第71話 膝を折る王子
研究塔の会議室は、最上階の円形フロアとは違って、長い机と椅子が並ぶ、いかにも実務の部屋だった。
けれど窓は高く、外周をぐるりと囲う魔法ガラスから、ヴァルディアの空が見える。ここがガルディアだと、嫌でも思い知らされる景色。
机の端には、記録用の水晶が2つ。光が淡く揺れている。
今日のやり取りは、半分は公開だ。
言った言わないを許さないための、ガルディア式の優しさ――そして冷酷さ。
壁際には、魔導師団の幹部が数名。記録官もいる。
全員が、私ではなくレオン殿下を見ていた。
王太子が、どれだけ頭を下げられるのか。
それを世界に示す場でもあるのだ。
「顔色、悪いわよ。主任」
隣でリゼットが囁いた。
「悪いのはいつも通りです」
「いつも通りが駄目なの」
叱られた。
でも、笑う余裕はある。昨日マリアナが差し入れてくれた甘い菓子と、寝る前の強制的な温かいお茶のおかげで、最低限の心臓は動いている。
向かい側の席に、父――レイン伯爵が座っている。
目が合うと、父はほんの少しだけ口元をゆるめた。
その微細な変化に、胸がひゅっとなる。私はまだ、この人に弱い。
その隣にはユリウス。
相変わらず政治家の顔で、紙束を整えながら、面白い実験でも始まるみたいに目が冴えている。
「記録水晶、動作良好。見学の魔導師団幹部も揃いました」
ユリウスがさらりと言う。
「では、当事者を入れましょう。……アリア、準備は?」
準備。
何にだろう。胸の奥を、昔の玉座の間が引っ掻く音に。
それでも私は頷く。
「はい。……大丈夫です」
その瞬間、椅子の背に、軽い重みが乗った。
セイジュ様が、私の背後に立っただけだ。
なのに、熱が戻る。魔力の温度が違う人なのに、不思議と落ち着く。
「無理はするな」
短い声。命令に近い優しさ。
「はい」
扉の向こうで、足音が止まった。
次の瞬間。
会議室の空気が、ほんのわずかに固まる。
入ってきたのは、レオン殿下。
その後ろに、王妃リリアナ。白い外套の裾が、床をすべる。
さらに護衛が数名――そして、案内役のガルディア兵が距離を取ってついている。
レオン殿下は、私を見た。
私も見た。
懐かしいはずなのに、まるで知らない人の顔だった。
目の下の影。頬のこけ方。背筋だけで威厳を保とうとしている、無理のある姿勢。
彼は、私の前まで来ると――。
迷いなく、膝を折った。
椅子がきしむ音すらしない静けさの中で、布の擦れる音だけが響く。
王太子が、異国の塔の会議室で。
かつて自分が捨てた女の前で。
自分から頭を下げた。
記録官の羽ペンが止まり、壁際の幹部たちが息を呑むのが分かった。
誰もが知っている。
彼が私に向けて放った言葉が、ただの怒鳴り声ではなく、国が人を捨てる合図だったことを。
私は、指先を膝の上で組み直す。
泣かないし、怒鳴らない。
ただ、事実だけを積み上げる。
そうやってしか、私は自分を守れないから。
喉が、ひりつく。
あの日の台詞が、脳の奥で蘇る。
2度と、この国の土を踏むな。
そう言ったのは、あなたなのに。
「……アリア・レイン」
レオン殿下の声は、枯れていた。
「俺は、あのとき……」
そこで言葉が詰まる。
誇りを削る音がした。たぶん、心の中で。
横でリリアナが、そっと1歩前に出る。
彼女もまた、深く頭を下げた。昔みたいな演技の角度ではない。髪が乱れていて、手の甲に小さな傷がある。現場で働いた人の手だ。
「アリア様。……いえ、アリアさん。あなたを傷つけたことを、王妃としてではなく、1人の人間として後悔しています」
リリアナの声は震えていたが、逃げなかった。
私は、その言葉を受け取る。
受け取って、しまう。
憎しみだけで生きられるほど、私は器用じゃない。
だからこそ、線引きが要る。
「レオン殿下」
私は、椅子から立たないまま言った。
「まず確認します。これは、あなた個人の謝罪ですか。それとも、アストリア王国としての要請ですか」
ユリウスが、にこやかに頷いた。
あの人は、こういう場の進行が好きだ。嫌な意味じゃなく、本当に好きだ。
レオン殿下の肩が、わずかに揺れる。
膝をついたまま、唇を噛んで、そして答えた。
「……国として、だ」
「そうですか」
私は息を吸った。
窓の外の空は、今日も澄んでいる。
「私はもう、アストリアの臣下ではありません」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
何年も前、玉座の間で1度言えなかったことを、ようやく正しい場所で言えている。
「私はガルディア王国の国境結界主任で、セイジュ様の婚約者で――この国の客将です。個人の感情だけで動くわけにもいきません」
