第79話 割れるアストリア内部
会議場から戻った宿舎の応接室は、暖炉の火のはぜる音だけがやけに大きかった。
昼の糾弾の残り香が、まだ喉の奥に引っかかっている。
あの場で、レイン伯爵が頭を下げた。
国の代表として。父として。
私は王妃として席にいたのに、心はただの人間に戻って、震えた。
机の上には、各国が突きつけた条件の写しが並ぶ。
文字が、刃物みたいに鋭い。
レオン ……始める。今夜のうちに、明日の方針を決める
レオン陛下の声は落ち着いていた。
でも、その落ち着きが、どれほど無理をして作られているのかも分かる。
私の隣の椅子に座っているのに、遠い。
老侯爵 決めるも何もない。あの女の言い分を受け入れるなど、国の自殺だ
別の貴族 結界の技術を開示し、さらに補償まで? なぜ我らが払う
若手貴族 払わなければ、援助も得られません。今日の決議で、我が国は危険国扱いです
若手の声が、すぐにかき消される。
老侯爵 危険国? 笑わせる。大結界は我らの誇りだ。外の連中に口を出される筋合いはない
別の貴族 そもそも、国土を縮小など。王家が祖先から受け継いだ領地を切り捨てる? あり得ない
私は、指先を膝の上で握りしめた。
誇り。祖先。体面。
その言葉の下で、何人が死ぬのだろう。
会議場の映像魔導具で見た、崩れた地方都市の壁。
黒い瘴気の霧。
泣き叫ぶ人の声は、映像越しでも耳に残った。
私は元々、男爵家の娘だ。
王都の上澄みの言葉より、市場のざわめきの方が身近だった。
だから、国が割れれば、最初に踏みつけられるのは誰かも知っている。
息を吸って、吐く。
ここで黙れば、私はずっと飾りのままだ。
リリアナ ……国民の命を、最優先にすべきです
刹那、部屋の空気が止まった。
視線が集まる。針みたいに痛い。
老侯爵 ほう。男爵の娘が、国策を語るか
別の貴族 王妃は、陛下の隣で微笑んでいればよい。口を出す場所ではない
老侯爵 民の命? 民は王家が守るものだ。だが、守り方は我らが決める
喉の奥が冷えた。
ああ、この人たちは、守ると言いながら、守られている側の顔を見ていない。
リリアナ 守るなら、今です。結界が落ちれば、魔物が来ます。避難が間に合わない場所もあります
老侯爵 怖がらせるな。女の感情で国を動かすつもりか
別の貴族 陛下。王妃の発言は撤回させるべきです。余計な弱みになる
その瞬間、私の隣で椅子が鳴った。
レオン陛下が立ち上がったのだ。
レオン 撤回はしない
老侯爵 陛下?
レオン 今の言葉は、王妃への侮辱だ。さらに言えば、現実から目をそらすための言葉遊びでもある
私の胸が、きゅっと縮む。
守られる側の痛みと、守る側の怖さが同時に来た。
レオン 俺は今日、会議場で見た。国がどれだけ世界の信用を失っているかを
レオン そして、俺たちがどれだけ遅れてきたかも
レオン陛下の視線が、私に落ちた。
ほんの少しだけ、柔らかい。
レオン 王妃としては未熟だ。本人も分かっている
レオン だが、国を思う心は本物だ。俺は、彼女の言葉を採る
老侯爵の口元が歪む。
老侯爵 ……清らかな心で政治ができるなら、誰も苦労せん
若手貴族 ですが、清らかさがなければ、結局は民を切り捨てます。今までがそうでした
若手が言い切った瞬間、別の貴族が机を叩いた。
別の貴族 言い過ぎだ!
