第70話 父と恋人と
研究塔の応接室の前で、私は深呼吸した。
扉の向こうから、低い声がする。聞き慣れたはずなのに、胸の奥がぎゅっと縮む。
父だ。
魔力の気配だけで分かる。私の生まれた家の、あの硬い礼儀と責任の匂い。
それと重なるように、冷えた鋼みたいな気配が1つ。
セイジュ。
私はノックしようとして、手を止めた。
扉越しに聞こえたのは、父の言葉だった。
「……娘の力を、貸していただきたい」
膝を折る音は聞こえない。けれど、頭を下げているのが分かった。
私の父が、他国の城で、他国の魔導師団長に。
心臓が、変な跳ね方をした。
「誰としての頼みだ」
セイジュの声は短い。
余計な温度がない。いつもの仕事の声だ。だから余計に怖い。
「父として、ではない」
「なら話は早い。断る」
即答だった。
私は苦笑いを飲み込む。早い。早すぎる。
でも、そういうところが……いや、今はそれどころじゃない。
「セイジュ殿。最後まで聞いていただけませんか」
「聞く価値があるなら聞く。だが先に言う。アリアの意思がすべてだ」
扉の向こうで、空気が少しだけ張り詰めた。
父が息を吸うのが、なぜかこちらにも伝わってきた。
「分かっております。だからこそ、私は……貴族として、お願いに来た」
「貴族が願うのは、いつも都合のいい言葉だ」
セイジュの声が低くなる。
たぶん、目を細めている。そういう顔が目に浮かんでしまう。
「娘を傷つける頼みなら、王であろうと断る」
その宣言が、壁の結界みたいに響いた。
私の足元が、少しだけ軽くなる。守られている、という感覚が生々しい。
……逃げたくなる。
でも、逃げたら、ここまで積み上げた私が崩れる。
私は扉をノックした。
「入ってもいいですか」
返事は、同時だった。
「入れ」
「もちろんだ、アリア」
扉を開けると、応接室の窓から冬の光が差していた。
暖炉の火は控えめで、代わりに空気そのものが清潔だ。研究塔らしい、薬草と紙の匂い。
そして、父がいた。
背筋の伸びた姿勢。髪に白いものが増えている。
昔のままのはずなのに、私の記憶より少し小さく見えた。
父は立ったまま、深く頭を下げた。
「……アリア」
名前を呼ばれただけで、喉が痛い。
私は反射的に、丁寧に返した。
「お久しぶりです。父上」
声が震えなかったのは、たぶん、セイジュが隣にいるからだ。
彼は腕を組み、表情を動かさない。けれど、私の手首のあたりに結界の薄い膜を感じる。
この人、無意識に私の周りを固めている。
父は顔を上げた。目が赤い。泣いたのか、寝ていないのか。
どちらにしても、今のアストリアがそれだけ追い詰められている証拠だ。
「……元気そうで、安心した」
「ええ。こちらでは、皆が私を便利屋扱いしませんので」
言ってから、しまったと思った。
でも父は、苦い笑みを浮かべた。
「それが、本来のはずなのにな」
「……父上」
空気が重くなる前に、セイジュが口を挟んだ。
「用件を言え。情に訴えるなら帰れ」
「情ではない。……いや、情もある。だが、それだけではない」
父はまっすぐに私を見た。
逃げ場のない視線だ。昔から、私がどんな嘘をついても見抜く目。
「国が壊れかけている」
「知っています。報告は受けています」
私は椅子に座り、父にも勧めた。父は少し迷ってから座る。
貴族の癖だ。相手より上に座らない。そんな小さな礼儀が、今はやけに痛い。
「崩落は始まった。まだ局所だが、止まらない」
「寿命です」
私は淡々と言った。
淡々と言わないと、顔が歪む。
「私が残した貯金魔力は、数年で尽きる。そう伝えたはずです」
「聞いていた。……だが、国は聞いていなかった」
父の拳が、膝の上で握られる。
「王家も貴族も、都合よく忘れた。大結界があるから安全だと、言葉だけを信じた」
「その言葉を、私も昔は信じていました」
私が言うと、父は目を伏せた。
「……娘を守れなかった」
「父上が守ろうとしたのは知っています」
知っている。本当に。
だからこそ、ここまで来るのに時間がかかった。
セイジュが、静かに言った。
「なら、用件はそれだけか」
「違う。私は……お願いに来た」
父は立ち上がり、もう1度、深く頭を下げた。
今度は、貴族としての角度だ。訓練された謝罪。
