第72話 条件付きの救い
会議室の空気は、まだ膝の痛みを引きずっていた。
いいえ、痛いのは床じゃない。今ここにいる全員の、立場のほうだ。
レオン様は顔を上げたまま、何も言わない。
隣のリリアナ様は、手をぎゅっと握りしめている。
父は背筋を伸ばし、セイジュはいつも通り、静かに私の背後に立っていた。
ユリウス様だけが、書類の束を軽く叩いて、さっさと次に進めと言わんばかりの顔をしている。
「では、提案の中身を話します」
私は机の上に地図を広げた。
アストリア全土を覆う大結界。その上に、ガルディアの観測網で拾った数値を重ねる。
瘴気の濃い場所は濃い灰色。結界の歪みは赤い線。
そして、いちばん嫌なところだけが、黒い裂け目の形で点滅していた。
「結界のひびは、すでに目で見える段階です。原因は単純で、寿命切れ。補修では追いつきません」
「……直せないのか」
レオン様が、掠れた声で言った。
「直す、という言い方が良くないです。古い仕組みのまま延命しても、次は別の場所が裂けます」
私は指先で、地図の北をなぞった。
「壊れ方が、もう国境戦の規模じゃない。大陸全体の安全保障の話です」
沈黙が落ちる。
この沈黙は、怒りでも、哀れみでもない。現実を飲み込む音だ。
「だから国際会議を開きます」
私ははっきり言った。
「中立都市レオニアで。各国の代表と、結界の専門家を集めます。議題は、大結界システムそのもの。アストリアだけの問題として扱わせません」
ユリウス様が、すぐに食いついた。
「名目は?」
「大結界崩壊に伴う国際安全保障会議。結界が落ちれば、瘴気と魔物の動きは国境を選びませんから」
私は頷く。
「そこで合意が得られた条件に従うなら、私は救援に動きます。救うのは、王家の面子じゃなく、生活圏です」
「条件、とは具体的に?」
父が問いかける。父は父で、政治の言葉に慣れている。
「最低限、3つです」
私は指を立てた。
「1つ目。アストリアは、結界の現状データを隠さず提出すること。都合のいい数字だけ出すなら、議論が腐ります」
「……分かった」
レオン様が苦い顔で頷く。
「2つ目。会議で決まった改修案を受け入れること。場合によっては、結界運用の枠組みそのものを組み替えます」
リリアナ様が震える声で言った。
「それって、他国の助けを受け入れる、ということですよね」
「そうです。恥より命が重い」
私は言い切ってから、少しだけ声を和らげた。
「リリアナ様。あなたが今、そうやって声を出せるのは良いことです。だから、潰されないでください」
リリアナ様は目を丸くして、ゆっくり頷いた。
たぶん今まで、私に真正面から言葉をもらったことがないのだろう。私も同じだけど。
「3つ目。会議の場で、責任の所在を明確にすること」
ここだけは、少し冷たくなる。
「誰が決め、誰が止めず、誰が現場を疲弊させたか。そこを曖昧にしたままでは、次の犠牲が出ます」
レオン様の喉が動いた。
飲み込んだのだろう。プライドか、涙か。
ユリウス様がペンを回しながら言う。
「つまり、公開の場で吊るされる覚悟が必要、と」
「必要です」
「アストリア側は耐えられるか?」
ユリウス様の目線が、レオン様に刺さった。
レオン様は、ゆっくり息を吸い、吐いた。
「耐える。俺が王太子として、国王の代理として出る。どんな非難を受けようとも、受け入れる」
その言葉は、震えていたけれど、逃げる震えじゃなかった。
セイジュが低く言う。
「その覚悟が本物なら、次に決めるのは速度だ。会議の開催まで、何日ある?」
「分かりません」
私は正直に答えた。
「裂け目が広がる速度は場所によって違う。最悪の場合、会議を開く前に王都が穴だらけになる」
父が目を閉じた。
「……だから、緊急対応も同時進行か」
「はい」
私は次の紙を出した。
大結界の外側に、もう1枚、薄い殻をかぶせる案。
ガルディア式の瞬発力と、アストリア式の基底陣を、一瞬だけ繋いで起動する。
「空から投げ込みます。地面の式と、短時間だけリンクさせる。現地に降りなくても可能です」
「そんなことができるのか」
王宮魔導師長が、思わず声を上げた。罪悪感が張り付いた顔のまま。
「できます。理屈は単純で、やるのが面倒なだけです」
私は淡々と言い、図を指でなぞる。
「基底陣はアストリアの土地に刻まれている。そこに新しい外殻の式を合わせて、魔力の流れを外から上書きする。内側の運用は、あなた方がやる。私は骨組みだけ渡します」
説明しているのに、私の喉だけが少し乾いた。
それが、技術の話だけじゃないと分かっているから。
ユリウス様が、わざとらしく咳をした。
「個人的条件、というやつかな。アリア嬢」
