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「完結済」婚約破棄された令嬢ですが、この国の大結界を張っていたのは私なので、隣国の魔導師団長にスカウトされました  作者: 夢見叶
第3部 結界崩壊と国際会議編 第9章 結界崩壊の兆候

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第65話 綻びから裂け目へ

 観測室の空気は、いつからこんなに重くなったのだろう。


 私の机には、結界観測器の記録紙が積み上がっている。

 細い針が描く線は、ここ数日ずっと落ち着かない。波打ち、跳ね、そして少しずつ基準値から外れていく。


 王宮魔導師長という肩書きは、昔は誇りだった。

 いまは、遅すぎた仕事の名前にしか聞こえない。


 私は新しい記録紙を引き抜いた。


 歪み率、侵入度、緩衝層の厚み。

 どの項目も、見たくない数字を並べてくる。


 扉がノックされ、若い魔導師が顔を出した。


「魔導師長。北方の中規模都市、カレム方面から緊急報告です」


 声が震えている。報告内容を聞く前から、私は結論を知っていた。


「言え」


「結界が……都市全域で崩壊しました。城壁の上で光が割れて、膜が落ちるように消えたと。瘴気が流れ込み、魔物の群れが……」


 私は指先でこめかみを押さえた。


 やはり、来た。

 小さな綻びは、もう綻びではない。


「被害は」


「死傷者が出ています。避難は半分。神殿が最後の小結界を……」


 若い魔導師は途中で言葉を詰まらせた。


 私は短く息を吐き、紙束の下から古い帳簿を引っ張り出す。

 歴代の魔導師長が残した、結界維持の記録。

 誰も表に出さない、王家だけの帳簿だ。


 ページをめくるたび、背中が冷える。


 結界は、奇跡ではない。

 仕組みだ。

 そして仕組みには、寿命がある。


 私は記録の端にある、古い注記を見つけた。

 レイン家の印が押された、細い筆跡。


 基底層は、想定以上に魔力の疲労が蓄積している。

 次代の制御者がいない場合、残余魔力は数年で枯渇する。


 目の奥が熱くなった。


 数年前、あの令嬢が王宮を去った日。

 私は何をした。

 何もしなかった。ただ見送った。

 王家の空気に飲まれ、都合のいい沈黙を選んだ。


 その結果が、いま机の上に積み上がっている。


 若い魔導師が恐る恐る言う。


「魔導師長……大結界は、直せるのでしょうか」


 問いの形をしているだけで、返事を期待していない目だった。


「直せる、という言い方は正しくない」


 私は帳簿を閉じた。


「これは、修理して終わる傷ではない。構造そのものが限界に来ている。いま崩れた都市は、たまたま弱い節だっただけだ。次は、もっと大きい」


 若い魔導師の顔が青ざめる。


「では、王都も」


「……時間の問題だ」


 口にした途端、喉が渇いた。


 私は立ち上がり、窓へ向かった。

 観測室は城壁に近い。上空の結界を、直接見ることができる。


 空は冬の淡い灰色だ。

 その灰色の向こうに、薄い膜が見える。


 そして。


 そこに、線が走っていた。


 遠目でも分かるほど、はっきりと。

 蜘蛛の糸のような細さではない。剣で引き裂いたような裂け目。

 光が歪み、膜がきしむ。


 観測器の針が、短く跳ねた。

 まるで、息をつめるように。


「……目視確認。王都上空、外殻層に大きな亀裂」


 私は背後の魔導師たちに命じた。


「記録を取れ。地図に落とせ。歪みの中心を推定する。王に報告する。すぐだ」


 魔導師たちが散る。

 机が揺れるほどの勢いで、計測器が唸る。


 廊下を走る。

 走ってはいけない場所だが、そんなことを言っている場合ではない。


 王の執務室前には、すでに近衛が立っていた。

 中から声が漏れている。重い沈黙と、紙をめくる音。


 私が名を告げると、扉はすぐ開いた。


 国王陛下は机の前に立ち、地図を見下ろしていた。

 その隣に、レオン王がいる。

 王としての装いをしているのに、目だけが若いままだ。


「魔導師長。顔色が悪いな」


 国王の声は低い。だが、私はその奥に焦りを感じた。


「北方都市カレム、結界全崩壊。死傷者あり。さらに、王都上空の大結界に目視できる亀裂が出ました」


 言い終えた瞬間、部屋の温度が下がった気がした。


 レオン王が前へ出る。


「目視できる、だと……?」


 彼の目が揺れている。

 昔の彼なら、ここで誰かに怒鳴っていただろう。

 いまは、怒鳴る相手がいないことを理解している顔だった。


「観測器の値は、崩壊の連鎖を示しています。継ぎ足しの補修では追いつきません」


「なら、どうすればいい」


 国王が問う。


 私は、言葉を選んだ。

 この部屋にいる全員が、同じ名前を思い浮かべている。

 その名前を口にするのが、怖いのは私だけではない。


「設計者に頭を下げるしかありません」


 レオン王の喉が鳴った。


 国王は目を閉じた。

 そして、静かに言った。


「……アリア・レインのもとへ、使者を出せ」


 私は胸の奥が痛くなるのを感じながら、深く頭を下げた。


「承知いたしました。ですが、条件は向こうが握ります。こちらは、交渉材料を持っていない」


