第64話 レイン伯爵家の葛藤
封蝋の赤が、やけに目に痛かった。
王家の紋章。つまり、逃げ道はない。
執事が銀盆を差し出す。
「閣下、王城より急使です」
「……分かっている。机に置いてくれ」
受け取った瞬間、指先が冷えた。
最近の王都ルクスリアは、空気が重い。香水の甘さの奥に、焦げた鉄の匂いが混じる。誰も口にはしないが、大結界が軋んでいるのだ。
私は書斎の机に封書を置いた。向かいの椅子には妻が座っている。背筋は真っ直ぐだが、両手は小さく震えていた。
「開けますわね」
「待て。……いっしょに読む」
封蝋を割る。紙が2枚、重ねて入っていた。
嫌な予感が、当たる。
最初の紙。
王命。レイン伯爵家は、長女アリアを速やかに王都へ連れ戻し、結界の不調に対処させよ。
次の紙。
別の王命。レイン伯爵家は、大結界の崩落責任を負い、王城にて説明せよ。場合によっては財産の差し押さえ、家名の剥奪も辞さず。
私は紙を机に戻した。視界が、ほんの少し白くなる。
命令は矛盾している。いや、矛盾していない。王家の本音が2枚に分かれているだけだ。
妻が息を呑む音を立てた。
「……娘を、連れ戻せ、と」
「そうだ」
「でも、責任を取れ、とも……」
彼女は顔を覆った。指の隙間から落ちる涙が、私の机を濡らす。
「今さら、あの子にどんな顔をして会えというの……。私たちは、あの子を守れなかった」
「守れなかったのは、我々だけではない」
言い切ってから、喉が痛んだ。
責任を分け合う言葉は、いつだって卑怯だ。
私は立ち上がり、窓の外を見た。
屋敷の庭は手入れが行き届き、冬の花が淡く咲いている。だが空は、どこか薄く曇っている。目を凝らすと、光の膜に細い線が走っている気がした。あれが、ひびだ。
そこへ、玄関側が騒がしくなる気配。
執事が扉を叩いた。
「閣下。王城の使者が、面会を求めております。……近衛騎士が同席です」
「通せ」
入ってきたのは、王城の儀礼官と、鎧の音をさせる近衛騎士だった。儀礼官は笑顔を貼り付けたまま、淡々と言う。
「レイン伯爵。王都の民心は揺れております。ご当主自ら、誠意を示していただきたい」
「誠意とは、どの紙のほうだ」
儀礼官の笑顔が、わずかに固まった。
近衛騎士が前に出る。
「伯爵。王命は王命だ。長女の所在を明かし、連れ戻す手配をせよ」
「所在は、王城もすでに知っているはずだ。娘はガルディアにいる」
「ならば、なおさら早急に。国外に逃した責任も含めて――」
妻が、堪えきれず口を開いた。
「逃したのではありません。あの子は追い出されたのです。あなた方の手で」
儀礼官が咳払いをする。
「夫人、感情はご遠慮ください。今は国家の危機――」
「国家の危機を作ったのは、誰ですか」
私は妻の肩に手を置き、静かに制した。
そして儀礼官へ向き直る。
「私は王城へ出向く。だが、娘の名を盾にして責任を押し付けるなら、その場で異議を申し立てる」
「異議、ですか」
「ええ。今の命令文は、都合が良すぎる。娘を連れ戻せと言いながら、同時に罪を着せる。どちらが本心か、王家として明確にするべきだ」
近衛騎士の眉が動く。儀礼官は笑顔のまま、声を落とした。
「伯爵。あまり強い言葉は――」
「強い言葉を使わないと届かないなら、そういう国になったのだろう」
沈黙が落ちる。
儀礼官は、やっと頭を下げた。
「……承りました。では、明朝の評議にお越しください」
退出する背を見送りながら、私は思った。
これは始まりだ。ここから、レイン家は狩られる。
扉が閉まると、妻が震える声で言った。
「あなた、今ので……」
「分かっている。だが、引けない」
そのとき、廊下を早足で戻ってきた足音。
次男が顔を出した。外套の肩に、冷たい霧がついている。
「父上、街が騒がしい。避難民が増えている。神殿前の記念碑にも亀裂が入ったそうだ」
「知っている」
「王城の連中が来ていたな。……アリア姉上を、戻すのですか」
「戻す。いや、戻させると言うべきか」
その言葉が、私の胸を刺した。
王家は娘を必要としている。だが、娘の尊厳は必要としていない。
