第63話 国境を越える亡命者
国境都市グラナの朝は、鐘の音で始まる。
目覚まし代わりのそれは、平和の合図ではない。危険を知らせる前触れだ。
窓を開けると、山側の谷から紫がかった霧が薄く漂っているのが見えた。瘴気。見慣れたはずなのに、今日は胸の奥がざらつく。
昨日、アストリア方面でまた結界が剥がれた。
報告書の文字は淡々としていたのに、実際の空気は刺々しい。
軍事区の指揮所へ向かう廊下で、リカルドが私の歩幅に合わせてくる。
「主任、門に動きがありました。亡命者です。数は多くないが、状態が悪い」
「分かりました。医療班は?」
「先に回してます。……瘴気に濡れてる」
嫌な言い方だ。濡れてる、なんて。
でも現地の言葉は、いつも生々しい。
外壁の門前はすでに騒がしかった。
兵が列を作り、魔導師が簡易の浄化陣を足元に敷いている。布で覆われた荷車がいくつも停まり、その陰から痩せた人影がよろめきながら出てくる。
咳。震える肩。濡れた髪から落ちる黒い水。
瘴気の雨、だ。報告にあったままの言葉が、実感を伴って喉に引っかかった。
浄化陣の外側に、黒い水が細い筋を作っていた。
私は外套の袖を引き下ろし、指先でわずかに触れる。冷たい。重い。魔力の流れが、嫌な粘り方をしている。
すぐに指を離し、小さく息を吐いた。
「主任、危ない」
リカルドが眉を寄せる。
「大丈夫。浄化陣の外側に触れただけです」
「その大丈夫を、俺は信用してない」
「では、信用できる形にします」
私は腰の袋から薄い結晶板を取り出した。ノエルが作った簡易計測板だ。
黒い水の上にかざすと、板の表面に淡い光の線が走り、数値が浮かび上がる。
瘴気濃度、皮膚浸食の指標、微量の魔物反応。
数字は、容赦がない。
「……これ、町に持ち込ませるな」
リカルドが低く言う。
「もちろん。脱衣と洗浄は門外で。衣服は焼却。子どもは泣くでしょうけど、後回しにできません」
「指示は出す」
門番の声は強いが、優しい。
「ここはガルディアだ。落ち着け。水も、毛布もある」
その背後で、私は名札も徽章も見えないように、外套の襟を少し立てた。
表に出れば、助けを求める視線が集まる。
今の私は、それを真正面から受け止める準備が足りない。
指揮所の仮聴取室は、木の匂いがする狭い部屋だった。
テーブルの向こうに、年配の男が座る。手の甲には火傷のような痕。魔導師だろう。
隣には若い母親。腕の中で眠る子どもは、汗ではない冷たい湿り気に包まれている。
「名前と出身を」
リカルドが言う。私は声を低くして続けた。
「結界が剥がれた場所、時間、見えたものを順に教えてください。嘘をついても、今は得をしません」
男は乾いた笑いをこぼした。
「嘘など、つけるかよ。俺たちの町の空が……裂けたんだ」
空が裂けた。
その表現だけで、私は結界の層がどこから崩れたかを想像してしまう。最外殻層の連鎖崩落。緩衝層が吸収しきれず、瘴気が内側へ落ちた。
頭の中の図が勝手に回り始めるのが、嫌だった。
「音がした。ガラスが割れるみたいな」
「そのあと、黒い雨が降った。肌が焼ける。息が苦しい」
「魔物が来た。町の外れの畑が、夜みたいに暗くなって」
母親が言葉を継ぐ。
「子どもが……泣き止まなくて。あの雨の匂いが、ずっと」
私は頷くだけにする。
慰めの言葉を探した瞬間、私は昔の自分に戻る。何でも引き受けて、何でも抱えて、最後に潰れる便利屋。
もう、あれは終わったはずだ。
「魔導師長は? 王都の観測は?」
私が問いかけると、男は首を横に振った。
「来たのは兵だけだ。口では平気だと言う。だが、皆、空を見ないようにしてる」
そうでしょうね。
見たら、怖い。
結界は信仰の対象に近い。そこにひびが入れば、国の骨が折れる。
聴取は続き、別の部屋でも同時に行われた。
グラナの兵たちが淡々と動くのが、救いだった。ガルディアは、こういう現実に慣れている。慣れていることが、頼もしい。
休憩の合間、私は指揮所の地図台に立った。
赤い印が増えている。観測網の更新が遅いのに、それでも増えている。
私は小さく唇を噛んだ。
「主任、飲め」
リカルドが湯気の立つ杯を差し出す。
「ありがとうございます」
温かい液体が喉を通って、ようやく体がここに戻ってくる。
