第65話 綻びから裂け目へ
観測室の空気は、いつからこんなに重くなったのだろう。
私の机には、結界観測器の記録紙が積み上がっている。
細い針が描く線は、ここ数日ずっと落ち着かない。波打ち、跳ね、そして少しずつ基準値から外れていく。
王宮魔導師長という肩書きは、昔は誇りだった。
いまは、遅すぎた仕事の名前にしか聞こえない。
私は新しい記録紙を引き抜いた。
歪み率、侵入度、緩衝層の厚み。
どの項目も、見たくない数字を並べてくる。
扉がノックされ、若い魔導師が顔を出した。
「魔導師長。北方の中規模都市、カレム方面から緊急報告です」
声が震えている。報告内容を聞く前から、私は結論を知っていた。
「言え」
「結界が……都市全域で崩壊しました。城壁の上で光が割れて、膜が落ちるように消えたと。瘴気が流れ込み、魔物の群れが……」
私は指先でこめかみを押さえた。
やはり、来た。
小さな綻びは、もう綻びではない。
「被害は」
「死傷者が出ています。避難は半分。神殿が最後の小結界を……」
若い魔導師は途中で言葉を詰まらせた。
私は短く息を吐き、紙束の下から古い帳簿を引っ張り出す。
歴代の魔導師長が残した、結界維持の記録。
誰も表に出さない、王家だけの帳簿だ。
ページをめくるたび、背中が冷える。
結界は、奇跡ではない。
仕組みだ。
そして仕組みには、寿命がある。
私は記録の端にある、古い注記を見つけた。
レイン家の印が押された、細い筆跡。
基底層は、想定以上に魔力の疲労が蓄積している。
次代の制御者がいない場合、残余魔力は数年で枯渇する。
目の奥が熱くなった。
数年前、あの令嬢が王宮を去った日。
私は何をした。
何もしなかった。ただ見送った。
王家の空気に飲まれ、都合のいい沈黙を選んだ。
その結果が、いま机の上に積み上がっている。
若い魔導師が恐る恐る言う。
「魔導師長……大結界は、直せるのでしょうか」
問いの形をしているだけで、返事を期待していない目だった。
「直せる、という言い方は正しくない」
私は帳簿を閉じた。
「これは、修理して終わる傷ではない。構造そのものが限界に来ている。いま崩れた都市は、たまたま弱い節だっただけだ。次は、もっと大きい」
若い魔導師の顔が青ざめる。
「では、王都も」
「……時間の問題だ」
口にした途端、喉が渇いた。
私は立ち上がり、窓へ向かった。
観測室は城壁に近い。上空の結界を、直接見ることができる。
空は冬の淡い灰色だ。
その灰色の向こうに、薄い膜が見える。
そして。
そこに、線が走っていた。
遠目でも分かるほど、はっきりと。
蜘蛛の糸のような細さではない。剣で引き裂いたような裂け目。
光が歪み、膜がきしむ。
観測器の針が、短く跳ねた。
まるで、息をつめるように。
「……目視確認。王都上空、外殻層に大きな亀裂」
私は背後の魔導師たちに命じた。
「記録を取れ。地図に落とせ。歪みの中心を推定する。王に報告する。すぐだ」
魔導師たちが散る。
机が揺れるほどの勢いで、計測器が唸る。
廊下を走る。
走ってはいけない場所だが、そんなことを言っている場合ではない。
王の執務室前には、すでに近衛が立っていた。
中から声が漏れている。重い沈黙と、紙をめくる音。
私が名を告げると、扉はすぐ開いた。
国王陛下は机の前に立ち、地図を見下ろしていた。
その隣に、レオン王がいる。
王としての装いをしているのに、目だけが若いままだ。
「魔導師長。顔色が悪いな」
国王の声は低い。だが、私はその奥に焦りを感じた。
「北方都市カレム、結界全崩壊。死傷者あり。さらに、王都上空の大結界に目視できる亀裂が出ました」
言い終えた瞬間、部屋の温度が下がった気がした。
レオン王が前へ出る。
「目視できる、だと……?」
彼の目が揺れている。
昔の彼なら、ここで誰かに怒鳴っていただろう。
いまは、怒鳴る相手がいないことを理解している顔だった。
「観測器の値は、崩壊の連鎖を示しています。継ぎ足しの補修では追いつきません」
「なら、どうすればいい」
国王が問う。
私は、言葉を選んだ。
この部屋にいる全員が、同じ名前を思い浮かべている。
その名前を口にするのが、怖いのは私だけではない。
「設計者に頭を下げるしかありません」
レオン王の喉が鳴った。
国王は目を閉じた。
そして、静かに言った。
「……アリア・レインのもとへ、使者を出せ」
私は胸の奥が痛くなるのを感じながら、深く頭を下げた。
「承知いたしました。ですが、条件は向こうが握ります。こちらは、交渉材料を持っていない」
