第81話 緊急通信、結界の穴
会議場に戻る廊下は、さっきまでより静かだった。
逆結界は砕けた。空気の底に沈んでいた嫌な粘りが、薄くなる。
だが、胸の奥の重さは残ったままだ。
妨害の糸を切ったところで、向こうの崩落は止まらない。
結界は、議論の速度に合わせてくれない。
俺の隣を歩くアリアの通信魔導具が、また微かに震えた。
さっきの震えとは違う。鼓動みたいに、一定の間隔で刻む。
「来ます、って……何がだ」
小声で問うと、アリアは歩幅を落とさず答えた。
「向こうが、もう限界なんです。寿命の音が、鳴ってる」
結界術師特有の言い方だ。
壊れる前の、あの嫌なきしみ。空気の金属臭。
俺にも覚えがある。
アリアの指先が外套の端を掴む力が強い。
俺はその手を、上から覆った。
「離れるな」
「離れません。今は、逃げ場がないので」
冗談みたいに言うくせに、瞳は笑っていない。
この女はいつも、背中を見せない。
◇
大ホールの扉の手前で、カイルが警備兵と一緒に待っていた。
顔に汗。だが目は冴えている。
「主任から聞いた。地下の通信室は押さえた。術式も回収できそうだ」
「犯人は」
「逃げた。だが、痕跡は残した。……これ、アストリアの貴族の癖じゃねえ。外の匂いだ」
アリアが小さく頷く。
「第3国です。混ぜたかったんでしょう。結界の穴に、政治の穴も」
議長に渡すよう、カイルが封印札の束を差し出した。
アリアがそれを受け取り、俺の方へ一瞬だけ視線を投げる。
合図だ。今は、戦ってる場合じゃない。会議を動かす。
俺は頷き返した。
守る。それだけは、俺の仕事だ。
◇
席に着くと、議長が木槌を鳴らした。
各国の代表がざわめきを押し殺して、前を見る。
休会明けの空気は、酒のない宴会みたいにぎこちない。
「休会を終えます。先ほどの妨害については、レオニア側の警備が対応中です」
議長の声が淡々と続く。
「議事は――大結界の管理体制、及びアストリア王国の責任について」
その言葉の途中で、空気がきしんだ。
会議場の中央に置かれた通信水晶が、青から赤へ変わる。
緊急。そういう色だ。
誰かが息を呑む。
議長も、木槌を止めたまま硬直する。
「アストリア王都より、緊急通信。接続を許可しますか」
書記官の声が、情けなくなるほど震えている。
議長は一拍だけ迷い、すぐに頷いた。
「許可します。映像も出してください」
水晶の光が跳ねた。
次の瞬間、ホール上空に薄い膜が広がり、景色が投影される。
空が、割れていた。
雲ではない。大結界の光膜だ。
太いひびが何本も走り、その裂け目から黒い霧が溢れている。
霧の下には、黒い点の群れ。波みたいにうねりながら、地を覆っていた。
魔物だ。
角のある獣、骨の鎧を纏う影、翼を引きずる鳥の群れ。
目が光る。数が、常識を食いちぎっている。
映像越しでも、瘴気の冷たさが背骨に刺さる気がした。
画面が揺れる。走りながら撮っているのだろう。
兵の怒鳴り声。馬のいななき。泣き声。
そして、遠くから届く低い咆哮。地鳴りのような、腹の底を撫でる音。
『こちら王都外縁、防衛線観測班! 大結界、北東区画で崩落! 裂け目拡大中!』
映像の向こうで、甲高い声が叫ぶ。
背後では警鐘が鳴り、兵が走り、土埃が舞っていた。
『魔物の大軍が王都近郊まで到達予測、残り……半日未満! 応急結界、限界です!』
『内壁を閉じます! 避難区画へ! 子どもを先に!』
『魔導師長は! 王城は!』
『もう足りません! 王都の護りが、剥がれていく!』
ホールの空気が、一気に沸騰した。
「半日だと?」
「誇張ではないのか」
「いや、あの密度は――」
誰かが席を立ち、誰かが顔を手で覆う。
椅子が倒れる音がした。胃の中がひっくり返るようなざわめき。
政治の言葉が、今だけは役に立たない。
アストリア代表席の旧貴族派は、血の気が引いた蝋人形みたいに固まっていた。
自分たちが守ってきた体面が、映像の裂け目から落ちていく。
いや。守ってきたのは体面だけで、肝心の国は守れなかった。
レオンは立ち上がりかけ、膝が止まった。
王太子の肩書が、今この瞬間には重すぎる。
リリアナが彼の袖を掴む。
唇が動いた。たぶん、祈っている。
この女は、いつも遅いが、いまは遅れても祈るしかない。
アリアは――動かない。
椅子の背に指を置いたまま、投影の裂け目だけを見ている。
研究者が試験管を見る時の目だ。残酷なくらい、冷える。
だが、俺には分かる。
冷たいんじゃない。熱を漏らさないだけだ。
漏らしたら、そこで崩れるから。
ノエルが隣で、携帯計測器の盤面を叩いた。
