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「完結済」婚約破棄された令嬢ですが、この国の大結界を張っていたのは私なので、隣国の魔導師団長にスカウトされました  作者: 夢見叶
第3部 結界崩壊と国際会議編 第9章 結界崩壊の兆候

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第63話 国境を越える亡命者

 国境都市グラナの朝は、鐘の音で始まる。

 目覚まし代わりのそれは、平和の合図ではない。危険を知らせる前触れだ。

 窓を開けると、山側の谷から紫がかった霧が薄く漂っているのが見えた。瘴気。見慣れたはずなのに、今日は胸の奥がざらつく。


 昨日、アストリア方面でまた結界が剥がれた。

 報告書の文字は淡々としていたのに、実際の空気は刺々しい。


 軍事区の指揮所へ向かう廊下で、リカルドが私の歩幅に合わせてくる。

「主任、門に動きがありました。亡命者です。数は多くないが、状態が悪い」

「分かりました。医療班は?」

「先に回してます。……瘴気に濡れてる」


 嫌な言い方だ。濡れてる、なんて。

 でも現地の言葉は、いつも生々しい。


 外壁の門前はすでに騒がしかった。

 兵が列を作り、魔導師が簡易の浄化陣を足元に敷いている。布で覆われた荷車がいくつも停まり、その陰から痩せた人影がよろめきながら出てくる。

 咳。震える肩。濡れた髪から落ちる黒い水。

 瘴気の雨、だ。報告にあったままの言葉が、実感を伴って喉に引っかかった。


 浄化陣の外側に、黒い水が細い筋を作っていた。

 私は外套の袖を引き下ろし、指先でわずかに触れる。冷たい。重い。魔力の流れが、嫌な粘り方をしている。

 すぐに指を離し、小さく息を吐いた。


「主任、危ない」

 リカルドが眉を寄せる。

「大丈夫。浄化陣の外側に触れただけです」

「その大丈夫を、俺は信用してない」

「では、信用できる形にします」


 私は腰の袋から薄い結晶板を取り出した。ノエルが作った簡易計測板だ。

 黒い水の上にかざすと、板の表面に淡い光の線が走り、数値が浮かび上がる。

 瘴気濃度、皮膚浸食の指標、微量の魔物反応。

 数字は、容赦がない。


「……これ、町に持ち込ませるな」

 リカルドが低く言う。

「もちろん。脱衣と洗浄は門外で。衣服は焼却。子どもは泣くでしょうけど、後回しにできません」

「指示は出す」


 門番の声は強いが、優しい。

「ここはガルディアだ。落ち着け。水も、毛布もある」


 その背後で、私は名札も徽章も見えないように、外套の襟を少し立てた。

 表に出れば、助けを求める視線が集まる。

 今の私は、それを真正面から受け止める準備が足りない。


 指揮所の仮聴取室は、木の匂いがする狭い部屋だった。

 テーブルの向こうに、年配の男が座る。手の甲には火傷のような痕。魔導師だろう。

 隣には若い母親。腕の中で眠る子どもは、汗ではない冷たい湿り気に包まれている。


「名前と出身を」

 リカルドが言う。私は声を低くして続けた。

「結界が剥がれた場所、時間、見えたものを順に教えてください。嘘をついても、今は得をしません」


 男は乾いた笑いをこぼした。

「嘘など、つけるかよ。俺たちの町の空が……裂けたんだ」


 空が裂けた。

 その表現だけで、私は結界の層がどこから崩れたかを想像してしまう。最外殻層の連鎖崩落。緩衝層が吸収しきれず、瘴気が内側へ落ちた。

 頭の中の図が勝手に回り始めるのが、嫌だった。


「音がした。ガラスが割れるみたいな」

「そのあと、黒い雨が降った。肌が焼ける。息が苦しい」

「魔物が来た。町の外れの畑が、夜みたいに暗くなって」


 母親が言葉を継ぐ。

「子どもが……泣き止まなくて。あの雨の匂いが、ずっと」


 私は頷くだけにする。

 慰めの言葉を探した瞬間、私は昔の自分に戻る。何でも引き受けて、何でも抱えて、最後に潰れる便利屋。