「分かっている」
国王は机の縁を握りしめた。
「国の誇りより、民の命が先だ。いまさら格好をつけても、空が割れるだけだ」
その言葉に、レオン王が目を伏せる。
沈黙の中で、彼の拳が震えていた。
外でざわめきが増えた。
城壁の上を巡回していた騎士が、叫んでいる。
「空を見ろ!」
国王が窓へ向かう。
レオン王も、その後ろを追った。
私も続き、執務室に繋がる小さなバルコニーへ出た。
冷たい風が頬を打ち、鼻の奥が妙に痛む。
瘴気が混じり始めている。ほんのわずかだが、分かる。
空の裂け目は、さっきより太く見えた。
光が縁で散り、薄い膜が波のように揺れている。
城下の人々も気づき始めたのだろう。
遠くで、子どもの泣き声が聞こえた。
レオン王が、呟く。
「……あれを、彼女は1人で支えていたのか」
私は答えられなかった。
答えは、肯定しかない。
国王が唇を固く結ぶ。
「使者には、現状を正確に伝える資料を持たせる。嘘は通じない。彼女は数字で人を裁く」
国王の声は、すでに覚悟の音になっていた。
私は頷く。
「観測記録と、崩壊した都市の報告。中枢核の負荷推定。こちらの見落としも、包み隠さず」
「誰を行かせる」
国王が問う。
私は答える前に、別の報告を思い出した。
ガルディアへ向かうと決めた、レイン伯爵の動き。
娘を守る父として、国の代表として。
あの伯爵は、矛盾を背負ってでも来るだろう。
「レイン伯爵が動いていると聞きました。同行させるべきです。謝罪と、最低限の誠意を示すなら」
国王は短く息を吐き、決断した。
「よし。魔導師長、おまえが準備を整えろ。最速でガルディアへ。……そして」
国王の視線が、もう1度空へ向いた。
「間に合え。あの裂け目が、裂けきる前に」
私は頷き、踵を返した。
廊下へ戻ると、遠くで警鐘が鳴った。
まだ戦時の鐘ではない。注意を促す鐘だ。
それでも、胸の奥が嫌な音を立てる。
空が割れる音を、私は思い出した。
地方の夜警が聞いたという、鎖がきしむような音。
あれは警告ではなかった。
宣告だったのだ。
そしていま、その宣告を止められるのは。
私たちが追い出した、たった1人の魔導師だけだった。
私は足を速めた。
書類と印章と、謝罪の言葉を抱えて。
間に合わなければ、次に割れるのは空ではない。
この国そのものだ。
執務室を離れた途端、私は背後の近衛に言った。
「観測室へ伝令を。王命だ。使者団を編成する。船も馬も、最短で動かせ」
返事は力強いのに、廊下の空気は震えていた。
誰もが分かっている。
これは災害ではなく、国家の土台が剥がれる音だと。
観測室へ戻ると、机の周りに魔導師たちが集まっていた。
記録紙はさらに増え、地図には赤い印が打たれている。
「裂け目の幅が、指2本分ほど広がりました」
報告した魔導師の声は、乾いていた。
「王都上空でこれだ。地方はもっと早い。封鎖準備を。門の結界を強めろ。市街の避難導線も確保する」
私は命じながら、別の机に向かった。
そこには白い羊皮紙と、王家の封蝋が置かれている。
手紙を書く指が、重い。
宛名を書くだけで、胸が詰まった。
アリア・レイン殿。
あの名を、私は公式文書に載せることを、どこかで避け続けてきた。
王家の面子、宮廷の空気、誰かの保身。
その全部が、いまは滑稽だ。
私は文面を組み立てる。
助けてくれ、と書くのは簡単だ。
だが、それではまた同じだ。
あの魔導師を、都合のいい道具に戻す言葉になる。
だから、書く。
貴女の判断に従う。
条件を提示してほしい。
技術者として、対等に交渉してほしい。
ペン先が紙を削る音だけが、観測室に残った。
最後に封蝋を落とし、王家の紋章を押す。
赤い蝋が固まるまでの数息が、異様に長い。
そのとき、また警鐘が鳴った。
誰かが窓を開け、空を見上げた。
「……光が、また揺れています」
私は顔を上げる。
裂け目は確かにそこにある。
ゆっくりと、しかし確実に、裂ける方向へ進んでいる。
私は封書を握りしめた。
この手紙が届く前に、空が先に割れたら。
そのときは、もう謝罪の言葉すら届かない。
だから私は、命令した。
「使者は今夜のうちに発て。夜明けを待つな。王都が静かなうちに、国境を越えろ」
魔導師たちが走り出す。
私は窓の外を見たまま、心の中でだけ言った。
間に合ってくれ。
ここまでお読み頂きありがとうございます。王都の空に走った亀裂——間に合うのか、そしてアリアが差し出す条件とは。次話は使者の到着と再会の火花が動きます。続きが気になったら、ブクマ&評価で背中を押して頂けると励みになります。