「アリア・レイン殿。ガルディアの独立魔導師として、アストリアへの救援を検討してほしい」
「父上……」
呼びそうになって、飲み込む。
今、父は父ではなく、使者だ。
「王家の名ではないのですか」
「王家の名でもある。だが私は、レイン家の当主として来た。責任の分け前は、私にもある」
責任。
その単語が、胸の奥の古い傷に触れた。
私は指先でカップの縁をなぞった。
温かい。現実だ。ここはガルディアで、私はもう消耗品ではない。
「助ける理由なら、いくらでも並べられます」
「なら、助けてくれるのか」
父の声が、僅かに揺れた。
その揺れが、怖い。期待されるのが怖い。
私は首を振った。
「理由があっても、条件がなければ動けません」
「条件……?」
父が息をのむ。セイジュは、少しだけ口元を緩めた。
私の言い方を、気に入ったらしい。こういうところ、ほんとうに分かりやすい。
「私はもう、アストリアの臣下ではありません」
「分かっている」
父は即答した。だから余計に胸が痛む。
「なら、何が必要だ」
「父上が持ってきたのは、お願いだけですか。それとも、覚悟ですか」
父は目を閉じた。しばらくして、静かに言った。
「国民だけは、見捨てたくない」
父の言葉が落ちた瞬間、私の脳裏に、知らない顔が浮かんだ。
王都の舞踏会で笑っていた貴族ではない。路地の子ども。市場の老人。城壁の上で震える若い兵士。
「道中で、避難民の列を見た」
父は続けた。声が少しかすれている。
「崩れた外壁の前で、パンを分け合っていた。雨の中でな」
「……」
「皆、口にした。アリア様に謝ってきてください、と」
その言葉に、胸の奥がきしんだ。
知らない人たちが、私の名前を。
「おまえがしてきたことを、今さら知ったのだ。遅すぎるのは分かっている」
「そうですね。遅いです」
私は笑うふりをして、失敗した。喉が詰まって、息が変な音になる。
セイジュが何も言わずに、私の指にそっと触れた。指先があたたかい。
「情を利用するつもりはない」
父が言った。私の表情を見て、急いで言い訳するように。
「ただ……あの人たちは、王家の愚かさとは無関係だ。貴族のメンツとも無関係だ」
「分かっています。だからこそ、難しい」
救えば、国は延命する。
延命した国は、また同じことを繰り返すかもしれない。
それを止めるのは、私ではなく、彼らの責任だ。
私は視線を上げた。
「父上。私が欲しいのは、謝罪ではありません」
「……何だ」
「情報と、公開の場です。逃げ道を残した話し合いはしません」
父の肩が僅かに揺れた。たぶん、分かったのだ。次に待っているのが、どれだけ痛いか。
「レオン殿下にも、来ていただきます」
「……来るだろう。今のあの方に、拒む余裕はない」
「では、条件を整えてください。私が会うのは、皆の前だけです」
セイジュが、ふっと鼻で笑った。
「いい判断だ。泣き落としは面倒だ」
「あなたは、泣き落としされる側じゃありません」
「されたことはない」
自信満々に言い切るから、私は思わず目を細めた。
父の前で何をやっているのか、と言われそうなのに、父は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、安堵した顔をしている。
私が、ここで孤立していないと分かったのだろう。
でも、だからこそ。
私は曖昧に頷くわけにはいかない。
私は呼吸を整えた。
「国民の命のために動くなら、私は動きます。ただし、やり方は私が決めます」
「それでいい」
父は、迷わず頷いた。
その瞬間、私の胸の奥の何かが、ほんの少しだけ解けた。
……父もまた、壊れてきたのだ。
国のために。私のために。どちらのためか、もう分からないくらいに。
私は視線を上げ、はっきりと言った。
「個人としてなら、もう赦しています。ただ、国としての話は別です」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第70話は「父として」と「国として」の線引き回でした。アリアが助けると決めた瞬間から、交渉も恋も一気に動きます。次話は公開の場での対決――そしてセイジュの独占欲が、思わぬ形で噴き出す予定です。
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