第74話 会議都市レオニアへ
転移門の光がほどけた瞬間、鼻先に紙と薬草の匂いが流れ込んだ。
「……空気が違う」
思わず口に出すと、隣でノエルが胸いっぱいに息を吸って、目を輝かせた。
「本当だ。インクと……あと、石畳が雨を吸った匂い。ここ、好きです」
「観光じゃないぞ」
セイジュ様が淡々と言いながら、私の肩を軽く引き寄せる。人波に押されないように、という名目で。名目で。
レオニア。
中立都市であり、学術都市。魔術師も学者も商人も、国の枠より先に肩書きで歩く場所だ。
転移門のホールは高い天井と、壁一面の紋章で埋め尽くされていた。どこの国にも属さない、レオニアの刻印。剣ではなく、開いた本と円環の印。
視界の端を、色とりどりの代表団が通り過ぎる。
北方の毛皮、南の薄布、砂漠の国の金糸。魔導具の駆動音が、遠くで小さく鳴っている。
「アリア、周囲の結界はどう見える」
セイジュ様の声が低くなる。私は目を細め、空気の流れを指先でなぞった。
「……多層。転移門の反動を吸収する緩衝層と、盗聴対策の遮断層。あと、武装魔導具の持ち込みを弾くフィルタが入ってます」
「さすが学術都市だな」
感心したように言いながら、セイジュ様は私の前に半歩出る。守る位置。分かりやすい。
「……私、護衛対象でしたっけ」
「今はな」
短く返ってきて、私の頬が微妙に熱くなる。政治の場で言う台詞じゃない。
◇
ホールを抜け、石畳の大通りへ出ると、レオニアはさらに騒がしかった。
高い塔が何本も並び、屋根の上を小型の輸送魔導具が滑るように走る。窓辺には鉢植えの薬草。道端には、露店ではなく移動式の書店が並んでいた。紙束と魔方陣図。なんて危険な誘惑。
「師匠、目が本になってます」
「なってない」
「なってます」
ノエルの即答に、私は咳払いで誤魔化す。誤魔化し切れない。
そのとき、こちらへ向かってくる一団があった。
黒い学袍、肩に銀の房。レオニア学院の関係者だろう。先頭にいる老人が、こちらを見て足を止めた。
視線が私に刺さる。
痛いほど、まっすぐに。
「……レイン、伯爵令嬢?」
呼び方が古い。私は1歩だけ前に出て、礼をする。
「お久しぶりです。アリア・レインです。現在はガルディア王国、国境結界主任として参りました」
老人の顔が、わずかにひきつった。
目が私の胸元に落ちる。制服ではないが、公式の徽章だけは付けている。ガルディアの鷲と、結界術式の輪。
「国境……主任?」
低い声。驚きというより、計算が追いついていない音だった。
この顔、覚えがある。
何年も前、私はレオニアに論文を送った。まだ王宮の地下で、古い式を相手にしながら、夜更けに机にかじりついていた頃だ。
返ってきたのは短い却下通知。
机上の空論。現場を知らぬ若い令嬢の遊戯。
その一文を書いた署名が、この人だった。
「ドロセル・ハイン先生。お元気そうで何よりです」
礼儀を守って言うと、先生は喉を鳴らすように咳をした。
「……君が、ガルディアの国境結界を?」
「はい。グラナの多重結界の設計は、私の式を基にしています。現場の魔導師団と共同で」
淡々と答えたつもりだったのに、胸の奥が少しだけ震えた。
認めてほしいわけじゃない。今さら。
でも、あの却下通知が、私の背中にずっと貼り付いていたのも事実だ。
ドロセル先生は、私ではなくセイジュ様を見た。銀の瞳を見て、そして理解したように口元が固まる。
「……ガルディアの第1王子殿下が、随行?」
「随行ではない」
セイジュ様が即答する。
「彼女は代表団の中心だ。私が付き添っている」
言い方。
付き添い。護衛。いや、もっと別の響き。
ユリウス様が後ろから1歩出て、柔らかい笑みを添えた。
「ハイン先生。議長セルジュ殿より、到着の確認を求められております。まずは手続きを」
政治の笑みだ。場を切り替える刃。
「……分かった。後ほど、会議場で」
ドロセル先生はそう言い残し、学院の一団を率いて去っていった。
ドロセル先生の背中が人波に飲まれかけたところで、今度は別の声が飛んできた。
「す、すみません! レディ・アリアですよね!」
振り向くと、まだ若い女性が立っていた。学院の補助員の腕章。手には分厚い冊子と、走ってきたせいか頬が赤い。
「ええ、そうですが……」
「私、ミレイユと申します。若手枠の補助員で……あの、その……」
言葉が詰まって、彼女は慌てて冊子を抱き直した。表紙には古い題名がある。
私が昔、却下されたあの論文の写しだった。
「これ、何度も読みました。『緩衝層を重ねて、流路を逃がす』って発想、私の師匠は笑ったんです。でも私、ずっと信じてました。だって、筋が通ってたから」
胸が、きゅっと縮む。
「……ありがとう。信じてくれた人が、ここにいたんですね」
「はい! それで、その……もし差し支えなければ、会議のあとで少しだけでも……質問、してもいいですか?」
まっすぐな目。
この子の世代に、結界を渡せたら。
そんな未来が、ほんの少しだけ現実味を持つ。
「もちろん。私でよければ、いくらでも」
私が頷くと、ミレイユは花が咲くみたいに笑った。