若手貴族 言い過ぎではありません。地方の崩落は事実です。報告書を読めば分かる
紙束がめくられる音がする。
会議室の空気が、暖炉の熱とは逆に冷たくなっていく。
王族随行 ですが、民意も問題です。国土縮小や他国介入を公にすれば、王都で暴動が起きかねません
別の貴族 そうだ。責任の矛先は王家だけでは済まん。貴族街も燃える
その言葉に、胃のあたりが重くなった。
怒りは、火より速い。
リリアナ だからこそ、隠してはいけません
王族随行 王妃殿下……
リリアナ 隠したまま結界が崩れたら、民はもっと怒ります。裏切られたと思う
リリアナ 怖くても、説明して、避難と配給の準備をして。守るために、信じてもらう努力をしないと
自分がこんな言葉を口にするなんて、昔の私は想像もしなかった。
でも、今日の会議場で見たのだ。
顔も名前も知らない人たちが、アストリアの失策のせいで議論されているのを。
私は、視線だけでレオン陛下に問いかけた。
このまま、ぶつけ合えば割れる。完全に割れる。
でも、割れたまま明日を迎えたら、国は終わる。
レオン陛下が頷き、机の中央にある地図を指した。
レオン 俺たちは、明日までに答えを用意しなければならない
レオン 選択肢は3つ提示されている。どれも苦い。だが、選ばなければ死ぬ
老侯爵 死ぬ? 脅しだな
レオン 脅しではない。計算だ。……俺は、今日それを突きつけられた
その言葉に、レイン伯爵が静かに口を開いた。
昼に頭を下げた背中が、まだ目に焼きついている。
レイン伯爵 ……誇りは、死人の上に立てない
老侯爵 レイン伯爵。娘の件で感情的になっているだけだろう
レイン伯爵 感情で言っているなら、ここには来ない。数字で言っている
レイン伯爵 地方の被害は増えている。今は、民が先だ
私は、胸の奥が痛くなった。
あの人は、娘を守れなかったと謝った。
私たちは、娘を傷つけた側だった。
謝罪しても、戻らないものがある。
でも、命は戻せる。まだ間に合うなら。
リリアナ ……私も、責任があります
言葉が震えそうで、唇を噛む。
リリアナ 私は、あの方を傷つけました。だから、これ以上、国が誰かを傷つけるのは見たくありません
リリアナ 面子より、命です
老侯爵が、鼻で笑った。
老侯爵 罪悪感で国を売るのか。便利な美談だな
リリアナ 美談ではありません。怖いんです
リリアナ 国が割れて、誰も助けられない未来が
言ってしまった。
王妃として正しい言葉ではないかもしれない。
でも、ここでは嘘が最もまずい。
レオン陛下が小さく息を吐いた。
レオン ……怖いのは、俺も同じだ
レオン だから、決める。明日、俺は会議場で、共同結界への移行を軸に交渉する
レオン 技術開示の範囲も、補償の条件も、できるだけ国民の負担が軽くなる形に落とし込む
レオン そのために、今夜のうちに我が国の最低条件を整理する
老侯爵 陛下。それは、他国に首輪をつけられる道です
レオン 首輪ではない。生き延びるための契約だ
レオン 国の形は変わっても、国民が生きていれば、やり直せる
沈黙が落ちた。
火の音だけが、ぱちぱちと鳴る。
やがて、老侯爵がゆっくり立ち上がった。
老侯爵 ……分かりました。陛下のお決めになることに、表向きは従いましょう
老侯爵 ですが、忘れないでいただきたい。国は、理想だけでは回らない
表向きは従う。
その言葉に、背筋がぞくりとした。
老侯爵は、私を見ずに扉へ向かった。
去り際、ほんの少しだけ振り返り、レオン陛下に微笑んだ。
笑っているのに、目が冷たい。
扉が閉まる。
私は、無意識に立ち上がっていた。
リリアナ 今の方、何か……
レオン 気づいたか
レオン陛下が、私の手首をそっと掴んで引き止める。
その手の温度で、私はようやく呼吸を思い出した。
レオン 俺も、同じ違和感を覚えた。だが、ここで追えば、火に油を注ぐ
レオン まずは、明日の場を守る。……そのうえで、裏で動く者がいるなら、潰す
潰す。
その言葉が、重い。
でも、王はそう言うしかない。
レオン陛下が、扉のそばに控えていた近衛騎士に目を向けた。
レオン 騎士長。今夜のうちに、宿舎の出入りを記録しろ。単独で動く者がいれば、誰であっても報告
騎士長 承知しました
騎士長は余計な顔をしない。
その無表情が、逆に頼もしかった。
私は頷き、もう1度だけ扉を見た。
廊下の向こうから、かすかに魔力の匂いがした気がする。
焦げた鉄みたいな、嫌な匂い。
私の背に、レオン陛下の声が落ちる。
レオン リリアナ。今日、おまえが口を開いたことは、俺の救いだ
リリアナ ……私は、遅すぎました
レオン それでも、今だ。遅くても、やる
短い言葉。
でも、胸の奥の氷が少しだけ溶けた。
この国は、もう元には戻らない。
けれど、壊れる方向を選び直すことはできる。
私は、王妃として初めて、自分の足で立った気がした。
そして同時に、廊下の冷たい気配が、明日を濁す予感もした。
どうか、間に合って。
祈りながら、私は机の上の地図に目を落とした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
国の内部が割れはじめ、リリアナはついに「王妃」として声を上げました。けれど扉の向こうには、もっと厄介な火種が……。
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