「分かっている」


 国王は机の縁を握りしめた。


「国の誇りより、民の命が先だ。いまさら格好をつけても、空が割れるだけだ」


 その言葉に、レオン王が目を伏せる。

 沈黙の中で、彼の拳が震えていた。


 外でざわめきが増えた。

 城壁の上を巡回していた騎士が、叫んでいる。


「空を見ろ!」


 国王が窓へ向かう。

 レオン王も、その後ろを追った。


 私も続き、執務室に繋がる小さなバルコニーへ出た。

 冷たい風が頬を打ち、鼻の奥が妙に痛む。

 瘴気が混じり始めている。ほんのわずかだが、分かる。


 空の裂け目は、さっきより太く見えた。

 光が縁で散り、薄い膜が波のように揺れている。


 城下の人々も気づき始めたのだろう。

 遠くで、子どもの泣き声が聞こえた。


 レオン王が、呟く。


「……あれを、彼女は1人で支えていたのか」


 私は答えられなかった。

 答えは、肯定しかない。


 国王が唇を固く結ぶ。


「使者には、現状を正確に伝える資料を持たせる。嘘は通じない。彼女は数字で人を裁く」


 国王の声は、すでに覚悟の音になっていた。


 私は頷く。


「観測記録と、崩壊した都市の報告。中枢核の負荷推定。こちらの見落としも、包み隠さず」


「誰を行かせる」


 国王が問う。


 私は答える前に、別の報告を思い出した。

 ガルディアへ向かうと決めた、レイン伯爵の動き。

 娘を守る父として、国の代表として。

 あの伯爵は、矛盾を背負ってでも来るだろう。


「レイン伯爵が動いていると聞きました。同行させるべきです。謝罪と、最低限の誠意を示すなら」


 国王は短く息を吐き、決断した。


「よし。魔導師長、おまえが準備を整えろ。最速でガルディアへ。……そして」


 国王の視線が、もう1度空へ向いた。


「間に合え。あの裂け目が、裂けきる前に」


 私は頷き、踵を返した。


 廊下へ戻ると、遠くで警鐘が鳴った。

 まだ戦時の鐘ではない。注意を促す鐘だ。


 それでも、胸の奥が嫌な音を立てる。


 空が割れる音を、私は思い出した。

 地方の夜警が聞いたという、鎖がきしむような音。

 あれは警告ではなかった。


 宣告だったのだ。


 そしていま、その宣告を止められるのは。

 私たちが追い出した、たった1人の魔導師だけだった。


 私は足を速めた。

 書類と印章と、謝罪の言葉を抱えて。


 間に合わなければ、次に割れるのは空ではない。

 この国そのものだ。


 執務室を離れた途端、私は背後の近衛に言った。


「観測室へ伝令を。王命だ。使者団を編成する。船も馬も、最短で動かせ」


 返事は力強いのに、廊下の空気は震えていた。

 誰もが分かっている。

 これは災害ではなく、国家の土台が剥がれる音だと。


 観測室へ戻ると、机の周りに魔導師たちが集まっていた。

 記録紙はさらに増え、地図には赤い印が打たれている。


「裂け目の幅が、指2本分ほど広がりました」


 報告した魔導師の声は、乾いていた。


「王都上空でこれだ。地方はもっと早い。封鎖準備を。門の結界を強めろ。市街の避難導線も確保する」


 私は命じながら、別の机に向かった。

 そこには白い羊皮紙と、王家の封蝋が置かれている。


 手紙を書く指が、重い。


 宛名を書くだけで、胸が詰まった。


 アリア・レイン殿。


 あの名を、私は公式文書に載せることを、どこかで避け続けてきた。

 王家の面子、宮廷の空気、誰かの保身。

 その全部が、いまは滑稽だ。


 私は文面を組み立てる。

 助けてくれ、と書くのは簡単だ。

 だが、それではまた同じだ。

 あの魔導師を、都合のいい道具に戻す言葉になる。


 だから、書く。


 貴女の判断に従う。

 条件を提示してほしい。

 技術者として、対等に交渉してほしい。


 ペン先が紙を削る音だけが、観測室に残った。


 最後に封蝋を落とし、王家の紋章を押す。

 赤い蝋が固まるまでの数息が、異様に長い。


 そのとき、また警鐘が鳴った。


 誰かが窓を開け、空を見上げた。


「……光が、また揺れています」


 私は顔を上げる。

 裂け目は確かにそこにある。

 ゆっくりと、しかし確実に、裂ける方向へ進んでいる。


 私は封書を握りしめた。


 この手紙が届く前に、空が先に割れたら。

 そのときは、もう謝罪の言葉すら届かない。


 だから私は、命令した。


「使者は今夜のうちに発て。夜明けを待つな。王都が静かなうちに、国境を越えろ」


 魔導師たちが走り出す。


 私は窓の外を見たまま、心の中でだけ言った。


 間に合ってくれ。

ここまでお読み頂きありがとうございます。王都の空に走った亀裂——間に合うのか、そしてアリアが差し出す条件とは。次話は使者の到着と再会の火花が動きます。続きが気になったら、ブクマ&評価で背中を押して頂けると励みになります。


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婚約破棄?上等、封印証拠で公開監査し監査公爵と溺愛契約
― 新着の感想 ―
「国王」の下にレオン「王」がいる、そういう世界観、ですね?
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