第8話 埋もれているには惜しい
Sランク魔物が塵になってから、どれくらい時間がたったのだろう。
地平線の向こうに沈んだ夕陽の残り火が、遅れて空を染めている。さっきまで瘴気で黒ずんでいた大気は、まだ重たい匂いを残しながら、少しずつ澄み始めていた。
国境の臨時陣地に張られたテントの一つ。その中で、私は粗末な簡易ベッドの端に腰を下ろし、湯気の立たなくなった薬湯のカップを両手で抱えていた。
さっきまで、結界にほとんど意識を持っていかれていた反動かもしれない。
静かだ。
外では、負傷兵のうめき声や、治癒魔導師たちの詠唱が途切れ途切れに聞こえる。鎧の擦れる音、壊れた魔導具が運ばれていく金属音。戦場の音なのに、不思議と現実味が薄い。
耳の奥では、まださっきの一言が反響していた。
――埋もれているには、惜しい。
あの男が、結界の外側で、何の感情も混ぜずに言い放った言葉。
評価とも、勧誘ともつかない一言が、私の胸のどこかに引っかかったまま、じくじくと熱を持っている。
「……はあ」
自分でも驚くくらい大きなため息が漏れた。
カップの底に残った薬湯の苦味を舌の上で転がしながら、私は今日一日の流れを頭の中で巻き戻す。
朝から結界の補修、魔力供給、雑用ぜんぶ。昼過ぎにはすでに魔力の半分以上を使い切って、それでも誰も予備を寄こしてくれなくて。そこに、あの化け物。
そのうえ、災厄の魔導師まで現れて、私の仕事を一言で言い当てて去っていった。
……本当に、なんなんだろう、あの人。
テントの入口の布が、ふっと揺れた。
「入るぞ」
低い声と、夜気の冷たさが同時に流れ込んでくる。
「ど、どうぞ」
慌てて姿勢を正すまでもなく、私の身体はほぼ反射で背筋を伸ばしていた。
布の隙間から入ってきたのは、黒いローブの人影。
ガルディア王国宮廷魔導師団長。災厄の魔導師。セイジュ・アルバート。
紙の上でしか知らなかった肩書きが、今は目の前の人間の輪郭にぴたりと貼り付いている。
兵たちに囲まれ、上官に礼を言われていた姿は少し離れたところから見えたが、こうして狭いテントの中で二人きりで向き合うのは、初めてだった。
「体調は」
彼は挨拶も名乗りもなく、いきなり本題から入ってきた。
それが妙に彼らしくて、私は少しだけ肩の力が抜ける。
「多少消耗はしていますが、問題ありません。結界も安定していますし、睡眠をとれば明日の朝には」
「そうか」
それだけ言うと、彼は近くの木箱に腰を下ろした。椅子代わりに使っている箱は痛そうなのに、表情一つ変えない。
テントの中は狭い。彼のローブの裾が、私の足先からそう遠くないところで揺れている。
沈黙が一瞬落ちて、その間に私の心臓が無駄に忙しく脈打った。
「さっきの結界だが」
静かな声が、その沈黙を破る。
来た。
私はカップをそっと床に置いて、彼の顔を見た。
「……はい」
「おまえが、王都の大結界を維持している魔導師だな」
淡々とした断定。
「な、なぜ、そう思われるのですか」
一応、形式的な抵抗はしてみる。
ここで「はい、そうです」とあっさり認めるほど、私は正直でも愚直でもない。王都の大結界のことは、王家とレイン家の一部しか知らないはずなのだから。
けれど、セイジュは私の薄い抵抗など最初から織り込み済みだと言わんばかりに、淡々と続けた。
「魔力の質が同じだ」
「……質、ですか」
「王都の上空を覆う膜に、前に一度だけ触れたことがある。少し変わった魔力の流し方をしていた」
さらっと、とんでもないことを言う。
「国境線を越えるのに、いろいろ手続きが必要でな」
手続きと言いつつ、きっと半分くらいは強引なやり方なのだろう。それを突っ込む余裕は、今の私にはない。
「今日、おまえの結界に触れたとき、同じ癖を感じた」
癖。
「外殻の魔力を薄くして、内部の流れを細かく調整していたな。硬さより“しなり”を優先した結界の張り方だ」
痛いところを、次々と突いてくる。
「それは……現場運用の都合で、多少いじっただけで」
「多少、か」
彼はわずかに片眉を動かす。それが、笑ったのだと気づくまでに一瞬時間がかかった。
「普通の結界術師なら、“いじる”という発想すら持たない構造だ」