レオン殿下は、顔を上げた。
上げてしまった。
膝を折っても、彼はまだ王太子の癖が抜けないらしい。
その視線が、私の肩越しにいる人へ、ほんの1瞬だけ触れた。
セイジュ様。
彼の存在が、レオン殿下の中の何かを壊したのが分かる。
「……帰ってきてくれ」
レオン殿下が、喉の奥から絞り出すように言った。
「おまえが……おまえがいないと、結界が――」
会議室の空気が、ひやりと凍る。
それは、助けを乞う言葉の形をした、所有の癖だった。
次の瞬間。
セイジュ様の声が、氷みたいに落ちた。
「下げろ」
「……っ」
「頼み事をする姿勢ではない。今のは、命乞いではなく回収だ」
レオン殿下は、きつく目を閉じてから、もう1度ゆっくりと頭を下げた。
床に視線を落としたまま、言い直す。
「国を守るために……どうか、力を貸してくれ」
頼み方としては、正しい。
ただ、遅い。あまりにも。
私は机の上の紙束を指で軽く叩いた。
そこにはノエルがまとめた観測値と、グラナから上がってきた報告が並んでいる。数字は嘘をつかない。
「大結界の劣化は、もう止まりません。今あなたが守りたいものは、王家の体面ですか。それとも、国民の命ですか」
レオン殿下の呼吸が詰まった。
その横で、リリアナが小さく首を振る。
「命です」
リリアナが先に言った。
「殿下も、今は……」
レオン殿下は、拳を握りしめた。
爪が食い込むほど強く。
それから、震える声で答えた。
「国民の命だ。……俺は、王として、それを守れなかった」
王として。
その単語が、少しだけ彼を大人に見せた。
同時に、私の中の何かが冷えたまま動かないことも自覚する。
赦しと協力は、同じじゃない。
「分かりました」
私は、淡々と言った。
「では、あなたの願いは受け取ります。ただし、条件が必要です」
レオン殿下の顔が上がりかけ、すぐに耐えるように下がる。
学習したらしい。
「条件は、どんなものでも……」
「今この場で決められる範囲ではありません」
私は、記録水晶を見た。
淡い光が、私の声をまっすぐ吸い込んでいる。
ここで言ったことは、もう消せない。
「これは、私とあなた2人の問題ではなく、世界の問題です」
ユリウスのペンが、止まった。
父の肩も、ほんの少しだけ動く。
セイジュ様の重みが、背後で微かに強くなる。
「大結界が崩れれば、瘴気は国境を越えます。アストリアだけの災厄では終わらない。だから――」
私は息を吐く。
次に言う言葉は、私の人生だけじゃなく、世界の形を変える。
「国際会議を開きましょう。各国の代表と専門家を集めて、大結界システムそのものを議題にするんです」
会議室に、沈黙が落ちた。
理解が追いつくまでの、短い空白。
その空白を、最初に破ったのは、膝を折ったままの王子だった。
「……国際、会議」
レオン殿下の声は、驚きと恐怖で震えていた。
自分の国が、世界の議題になる。その意味が分かったのだ。
私は、頷く。
「そこで得られた合意に従うなら、私は救援に動きます。逆に言えば、合意が取れないなら――私は動けません」
そして、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
悪意ではない。現実を見せるための、穏やかな刃だ。
「あなたが頭を下げる相手は、私だけじゃなくなりますよ。レオン殿下」
レオン殿下の指先が、床の上で震えた。
たぶん、あの日の自分の言葉が、今ようやく返ってきたのだ。
そのとき、背後からセイジュ様の低い囁きが落ちる。私の耳だけに届く距離で。
「戻らなくていい。おまえは、ここにいる」
私は、ほんの少しだけ頷いた。
あの国の土を踏むかどうかは、まだ言葉にしていない。
けれど私の中では、とっくに答えがある。
あのとき彼が吐き捨てた命令を、私は皮肉なく律儀に守るつもりだ。
それが私にできる、最後の距離の取り方だから。
私が守るべき場所は、もう決まっている。
たとえ、世界がこれから騒がしくなっても。
次の瞬間、ユリウスが、いかにも楽しそうに息を吸う気配がした。
ああ。
世界が、動く音がする。
あたたかく見守ってくださり、ありがとうございます。
ついにレオン殿下が膝を折り、世界を巻き込む「国際会議」が動き出しました。アリアは過去に区切りをつけつつ、守るべき場所と人を選びます。――次話は、各国の思惑が一気に噴き出し、セイジュの“独占欲”も遠慮なく牙を出す回になる予定です。
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