その様子を、少し離れた場所からドロセル先生が見ていた。
表情は読めない。でも、足取りがわずかに重くなった気がした。
「師匠、世界にはちゃんとファンがいます」
ノエルが得意げに言う。私はため息のふりをして、でも口元は隠せなかった。
「……ファンとか言わないで」
「じゃあ弟子の弟子候補です」
「それもやめて」
そこへ、セイジュ様が淡々と割って入る。
「会議が終わったら、時間を作れ。ただし」
「ただし?」
「近づきすぎるな。質問は、距離を取って聞かせろ」
何それ、と言い返す前に、ミレイユが真顔で頷いた。
「はい! 距離、大事です! 術式も人間関係も!」
ノエルが噴き出し、私はとうとう笑ってしまった。
背中に残った空気が、少しだけ苦い。
「師匠、今の、勝ちです」
「勝負してない」
「でも、先生の顔、完全に負けてました」
ノエルが小声で言い、私は吹き出しそうになって慌てて口元を押さえた。
セイジュ様が、私の耳元に低く言う。
「足は震えてないか」
「……してません」
「嘘だ」
「……少しだけ」
正直に言うと、セイジュ様の指が、私の手袋の上から指先を握った。
強くない。逃げられる程度に、でも離れない程度に。
「なら、ここでは俺の手を使え」
それだけで、足元の石畳が少しだけ安定する。
私は深呼吸をした。
◇
宿舎は、会議都市らしく無駄が少なかった。
豪華さより、防音と結界の厚み。窓の外には学院の塔が見え、鐘の音が一定の間隔で鳴る。
部屋に入るなり、ユリウス様が机に地図を広げた。すでに赤と青の印が打ってある。
「各国の到着状況です。北方連合は早い。南方海商国家も今日中。問題は……」
指先が、アストリアの印に止まる。
「彼らは明朝。世論の矢面に立つ覚悟はあるようですが、旧貴族派が混ざっている可能性が高い」
セイジュ様が壁にもたれ、腕を組む。
「妨害があると見ていいな」
「ええ。言葉の妨害も、術の妨害も」
ユリウス様はあっさり言う。怖い。
ノエルが計測器を机に置き、カチリと起動した。淡い光の線が部屋の中を走り、結界の層を数値化していく。
「会議場周辺の魔力の流れ、今のところ綺麗です。でも……人が増えたら、ノイズも増えます。隠すにはちょうどいい」
「ありがとう。助かる」
私はノエルに頷き、地図の空白に視線を落とす。
ここで決まる。
アストリアの救援だけじゃない。大陸全体の結界の扱い方が、国の恣意から切り離されるかどうか。
……私が、そこまで踏み込んでいいのか。
迷いが浮かんだ瞬間、セイジュ様が私の前に立った。
「アリア」
「はい」
「敵は魔物だけではない。だが、敵にされるのはおまえじゃない。おまえの作る仕組みだ」
言い切ってから、ほんの少しだけ声を落とす。
「……そして、俺はおまえを敵にさせない」
胸の奥に、熱いものが落ちた。
私が今まで欲しかったのは、賞賛でも謝罪でもない。
こういう、当たり前の庇い方だ。
ユリウス様が咳払いをした。
「殿下。甘い空気は後にしてください。私は仕事中です」
「宰相は黙れ」
「黙りません」
即答同士がぶつかって、ノエルが肩を震わせる。
私も、笑ってしまった。緊張が少しほどける。
「……ありがとうございます。私、やります」
私はそう言い、机の端に置いた資料束に手を伸ばした。
古い論文の写しと、新しい実測データ。拒否された言葉と、今の現実。
◇
夕刻。
下見のために案内された会議場の大ホールは、想像より大きかった。
高い天井。音が吸われる厚い布。左右には各国の旗、正面には演壇。
壇の背後には、レオニアの円環の紋章が浮かぶように刻まれている。
私は、そこを見上げて立ち止まった。
「……ここで、私が話すのか」
小さく呟くと、隣でセイジュ様が答えた。
「話せ。おまえの言葉が、世界の防壁になる」
大げさだ、と言い返そうとして、やめた。
大げさじゃない。今の世界は、そんな段階まで来ている。
私は指先を握りしめ、そして開く。
いつもの癖だ。結界の線を引く前の、指の準備。
演壇の前の床には、細い刻印がある。
発言者の魔力を拾い、全員に見える形へ変換する補助陣だ。レオニアらしい、学問のための装置。
私は1歩、前へ出た。
息を吸う。
胸の奥のざらつきも、苦さも、全部まとめて飲み込む。
明日。
ここでアストリアは糾弾される。
そして私は、条件を提示する。
逃げない。
私はもう、箱庭の地下に鎖で繋がれた便利屋じゃない。
振り返ると、セイジュ様が無言で頷いた。
ノエルが親指を立て、ユリウス様がやれやれと肩をすくめる。
私は、もう1度だけ深呼吸をして、演壇をまっすぐ見据えた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
舞台は会議都市レオニアへ――次話はいよいよ国際会議本番、アリアが結界の当事者として壇上に立ちます。味方も増えますが、言葉の罠も増える予感。セイジュの独占欲(※政治的にも)も静かに加速中です。
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