第67話 アストリア特使団出立
王都の朝は、いつもなら鐘の音で始まる。
けれど今日の鐘は、祝福じゃない。
急かすための音だった。
私は白い外套の襟を握りしめ、広場に停まる馬車を見つめた。
王家の紋章が掲げられた、公式の特使団。
この国が、隣国に頭を下げに行くための箱。
民の視線が刺さる。
これまで夜会で浴びてきた視線とは違う。飾りや噂じゃなく、命の重さが混じっている。
私の隣に立つレオン殿下は、いつもより背筋がまっすぐだった。
表情は固い。けれど、逃げない顔だ。
「準備はいいか、リリアナ」
「……はい」
声が震えないように、息を整える。
私は王妃になった。だから強く見せなきゃいけない。
そう思っていたのに、今は逆だ。
強く見せるほど、嘘になる。
馬車の前には、レイン伯爵が立っていた。
黒い外套。いつもより少しだけ肩が落ちて見える。
王宮魔導師長もいる。眠っていない目で、何度も空を見上げていた。
空。
王都の上には、薄い光の膜がある。
大結界。神殿が誇る奇跡。私たちが信じてきた当然。
その膜に、ひびが走っている。
目を凝らさなくても分かるほどの、大きな裂け目。
広場の端で、誰かが叫んだ。
「アリア様に謝ってきてください!」
別の声が重なる。
「お願いです、助けてください! もう、子どもが……!」
胸が、ぎゅっと縮む。
その名前を聞くだけで、喉が渇く。
アリア・レイン。
私が、王妃の座を手に入れるために踏んだ人。
踏んだ、なんて軽い言葉だ。
私はあの人の人生を、折った。
レオン殿下が一瞬だけ眉を動かした。
怒りでも侮蔑でもない。
痛みを飲み込む顔だった。
「……行くぞ」
それだけ言って、殿下は馬車に乗り込む。
私も続こうとして、足が止まった。
民の中に、泣いている女の人がいた。
腕の中の子どもが、ぐったりしている。
熱があるのか、頬が赤い。
私は思わず駆け寄りかけて、護衛の騎士に止められた。
「王妃殿下、お下がりください。混乱が――」
「分かっています。でも……」
私は唇を噛んだ。
混乱が起きるから助けない。
その理屈が、今日だけは刃みたいに冷たい。
レイン伯爵が私の方を見た。
言葉はない。けれど、その目にあるのは責めではなく、焦りだった。
この国の盾が、もう持たないという焦り。
私が、盾を捨てる側にいたという事実が、背中に貼りつく。
馬車が動き出す。
車輪が石畳を叩く音が、いつもより大きい。
王都の門を抜けた瞬間、空気が変わった。
城壁の外は、冬の匂いと土の匂い。
それに混じる、鼻の奥に残る苦い匂い。
瘴気の匂いだと、今なら分かる。
街道には荷車が並び、人が歩いている。
王都へ向かう避難民の列。
荷物は少ない。顔色は青い。
馬車の窓から見える人々が、私たちを見上げる。
助けを求める目。
恨みと希望が、ごちゃまぜの目。
私は視線をそらせなかった。
「殿下……」
「今は見るな」
レオン殿下の声は低かった。
叱責じゃない。自分に言い聞かせるみたいに。
「見ても、何もできない。まずガルディアへ行く」
「でも、見ないと……」
そう言いかけて、言葉が詰まる。
見ないと、私たちはまた同じことをする。
都合のいい沈黙で、誰かを切り捨てる。
でも、見れば。
この苦しさを、抱えたまま走らないといけない。
馬車が揺れた。
遠くで、何かが崩れる音がした気がした。
王宮魔導師長が、膝の上の水晶盤を撫でる。
薄い光が走り、盤面に細い線がいくつも浮かんだ。
「……歪み率が、また上がった」
「どれほどだ」
レオン殿下が低く問う。
「王都の基底層は、まだ耐えています。ただ、北方は――」
魔導師長は言い淀み、息を吐いた。
「小結界での応急処置も、焼け石です。これ以上の崩落が続けば、王都へ波が来るまで……日単位になります」
日単位。
その言葉が、喉を締めた。
私は小さく首を振る。
怖くても、目を閉じるわけにはいかない。
昼前、私たちは被害の出た都市の外縁を通った。
城壁が崩れている。
石が割れ、門が半分潰れ、黒い汚れが地面に染みていた。
あれが瘴気の跡だ。
私の頭が、勝手に理解してしまう。
理解した瞬間、吐き気がした。
都市の中から、煙が上がっていた。
焼けた匂い。血の匂い。湿った布の匂い。
生きている人の匂いと、もう戻らない人の匂いが混ざっている。
「止めろ!」
自分の声が出たことに驚いた。
護衛が驚き、御者が手綱を引く。
「王妃殿下、ここは危険です」
「分かっています。でも、ここを通り過ぎたら……私は、2度と自分を許せません」
口にしてから、自分で震えた。
許すとか許さないとか。
本当に許されるべきなのは、私じゃないのに。