私は一呼吸置いた。
「はい。1つだけ、個人的な条件があります」
全員の視線が集まる。
セイジュだけが、視線ではなく気配で、背中を支えた。
「私は、アストリアの土を踏まないまま救援を行います」
言い切った瞬間、部屋の温度がわずかに下がった気がした。
リリアナ様が、唇を噛む。
父が目を伏せる。
ユリウス様は、やっぱりね、という顔でペンを走らせる。
レオン様だけが、しばらく動けなかった。
「……それは、俺への罰か」
「罰ではありません」
私は首を振る。
「線引きです。私はもう、アストリアの臣下ではない。救援は、私情ではなく、国際合意に基づく技術支援です」
そして、もう1つ。理屈の顔をして言葉を足す。
「それに、私がアストリアの土を踏むと、古い契約術式が反応する可能性があります。昔の結界は、レイン家の血と土地を前提に組まれている。余計な縛りは増やしたくない」
本音を言えば、縛りなんて呪いみたいなものだ。二度と首輪を付け直す気はない。
セイジュが短く言った。
「アリアの安全は、こちらが担保する。余計な条件交渉は要らない」
短い言葉なのに、部屋の反論を全部押し潰した。
レオン様は、拳を握って、それでも言った。
「どんな非難を受けようとも、受け入れる。会議の場で、俺が言う」
そして、視線を上げた。
「頼む。国を……国民を、見捨てないでくれ」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
王としての言葉になっている。遅いけれど、ゼロよりは良い。
「では、次はガルディア王城で、正式に決めましょう」
私は立ち上がった。
「会議の招集、代表団の編成、そしてアストリア側の署名。そこまで整えば、私は動きます」
移動の廊下で、ユリウス様が横に並んできた。
「招請状の文面は任せてくれ。君の言葉は刃が鋭いからね。外交文書には向かない」
「失礼ですね」
「褒めている」
即答だった。腹立たしいくらい迷いがない。
セイジュが私の歩幅に合わせて言う。
「疲れているなら、今日はもう休め」
「まだ何もしていません」
「会議で人の心臓を刺した」
「刺していません」
「刺した」
断言された。理不尽。
王城の会議室では、アレクシス陛下が待っていた。
私を見るなり、陛下は立ち上がって、軽く頭を下げる。
「アリア。君の提案は、ガルディアとして受ける価値がある」
「ありがとうございます。ですが、価値があるのはガルディアだけではありません」
私はテーブルに、もう1枚の紙を置いた。
「招集する国の候補です。北方の小国群、南方の海商国家、そしてレオニア。議長にも根回しが必要です」
陛下は頷き、ユリウス様に視線を送る。
「やれ」
「承知しました」
ユリウス様は、もう準備していたらしい。怖い。
「会議までの護衛と、通信網の確保は?」
陛下がセイジュに問う。
「私がやります」
セイジュは即答した。
「会議場の結界も、アリアと組む。邪魔が入っても、破る」
さらっと怖いことを言うのに、本人はまったく怖がらせる気がない。
レオン様は、最後に署名用の紙を見つめ、ペンを取った。
その手が震えているのが見える。
震えながらでも、書くなら意味がある。
「……国際会議の場で、俺は俺の罪を認める」
「お願いします」
私はそれだけ言った。
会議が終わり、皆が立ち去り始めたとき。
レオン様が、私に聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「……あの時の俺の言葉を、今も守るのか」
私は足を止めなかった。
振り返れば、きっと昔の私が戻ってくる気がしたから。
「守りますよ」
ただ、前を向いたまま答えた。
「だからこそ、あなたも守ってください。国民を」
背後で、息を吸う音がした。
返事はなかった。けれど、その沈黙だけで十分だった。
私はセイジュの隣に並ぶ。
彼が、いつもの無表情で、でも低い声だけを甘くする。
「無理はするな」
「分かっています」
「分かっていない顔だ」
「それは、あなたの主観です」
「主観で守る」
短いやり取りで、私はようやく息ができた。
世界の話をしても、私の居場所は、今ここにある。
そして次は、世界を巻き込んで、終わらせる。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ついに国際会議へ——結界の真実と、アストリアが隠してきた責任が公の場で試されます。招集状が飛ぶ前に、裂け目は待ってくれるのか。アリアとセイジュの連携も次話で一段深く。
続きが気になったら、ブクマ&評価で応援いただけると励みになります。