そう言われて、胸の奥がちくりと痛む。
王宮の結界担当者たちは、誰も「いじろう」とはしなかった。古くからある式は触ってはいけない、王家と先祖が決めた形を守れ、と口を揃えて言って。
だから私は、誰にも見せない自分のノートの中でだけ、何十回も書き換えてきたのだ。
「王都の大結界も、同じく“いじられて”いる」
視線が、まっすぐこちらを射抜く。
「古くて重い式の上に、柔らかい水路をかぶせるように。あれを考えたのは、おまえだろう」
図星を刺されすぎて、言葉が出てこない。
抵抗の言い訳はいくつも用意していたはずなのに、どれも喉の奥で溶けてしまった。
「……そうだとしたら」
少しだけ間を置いて、ようやく声を絞り出す。
「それが分かったところで、何になるのですか」
「興味がある」
迷いのない一言だった。
軽い興味ではなく、獲物を見定めるような真剣さ。けれどそこに、侮りや好奇心だけの色はない。
研究者が、未知の理論を見つけたときの目だ。
「どんな理屈でそういう結界を組んでいるのか。どこまで意識してやっているのか。俺はそれを知りたい」
胸の奥の、誰にも触れられたことのない場所を、いきなり指先でなぞられたような感覚。
私は思わず、膝の上で指を握りしめた。
「……理屈なんて、大したものではありません」
「そうか?」
セイジュの視線が、私の肩越しにテントの隅へと流れる。
そこには、私の荷物が積んである。魔導具の予備、魔力回復薬、簡易フォーミュラの羊皮紙。
その一番下。誰にも触れさせたことのない、革表紙のノート。
「さっき、結界の調整が一段落したとき、おまえ、あのノートを手に取っていた」
見られていた。
「……観察力が良すぎます」
「仕事柄だ」
彼は淡々と答える。
「見せる気はあるか」
ぐさりと、核心を突かれる。
ノートを見せる。
それはすなわち、自分の頭の中をまるごと晒すのと同義だ。成功した改善案だけでなく、失敗した案も、行き詰まって途中で放り出した式も、全部入っている。
王宮では、整理された報告書しか提出したことがない。そこに載せるのは、きれいな結果だけだ。
対して、このノートは、私のぐちゃぐちゃな思考の軌跡、そのもの。
「……乱雑なメモばかりですよ」
「構わない」
彼は即答した。
「俺は“整えた結果”より、“どう考えたか”のほうに興味がある」
ずるい。
そんなふうに言われて、断れるほど、私は強くない。
私は立ち上がり、テントの隅まで歩いて、荷物の一番下からノートを取り出した。
革表紙は、何度も開いたせいで手に馴染んでいる。角は少し潰れ、ところどころインクがはねた跡がある。
これを他人に見せるのは、初めてだ。
胸の奥がきゅっと縮むのを感じながら、私はノートを抱えたままセイジュの前まで戻った。
「……笑わないでくださいね」
「笑う要素があるなら、教えてくれ」
「そういう意味ではありません」
思わず突っ込みを入れながらも、手はもう止まらない。
私は深呼吸をひとつしてから、ノートを差し出した。
セイジュは無言でそれを受け取ると、表紙を丁寧に撫でるように指先を滑らせ、それからぱらりと適当なページを開いた。
視線の動きは速いのに、雑ではない。一つ一つの式を、正確に追っているのが分かる。
ページをめくる音が、やけに大きく聞こえた。
「……ふむ」
数ページ読んだところで、彼の指先が一箇所で止まる。
「ここだな」
「どこ、ですか」
「王都の大結界、基底層の修正案」
指で示された先には、古い式の上に私が書き足した補助陣の図があった。地脈の流れを読み替えて、魔力の渋滞をほどくための“水路”。
「この曲げ方が、少し急だ」
セイジュは、迷いのない線でさらさらと補助線を引き足した。
「こうやって、半径をわずかに広げてやれば、魔力がここで滞らずに流れる。今のままだと、二割ほど熱として無駄になっているはずだ」
「……」
喉が、ごくりと鳴る。
まさに、私が「なんとなく気持ち悪い」と思いながら放置していた部分だったからだ。
すでに王都中枢の基盤に組み込まれてしまっていて、現場でこれ以上修正するのは難しい。そう自分に言い訳して、見て見ぬふりをしていた箇所。
「理論上は、だが」