レオン殿下が、馬車の扉に手をかけた。
少しだけ迷って、それから頷く。
「……5分だ。護衛を増やせ」
「殿下!」
「国王の命は、ガルディアへ頭を下げろだ。だが、国民を見ろとも言われた」
その言葉に、胸が熱くなる。
遅い。遅すぎる。
でも、今やるしかない。
崩れた城壁の近くに、臨時の配給所ができていた。
布の天幕。鍋。薄い粥の匂い。
子どもが、列の端で座り込んでいる。
私は外套の裾を持ち上げ、泥の中へ踏み込んだ。
「お水、ありますか」
配給の女の人が私の顔を見て、息を呑む。
次の瞬間、顔を歪めた。
「……王妃様」
「叱ってください。あとで、いくらでも。でも今は――この子に」
自分でも驚くほど、言葉がまっすぐ出た。
言い訳を挟む余地がない。
目の前の小さな命が、余地を許してくれない。
女の人は迷って、それから水筒を差し出した。
私は膝をついて、子どもの口元に水を当てる。
男の子。たぶん5歳くらい。
唇が乾いて割れている。
目が開いた瞬間、怯えたように私を見た。
「怖いよね。大丈夫。飲んで」
私は微笑もうとして、うまくできなかった。
それでも、男の子は少しだけ水を飲んだ。
「パンも……」
私は侍女が持たせてくれた袋を開き、ちぎって渡す。
男の子の手は、骨みたいに細い。
そのとき、男の子が小さく呻いた。
腕に巻かれた布が赤く滲んでいる。
「怪我、してるの?」
私は布に触れてしまい、男の子がびくりと震えた。
「いや……だめ……」
だめ。
その言葉が、胸に刺さる。
私は自分が怖がられて当然だと分かっている。
「ごめん。痛かったね。……見せて。お願い」
布をそっとめくると、擦り傷じゃない。
裂けた傷。石の破片だろう。
ちゃんと洗えていないのか、周りが腫れている。
血が、少しだけ溢れた。
私は息を止めた。
赤い。温かい。
生きている血だ。
「布を……新しい布をください」
配給所の人が、黙って布を渡す。
私は水をほんの少しだけ傷に流し、布で押さえた。
治癒魔術なんて使えない。私は聖女じゃない。
ただ、止血くらいならできる。
「痛いけど、少しだけ我慢して」
男の子の目から、涙がこぼれた。
それでも泣き叫ばない。
泣き叫ぶ元気すら残っていない。
私は、もう我慢できなかった。
泥の上で、その子を抱きしめた。
外套が汚れるとか、立場とか、どうでもよかった。
「ごめんなさい」
誰に言ったのか分からない。
男の子に。母親に。アリア様に。国に。
全部に。
背中に手が触れた。
レオン殿下だと思って振り向くと、レイン伯爵だった。
「……殿下、時間です」
伯爵の声は低い。けれど、優しかった。
優しいのが、痛い。
私は男の子をそっと離し、母親に布の押さえ方を伝えた。
母親は泣きながら何度も頭を下げた。
私には、頭を下げる資格なんてないのに。
馬車に戻る途中、手が震えた。
指先が、赤い。
男の子の血が、私の手のひらに残っていた。
洗えば落ちる。
水をかければ消える。
でも、落ちたら。
私はまた忘れてしまう気がした。
馬車の段差に足をかけたところで、膝が崩れそうになった。
レオン殿下が腕を伸ばし、私を支える。
「リリアナ」
「……殿下。私、今まで……」
言葉が続かなかった。
謝罪は軽すぎる。
後悔は遅すぎる。
レオン殿下は、私の手を見た。
赤い指先を。
「それを持って行け」
「え……?」
「忘れるな。俺も忘れない」
殿下の目は、私を見ていなかった。
もっと遠いものを見ていた。
裂けた空。崩れた都市。王都へ続く避難民の列。
そして、ガルディアにいるはずの人。
アリア・レイン。
馬車が再び動き出す。
窓の外で、煙が細く揺れる。
しばらくして、街道の先の空が、ほんの少しだけ暗くなった。
雲ではない。光の膜が薄くなった色だ。
私は息を呑む。
遠くで、ガラスを指でなぞるような、きしむ音がした気がした。
誰も口にしない。
言葉にした瞬間、現実になるのが怖いから。
私は両手を膝の上で重ねた。
赤い染みが、じわりと広がって見える。
私は自分の手を見つめたまま、震えていた。
この震えが、罰なのか。
それとも、やっと始まった現実なのか。
答えはまだ出ない。
ただ、分かっている。
私たちは今から、頭を下げに行く。
国のために。
そして、私たちが捨てた人の前へ。
手のひらの赤が、乾いて暗くなるまで。
私は、目をそらさなかった。
ここまでお読みくださりありがとうございます。泥の赤を「忘れない」と決めたリリアナたちが、次はついにガルディアで捨てた人と向き合います。頭を下げるだけで済まない交渉、そして溺愛の火種も……。続きが気になったら、ブクマ&評価で背中を押して頂けると励みになります。




