光が走った。
私は見ていないはずなのに、見える気がした。
巨大な輪郭。多重の円。星のような連結。古い王都の刻印の上に、まったく別の式が重なる。
それは、王城の内側から立ち上がる結界ではない。
空に描かれた式が、地上の古い式に1瞬だけ噛み合って、上から殻を被せる。
そんな、ありえないやり方。
次の瞬間、空気が軽くなった。
瘴気の匂いが、薄い膜に弾かれる。
泣いていた子どもが、きょとんとして息を止め、そして小さく咳をした。
誰かが、ぼそりと呟く。
「……あったかい」
その言葉が、胸に刺さった。
この国の結界は、あったかいのだと。
そう感じさせていたのは――ずっと、彼女の魔力だったのだと。
老魔導師は、膝をついた。
祈るように、床に手を当てる。
「この感触……あの子だ。アリアだ」
「……っ」
私は声を失った。
助けが来たという安堵と、助けが彼女だという痛みが、同時に押し寄せる。
奪った。
追い出した。
いらないと言った。
それでも彼女は、外からこの城を包んだ。
私たちの命を、私たちの都合で守ろうとしている。
「王妃殿下」
老魔導師が、震える声で言う。
「この結界は、王宮の陣とは違う。作り手の手癖がある。……この国は、あの子の手の中で息をしていたんだ」
「……はい。分かっています」
分かっている。
分かっているのに、私はあの日、彼女を見ないふりをした。
外の衝撃が、また来た。
でも、先ほどと違う。ぶつかっているのに、壁が割れない。
結界が、受けている。受けて、逃がしている。緩衝層が働いている。
王城のどこかで、歓声が上がった。
誰かが泣きながら笑っている。
「持つぞ! 結界が戻った!」
「外からだ! 空から降ってきた!」
私は、唇を噛みしめた。
空から降ってきた結界。
つまり、彼女はここに来ていない。
約束を守っている。かつて私たちの王が吐いた、残酷な言葉を。
私の指先が、震えた。
助けられているのに、謝れない。
感謝すべきなのに、顔を上げるのが怖い。
そのとき、老魔導師が耳飾り型の通信魔導具に手を当てた。
「……聞こえるか。外部結界の術者へ。王城内部の避難は――」
通信の向こうは雑音だらけで、言葉は途切れ途切れだった。
でも、最後の1音だけが、妙に鮮明に届いた。
「……予定通りだ。内側は守れ」
低い、短い声。
セイジュの声だと、私は分かった。
つまり、彼の隣で、彼女が結界を回している。
私は少しだけ、上を見上げる。
地下の天井越しに、淡い光が見える気がした。
その光の外側で、何かが動いた。
冷たい気配が、肌を撫でる。
獣の声ではない。風でもない。
濃い闇が、形になってこちらを殴りに来る感覚。
「来ます!」
誰かが叫んだのと同時に、結界がきしんだ。
光が歪み、空気が鳴る。見えない爪が、膜を掻く。
老魔導師が立ち上がり、杖を構えた。
「全員、内側へ! 避難区画の結界を2重にしろ!」
「殿下、こちらへ!」
私は、列の最後に残っていた母親の手を引く。
泣きそうな目の子どもが、私を見上げた。
「だいじょうぶ……?」
「大丈夫よ。……大丈夫にする」
言った瞬間、結界の外側が、どん、と叩かれた。
さっきまでの衝撃とは比べものにならない。
光と闇がぶつかり、世界が1瞬だけ白くなる。
膜が、耐えた。
でも、その音は、まだ続いている。
叩かれるたび、光が薄くなる。闇が少しずつ染みてくる。
まるで、城そのものが歯を食いしばっているみたいに。
私は胸の奥で、名前を呼んだ。
声にはしない。呼ぶ資格がない。
それでも、祈るしかない。
アリア。
どうか、あなたの結界が、今夜だけでも持ちますように。
そして次の瞬間、遠くの城壁の上で、別の魔力が立ち上がった気配がした。
懐かしいのに、強い。
大地に根を張るような、防御の回路。
老魔導師が、呟いた。
「レイン伯爵が、上にいる。……血は、まだ尽きておらん」
光と闇が、もう1度ぶつかる。
きしむ音が、鎖のように王城を締め付けた。
私は歯を食いしばって、次の避難者の手を取った。
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王城を包んだ“外からの結界”――助けに来たのは、追放された彼女でした。次話、闇の塊の正体と、セイジュの決断が動き出します。
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