「……隠れなくてもいい。君がいると知れた方が、救われる者もいる」
「救われるからこそ、依存が生まれます」
「君らしい」
苦笑混じりの声だった。
「でも、君が背負う必要はない。ガルディアは君の盾だ。俺たちは前に立てる」
言葉が胸に落ちる。
それでも私は、弱い場所が分かる。
そこを知っているのが私だけだと分かってしまう。
昼過ぎ、控室に戻った私は、机に置かれた紙束を見た。
亡命者の名簿。
その中に、ひどく懐かしい地名があった。
アストリア北部、谷沿いの小さな村。
私が地方結界の調整に駆り出された、あの冬の村。
指が止まる。
名前の欄に、見覚えのある響きがあった。
フィーネ。
当時、痩せた手で私の袖をつかみ、結界の光を見上げて笑った子だ。
嘘でしょう。
喉が乾く。
まさか、こんな形で。
私は外套のフードを深く被り、廊下の奥の小部屋へ入った。
木の仕切りの向こうで、別の聴取が始まる気配がする。私は椅子に座らず、壁にもたれた。足が勝手に力を抜こうとするのを、意地で止める。
「落ち着いて。ここは安全よ」
女性兵士の声。
次に聞こえたのは、少し成長した、けれど震える声だった。
「……あの。ガルディアに、アリア様がいるって、本当ですか」
心臓が、わずかに跳ねる。
名前を呼ばれただけで、こんな。
私は自分の胸元を押さえた。そこには小さな通信石がある。セイジュと繋がるためのもの。今は沈黙しているのに、熱を持ったみたいに感じる。
「アリア様?」
誰かが聞き返す。
少女、いや、もう少女ではない。若い娘の声が続いた。
「昔、村の結界が崩れそうになったとき、アリア様が来てくださったんです。夜通し、光の線を地面に引いて……。あれがなかったら、私たち、あの冬に全滅してた」
私は目を閉じた。
覚えている。
寒さで指が動かなくなりそうで、でも村の子どもたちが泣きながら私の背中を見ていた。
私が止めたら、壊れる。
だから止めなかった。
そんな、ただの仕事だったのに。
「アリア様は、今……」
「いるわ。ここにいる」
リカルドの声だった。
私は反射で息を止める。やめて、リカルド。余計なことを。
けれど彼は続けない。代わりに、落ち着いた声で言った。
「だが、会うかどうかは別だ。君たちはまず体を戻せ。瘴気は人を削る」
「……はい」
短い沈黙。
そのあと、フィーネがぽつりと言った。
「でも、アリア様の結界なら……きっと、また守ってくれます」
それは祈りだった。
私を神様みたいに扱う言葉。
そして同時に、私の背中を押す言葉でもある。
会う資格がない。
そう思うのは、私の勝手だ。
救われた側は、もう前を向いている。
私は壁から背を離し、ゆっくりと息を吸った。
瘴気の匂いはここまで来ていない。それでも、胸の奥のざらつきは消えない。
扉の向こうの廊下で、足音が止まった。
「アリア」
低い声。セイジュだと分かる。
「聞いていたな」
「……はい」
「顔色が悪い」
「平気です。たぶん」
「たぶんは禁止だ」
思わず、口の端が上がりそうになる。
こんな場面で笑うのは不謹慎だ。それでも、彼の言葉は私を現実に引き戻す。
「私は、戻りません」
言い切ったはずの言葉が、今日は少しだけ揺れる。
「でも、放置もしません。世界が壊れるのは、嫌ですから」
セイジュは短く息を吐いた。
「なら、俺は隣にいる。おまえが何を選んでも」
通信石が微かに震えた気がした。
たぶん、私の魔力が乱れているだけだ。それでも、心臓の鼓動が落ち着く。
私は頷いた。
泣かない。逃げない。
国境の向こうで起きていることは、もう噂ではない。
目の前で、命が削れている。
そして、私の名前が祈りに変わっている。
だから私は、次の手を打つ。
アストリアのためではなく。
この大陸を、崩さないために。
グラナの鐘が鳴った。
今度は警報ではない。
交代の合図だ。
戦は、続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます。瘴気に濡れた亡命者たちと、祈りのように呼ばれる「アリア」の名――彼女は背負うのではなく、選び直します。次話は、結界崩壊の原因に迫る一手を。続きが気になったら、ブクマ&評価で応援して頂けると励みになります。