私は執事を呼び、屋敷の者を集めさせた。
小さな応接間に、家臣たちが並ぶ。誰もが目を伏せ、誰もが耳を立てている。
「状況は聞いているな」
「……はい、閣下」
「王城は責任者を欲しがっている。ならば私が行く。ガルディアへも、私が向かう」
家臣のひとりが、恐る恐る言った。
「しかし閣下、ガルディアに頭を下げることは……」
「頭を下げる相手は、ガルディアではない。娘だ」
その言葉で、空気が変わった。
妻が涙を拭い、次男が拳を握る。
私は続けた。
「私は父として謝る。だが貴族としては、条件を持っていく。娘の力を借りるなら、国は対価を払うべきだ。もう、便利な道具として扱わせない」
家臣たちがうなずく。誰もが、遅すぎると知っている顔だった。
会議が終わり、私は書斎へ戻った。
机の引き出しから、古い革表紙のノートを取り出す。端は擦り切れ、角に青いインクの染みがある。娘が夜更けに書きつけていた跡だ。
ノートを開くと、几帳面な文字と複雑な図形が並ぶ。
結界の流れ。負荷の偏り。余剰魔力の配分。
子どもの遊びのように見えるかもしれない。だが私は知っている。これは王国の心臓の設計図だ。
ページの隅に、小さな走り書きがあった。
父上へ。もし私が倒れたら、ここを先に閉じてください。責任を問われても、私の名前を出さないで。
私は息を止めた。
あの子は、いつから自分が潰れる前提で生きていたのだ。
思い出す。幼いころ、書斎の扉の隙間から覗く銀色の髪。
娘は、私の机の上の地図と同じように、結界の図を描いていた。
私は叱った。子どもの手に余ると。
娘は笑って、こう言ったのだ。
大丈夫です、お父様。私がやります。だって、誰かがやらないと。
あのとき、私は言うべきだった。
おまえの役目ではない、と。
妻が、そっと入ってきた。
「……そのノート、まだ大切にしていたのね」
「捨てられるわけがない」
「あなたは、娘に会えますか」
「会う」
妻は唇を結び、強く頷いた。
「責められるわよ。あなたも、私も」
「責められる資格はある」
私はノートを閉じた。
「それでも行く。父として謝り、父として守る。貴族としては、国に支払わせる」
「……あなたらしいわ」
その言葉は、皮肉ではなかった。
妻は泣きながら笑っていた。
私は机に戻り、白紙を2枚並べた。
片方は公用の書状。もう片方は、娘への手紙だ。
ペン先が震える。公用の文言は暗記しているのに、父としての言葉は、どこにも教科書がない。
私は書いた。
アリアへ。父だ。まず謝りたい。おまえを守れなかった。今さら許しを求めるつもりもない。ただ、会って話をさせてほしい。
妻が背後から囁く。
「もし、あの子が会いたくないと言ったら?」
「そのときは、引き返す。……娘の意思を、最優先にする」
言葉にすると、胸が少し軽くなった。
私は封筒を閉じ、ノートといっしょに鞄へ入れる。これは謝罪ではなく、覚悟の証拠だ。
私は壁に掛けた地図の前に立つ。
アストリアの王都から西へ。国境線。その先に、ガルディアの城がある。
指先で、その方向をなぞる。
紙の上の線は細い。だが、そこに娘がいる。
「待っていろ、アリア」
呟いた瞬間、遠くで鐘が鳴った。
警鐘か、それとも祈りか。
どちらにせよ、猶予はない。
私は外套を手に取り、執事へ命じた。
「出立の準備だ。護衛は少数、精鋭だけ。道中の連絡は最小限に」
「承知しました、閣下」
レイン伯爵家は動く。
父としても、国の代表としても。
娘を、守るために。
その夜、窓の外で風が唸った。
遠い空の光が、ひときわ赤く揺れた気がする。
私はまだ知らない。次に届く知らせが、王都の上空に走る大きな裂け目だということを。
ここまでお読みいただきありがとうございます。レイン伯爵家が父として動き出し、次回はいよいよガルディア側の反応と、王都に走る裂け目の真相へ。アリアの覚悟に対して、大人たちは何を差し出せるのか――溺愛の火種も、静かに燃え始めます。続きが気になったら、ブクマ&評価で応援いただけると励みになります。