セイジュは簡易な計算式を横に書きながら、淡々と言う。
「さっきの国境結界の反応を見るかぎり、実際にもこれくらいの余力は出るだろう」
「理論上、と言いながら、ちゃんと検証しているんですね」
「癖だ」
短い答え。
けれど、その横顔には僅かな高揚が浮かんでいる。自分の興味を刺激するものを見つけた子どものような、静かな熱。
「面白い」
ぽつりと、彼が言った。
その一言は、私のノートに向けられたものなのに、胸の奥まで真っ直ぐに届いた。
「おまえの頭の中は、なかなかに面白い」
面白い、か。
王宮では一度も言われたことのない評価だ。
「褒め言葉として、受け取っておきます」
「当然だ」
セイジュはノートをぱたんと閉じ、慎重に私へ返した。
革表紙の重みが、さっきより少しだけ違って感じられる。
私はそれを胸に抱きしめるように受け取ってから、そっと膝の上に置いた。
「この国にとって、おまえはただの“魔力タンク”ではないはずだ」
さらりと投げられた言葉に、思わず目を瞬かせる。
魔力タンク。
王宮で、陰口として、ときどき耳にする言葉だ。
誰も正面からは言わないけれど、「魔力だけはあるから便利」「結界に繋いでおけば安心」と、笑いながら。
私はそれを、笑ってやり過ごしてきたつもりだった。
「役に立っているのなら、それでいい」と、自分に言い聞かせて。
「だが、実際にはどう扱われているか」
セイジュは、火の消えかけたランプに視線を落としながら、静かに続ける。
「大結界の維持を預けておきながら、その理論には踏み込もうとしない。代わりのいない仕事をさせておきながら、その価値を理解していない」
言葉の一つ一つが、痛いほど的確で、反論する余地がない。
「……どこの話でしょうね」
冗談めかして返してみるが、自分の声が少し掠れているのが分かった。
「どこの、でもいい」
彼は首を小さく振る。
「ただひとつ言えるのは」
銀色の瞳が、再びこちらをまっすぐに向いた。
「おまえのような術師を、埋もれさせておくには、惜しいということだ」
さっき、結界越しに投げられた言葉と、似ている。でも、違う。
今度のそれは、結界でも魔力でもなく、ノートを開いたうえで、私という人間全体を見たうえでの言葉だった。
埋もれているには、惜しい。
この国に生まれてから、一度も聞いたことのない種類の評価。
王宮では、「助かる」「便利だ」「ありがたい」と何度も言われてきた。
けれどそれはいつだって、私の魔力量か働きぶりに向けられた言葉であって、私自身を認めるものではなかった。
今、目の前の男は、私のぐちゃぐちゃな思考の跡まで含めて、「面白い」と言ってくれたうえで。
この国に埋もれているには、惜しい、と断言した。
胸の奥で、何かが静かに音を立てる。
長いあいだ、きつく締めつけていた鎖の錠前が、ほんの少しだけ緩んだような感覚。
「……買いかぶりすぎです」
やっとのことで、それだけを絞り出す。
「そうか?」
セイジュは、あっさりと否定した。
「俺は、魔術の才能に関しては楽観も悲観もしない。あるものをあると判断し、ないものはないと言うだけだ」
当たり前みたいな言い方なのに、その言葉には妙な説得力があった。
「おまえには、ある」
短く、断言。
その一言が、戦場の轟音よりも強く耳に残った。
テントの外では、風が布を揺らしている。遠くで誰かが笑い声を上げ、すぐにそれをたしなめる声が続いた。
世界は、さっきと同じように回っている。
けれど、私の中だけが、さっきまでとほんの少し違って見え始めていた。
――埋もれているには、惜しい。
その言葉を、私は胸の内で何度も何度も反芻する。
自惚れだと笑われてもいい。
誰か一人でも、そう言ってくれた人がいる。
その事実が、これから私が選ぶ道を、静かに変えていくのだと、このときの私はまだ知らなかった。
第8話までお付き合いありがとうございます!
「埋もれているには惜しい」と言われたアリアの心の揺れが、少しでも届いていたら嬉しいです。セイジュとの距離は、ここからじわじわ縮まっていきます。
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