第69話 立場の逆転
謁見の間へ続く廊下は、いつもより静かだった。
静か、というより、音が硬い。靴音も衣擦れも、石壁に吸い取られずに跳ね返ってくる。
私は案内された別室の窓辺に立ち、遠くの空を見た。
冬の光が薄い。けれど、城壁の外に広がる防衛線の光は強い。グラナ式多重結界の、あの白い輪郭だ。
「落ち着かない顔だ」
背後から、短い声。
「落ち着いていますよ。たぶん」
「たぶん、で言い切るな」
セイジュはいつも通り、感情の起伏を見せない。黒いローブの襟元だけが、ほんのわずかに揺れている。
その揺れが、私の心拍と同じくらい速い気がして、勝手に苦く笑った。
「来ましたか」
「もう城門は通った。次は陛下の前だ」
来ると分かっていたのに、胸の奥がきしむ。
昔、魔力の鎖が鳴るような違和感を覚えた日がある。あれと似ている。理屈ではなく、身体が先に知ってしまう痛み。
アストリアの特使団。
つまり、レオンとリリアナと、私の父。
そして、あの国の命そのもの。
別室は、謁見の間と細い導線で繋がっている。壁越しに声は届かない。だが魔力なら、届く。
私は指先を軽く曲げ、室内に張られた小さな遮音結界の縁をなぞった。
「聞こえますか」
「音は要らない。空気だけで十分だ」
セイジュの言い方は、相変わらず物騒だ。
けれど、その物騒さが、今はありがたい。
私たちは、魔力を細く伸ばして、謁見の間の気配をなぞった。
そこには、剣先みたいに張りつめた緊張と、冷たい礼儀と、焦げた焦燥が混ざっている。
「……重いですね」
「当然だ。頼みに来る側は、いつだって重い」
私はうなずきながら、もう1度窓の外を見た。
あの結界は、壊れない。壊させない。そういう設計にした。
けれど、遠い空の向こうで、別の結界が裂けている。
助けを乞われるのは、私ではない。
世界が、だ。
扉の外で足音が止まり、控えの兵が一礼だけして去った。
合図。謁見が始まったのだろう。
私は背筋を伸ばす。
この部屋は観客席ではない。次の手を決める場所だ。
「アレクシス陛下は、簡単には首を縦に振りませんよね」
「振らない。だからこそ、王だ」
セイジュは壁に背を預け、腕を組んだ。
その姿だけで、盾の前に立たれている感じがする。私が守る結界の内側に、さらに結界が1枚増えるような。
謁見の間から、魔力の波がわずかに揺れた。
あちらで誰かが頭を下げた。きっと、形式的な挨拶の最初。
私は目を閉じ、波の揺れを数で捉える。
魔力は嘘をつけない。波の幅、震え、息の乱れ。焦りは必ず漏れる。
息を吸う。
吐く。
そして、思い出す。
玉座の間で、私を指さした人の顔。
あの日の私は、背中を向けて扉を閉めた。もう戻らないと決めた。
なのに今、戻らないまま、関わろうとしている。
矛盾ではない。成長だ。たぶん。
「アリア」
「はい」
「今、何を考えている」
セイジュの問いは、いつも正確で逃げ道がない。
私は少しだけ間を置いてから、正直に言った。
「会ったら、きっと、私は優しくしてしまうと思います」
「それは悪いことか」
「悪いことではありません。でも、危ないです」
個人の優しさは、政治の場では刃になる。
私が情に流れた瞬間、世界の安全保障が私の気分で左右される。
そんなことを、私は許せない。
また、波が揺れた。
今度は、硬い。言葉が刃になっている。
ユリウスだ。
あの人の魔力は、いつも整っていて、容赦がない。書類の角みたいに、鋭い。
私は小さく笑う。
ユリウスはたぶん、こう言っている。
これは二国間問題ではない。世界の話だ。だから、過去の経緯を隠すな、と。
隠したまま助けを求めるのは、都合がいい。
都合がいい救いは、必ず歪む。
「ユリウスが刺してる」
「刺すのが仕事だからな」
セイジュが淡々と言う。
でも、その声は少し低い。怒っている時の低さだ。
「セイジュ」
「分かっている。俺は、今は動かない」
動いたら終わる。
謁見の間が、文字通り焼ける。
また、波が揺れた。
今度は、揺れが小さいのに、深い。腹の底からの屈辱だ。
王族特有の、あの誇りが折れる音。
レオンが、頭を下げたのだろう。
私は、瞼の裏でその光景を想像しないようにした。
想像した瞬間、私は個人の物語に戻ってしまう。
今日は、世界の話をする。
「……来るべき時が来ただけです」
「そうだ」
セイジュは私の隣に立ち、窓の外を一緒に見た。
視線の先にあるのは、結界の光と、遠い山脈と、その向こうの闇。
「アストリアの大結界は、もう限界です」
「分かっている」
「でも、私が直接触れれば、また同じになる」
私が魔力を差し込めば、あの国はまた私に依存する。
依存は甘い。甘いものは、やがて毒になる。
私は唇を噛み、言葉を選ぶ。
「助けるなら、仕組みを変えなければいけません」
「だから、おまえは会議を開かせる」
セイジュが言い当てる。
私は頷いた。頷くしかない。
謁見の間の波が、少し緩んだ。
交渉が第一段階を終えた合図だ。挨拶と状況説明の入り口は通った。
次に来るのは、核心。
どうしてここまで崩壊したのか。