「やばいです。魔力濃度、会議場で見てるのに肌がピリピリする数値です……これ、瘴気の圧も混じってます」
「落ち着け」
俺が低く言うと、ノエルは口を結んだ。
その喉が、嚥下で上下する。
議長が木槌を叩き割る勢いで鳴らした。
「静粛に!」
ざわめきが、刃物で切られたように止まる。
議長は立ち上がり、投影を一度だけ見てから、前を向いた。
「諸君。いま我々が議論しているのは、責任の所在だけではない。生存だ」
声は老いているのに、よく通る。
「会議は続行する。むしろ、ここからが本題だ。救援の可否を、即時に決定する」
反射的に、いくつかの代表が声を上げた。
「自国の防衛もある。兵を出せと言われても――」
「アストリアが自国で処理すべきだ」
「だが崩落が広がれば、次は我々だぞ!」
正論と利害が、火花みたいに散る。
そのとき、南方の海商国家の代表が机を叩いた。
「我々の船団は沿岸を守っている。陸の魔物が海へ出れば交易路が死ぬ。アストリアを助けるなら、対価を明確にせよ」
対価。
それが口に出た瞬間、会議はいつもの顔に戻ろうとした。
北方小国の老王代理は、冷たい声で続ける。
「助けるなら、二度と同じ崩落を起こさぬ仕組みが必要だ。結界技術を一国の誇りに閉じ込めた結果がこれだろう」
学術都市の代表が、ため息混じりに口を挟んだ。
「今朝、我々の警備が押さえた妨害の札を確認した。外部工作の痕跡がある。つまり、崩落は災害であると同時に、戦略対象だ。ならば技術は国際的に監査されるべきだ」
旧貴族派の男が立ち上がりかけ、言葉を探す。
だが、口を開けば自分の首が飛ぶ。そう理解している目だった。
だが、俺の目には別のものが見えた。
旧貴族派の男の指が、震えている。
さっきの妨害の封印札を、アリアが議長に渡しているのを見たのだろう。
逃げ道が消えた顔だ。
議長の視線が、俺の隣へ滑る。
そして、会議場の視線も同じ場所へ集まっていく。
アリア・レイン。
かつてアストリアの大結界を張っていた女。
いまはガルディアの結界主任で、俺の婚約者だ。
あいつは、視線の重さを受け止めたまま、息を吸った。
その肩がわずかに上下する。
俺は、椅子の肘掛けの下で、彼女の指先を握り直した。
指先は冷たい。けれど、震えてはいなかった。
彼女の薬指に光る指輪が、わずかに水晶の赤を反射する。
俺はその光を見て、思い出す。
あの日、境界の風の中で、守ると決めたことを。
「息をして」
俺の囁きに、アリアは小さく笑った。
「しています。だから、離さないでください」
返事の代わりに、俺は指を少し強く握った。 絶対に、だ。
「……アリア」
小さく名を呼ぶと、彼女は横目で俺を見る。
その視線は、いつも通り落ち着いていた。
「大丈夫です。怖いのは、魔物じゃないので」
その1言に、俺は苦く笑いそうになる。
議長が促すように言う。
「ガルディア代表、発言を」
ユリウスが口を開きかけた、その前に。
アリアが、静かに立ち上がった。
椅子が音もなく引かれる。
それだけで、ホールの空気がさらに固くなる。
「私は政治家ではありません」
アリアの声は、響きすぎない。だからこそ、全員が耳を澄ませる。
「でも、結界の状態と、魔物の進行速度なら分かります。映像は誇張ではありません。むしろ、遅れて届いている可能性があります」
アストリア側の旧貴族派が、びくりと肩を跳ねさせた。
妨害していたのは彼らだ。通信が遅れれば、現場が死ぬ。
ざまぁ、という言葉が頭をよぎる。
だが、今は笑えない。死ぬのは国民だ。
アリアは一拍置き、目を伏せる。
そして顔を上げた。
「今から、条件付きで救援案を提示します」
その宣言が、矢のように刺さった。
レオンが、喉の奥で何かを飲み込む音がした。
彼はまっすぐアリアを見ている。誇りも後悔も混ざった、苦い目だ。
議長が頷く。
「聞こう。ここにいる全員が、いま聞くべきだ」
俺は、アリアの背中を見上げた。
細い。なのに、倒れる気配がない。
世界が崩れる音が、遠くではなくこのホールの天井から降ってくる。
それを受け止めて立っているのが、俺の婚約者だ。
だから俺は、ただ隣にいる。
彼女が次にどんな条件を突きつけても、守るために。
そして、あいつが選ぶ未来が、誰の顔色にも潰されないように。
第81話までお付き合いありがとうございます。
王都の裂け目は半日未満、会議は責任から生存へ。次回、アリアが突きつける《条件付き救援》で各国の思惑が衝突します。恋も政治も一歩も引けない局面へ――続きが気になったらブクマ&評価で応援いただけると励みになります。