誰が、何を見て見ぬふりをしたのか。
そして、誰を捨てたのか。
扉がノックされる。
控えの侍女が顔を出し、そっと言った。
「主任。宰相閣下より、後ほどご報告があるそうです」
「分かりました。ここで待ちます」
侍女が下がると、室内がまた二人だけになる。
私は自分の手のひらを見た。淡い光がにじんでいる。魔力の熱だ。
怒っている。怖がっている。どちらも本当。
「会うか?」
セイジュが、唐突に聞いた。
その短さが、優しさだと分かる。私が揺れているのを、見抜いている。
「……まだです」
「理由は」
「条件を整えてから」
私は言い切った。今度は、たぶんを付けない。
会うなら、私が勝手に優しくならない場所で会う。
私の優しさを、世界のために使える形に整えてから会う。
セイジュは一瞬だけ目を細めた。
それは笑みではない。確認だ。覚悟の確認。
「分かった。なら、俺が時間を稼ぐ」
「燃やさないでくださいね」
「燃やさない。……必要なら、凍らせる」
「どっちも危険です」
言い返すと、彼の口角がほんの少しだけ上がった。
その小さな変化に、胸の奥のきしみが、少しだけほどける。
扉の向こうで、足音が近づく。
ユリウスだろう。紙の束みたいに整った歩き方が、魔力の波に出ている。
私は椅子に座り、背筋を伸ばした。
今から聞くのは、他人の謝罪ではない。
世界を守るための、請求書だ。
そして私は、それに値札を付ける側にいる。
扉が開く。
ユリウスが入ってきて、いつものように涼しい顔で言った。
「お待たせしました、主任。さて、まずはアストリア側に1つ、質問です。彼らはどこまで真実を語るつもりでしょうね」
私は、静かに息を吸った。
「語らせましょう。全部」
ユリウスは私の向かいに座らず、机の端に書類を置いた。いつも通り、余計な感情を椅子に乗せない人だ。
「ガルディア王は、助力の可能性は否定しません。ただし二国間の情で動く気はない、と明言しました」
「当然ですね」
「ええ。当然です。だから私は、彼らに説明を求めました。崩壊の兆候をいつから把握し、何を放置し、誰を排除したのか」
言い方が、もう尋問だ。
私は少しだけ頬が緩む。ユリウスが怖い時は、だいたい私の味方だ。
「反応は?」
「国王は沈黙。王妃は青ざめ、例の王太子は……言葉を探していました。探して、ようやく言いました。知らなかった、と」
知らなかった。
便利な言葉だ。何も見ていない人間のための、免罪符。
胸の奥がまたきしむ。
でも、きしみは怒りだけじゃない。あの時、私が何度も説明しようとして、届かなかった記憶が疼く。
「……今は、その言葉すら貴重ですね」
「はい。やっと入口に立った、と評価できます」
ユリウスが紙を1枚だけ取り出す。
それは、アストリア側が差し出した現状報告の概要だった。数字が並び、崩壊した都市名がいくつも書かれている。
私は視線を落とし、頭の中で結界の断面図を重ねた。
外殻。緩衝。内側。地中基底。中枢核。
寿命切れの崩れ方をしている。延命のために無理な再配分をした痕跡もある。
「魔導師長は?」
「同席しています。技術者としては、逃げない顔でした。……遅すぎますが」
私は指先で紙の端を押さえた。
軽い紙なのに、重い。
「アリア」
セイジュが私を呼ぶ。短い。心配の短さ。
「大丈夫です。倒れません」
「倒れたら抱えて運ぶ」
「それはそれで困ります」
口が勝手に軽口を言って、場の空気がわずかに緩む。
ユリウスが咳払いをして、話を戻した。
「で、主任。会いますか?」
「まだです」
「理由は」
「私が優しくなりすぎるからです」
ユリウスは一瞬だけ眉を上げた。
セイジュは、眉を動かさない。けれど気配が少しだけ鋭くなる。
「優しさを、条件に変えます」
私は続けた。
「真実を公開すること。国際会議を開くこと。結界技術を、国の体面ではなく安全保障の枠で扱うこと。そこまで飲めたら、私は動きます」
言葉にした瞬間、胸のきしみが整理された。
感情は消えない。でも、使い道は選べる。
ユリウスが満足そうに頷く。
「よろしい。ではその方向で、王に進言します。ついでにもう1つ。彼らに謝罪を求めますか」
「求めません」
「即答ですね」
「謝罪は、彼らのための儀式です。私のためではない」
ユリウスが笑いかけて、やめた。笑うと怖さが減るから、やめたのだろう。
「では、最後に確認です。会うのはいつです?」
セイジュが、私の横で言った。
私は窓の外の結界を見てから、答えた。
「彼が、自分の口で自分の罪を言えた後です。条件を整えてから」
その言葉は、私自身への釘でもあった。
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アリアが“情”ではなく条件で動くと決めたことで、物語は一気に政治の盤上へ。次話、アストリア側がついに真実を口にし――彼女が会うべき相手が動きます。
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