 もう、あれは終わったはずだ。


「魔導師長は? 王都の観測は?」

 私が問いかけると、男は首を横に振った。

「来たのは兵だけだ。口では平気だと言う。だが、皆、空を見ないようにしてる」


 そうでしょうね。

 見たら、怖い。

 結界は信仰の対象に近い。そこにひびが入れば、国の骨が折れる。


 聴取は続き、別の部屋でも同時に行われた。

 グラナの兵たちが淡々と動くのが、救いだった。ガルディアは、こういう現実に慣れている。慣れていることが、頼もしい。


 休憩の合間、私は指揮所の地図台に立った。

 赤い印が増えている。観測網の更新が遅いのに、それでも増えている。

 私は小さく唇を噛んだ。


「主任、飲め」

 リカルドが湯気の立つ杯を差し出す。

「ありがとうございます」

 温かい液体が喉を通って、ようやく体がここに戻ってくる。

「……隠れなくてもいい。君がいると知れた方が、救われる者もいる」

「救われるからこそ、依存が生まれます」

「君らしい」

 苦笑混じりの声だった。

「でも、君が背負う必要はない。ガルディアは君の盾だ。俺たちは前に立てる」


 言葉が胸に落ちる。

 それでも私は、弱い場所が分かる。

 そこを知っているのが私だけだと分かってしまう。


 昼過ぎ、控室に戻った私は、机に置かれた紙束を見た。

 亡命者の名簿。

 その中に、ひどく懐かしい地名があった。


 アストリア北部、谷沿いの小さな村。

 私が地方結界の調整に駆り出された、あの冬の村。


 指が止まる。

 名前の欄に、見覚えのある響きがあった。

 フィーネ。

 当時、痩せた手で私の袖をつかみ、結界の光を見上げて笑った子だ。


 嘘でしょう。

 喉が乾く。

 まさか、こんな形で。


 私は外套のフードを深く被り、廊下の奥の小部屋へ入った。

 木の仕切りの向こうで、別の聴取が始まる気配がする。私は椅子に座らず、壁にもたれた。足が勝手に力を抜こうとするのを、意地で止める。


「落ち着いて。ここは安全よ」

 女性兵士の声。

 次に聞こえたのは、少し成長した、けれど震える声だった。


「……あの。ガルディアに、アリア様がいるって、本当ですか」


 心臓が、わずかに跳ねる。

 名前を呼ばれただけで、こんな。

 私は自分の胸元を押さえた。そこには小さな通信石がある。セイジュと繋がるためのもの。今は沈黙しているのに、熱を持ったみたいに感じる。


「アリア様?」

 誰かが聞き返す。

 少女、いや、もう少女ではない。若い娘の声が続いた。


「昔、村の結界が崩れそうになったとき、アリア様が来てくださったんです。夜通し、光の線を地面に引いて……。あれがなかったら、私たち、あの冬に全滅してた」


 私は目を閉じた。

 覚えている。

 寒さで指が動かなくなりそうで、でも村の子どもたちが泣きながら私の背中を見ていた。

 私が止めたら、壊れる。

 だから止めなかった。

 そんな、ただの仕事だったのに。


「アリア様は、今……」

「いるわ。ここにいる」


 リカルドの声だった。

 私は反射で息を止める。やめて、リカルド。余計なことを。

 けれど彼は続けない。代わりに、落ち着いた声で言った。


「だが、会うかどうかは別だ。君たちはまず体を戻せ。瘴気は人を削る」

「……はい」


 短い沈黙。

 そのあと、フィーネがぽつりと言った。


「でも、アリア様の結界なら……きっと、また守ってくれます」


 それは祈りだった。

 私を神様みたいに扱う言葉。

 そして同時に、私の背中を押す言葉でもある。


 会う資格がない。

 そう思うのは、私の勝手だ。

 救われた側は、もう前を向いている。


 私は壁から背を離し、ゆっくりと息を吸った。

 瘴気の匂いはここまで来ていない。それでも、胸の奥のざらつきは消えない。


 扉の向こうの廊下で、足音が止まった。

「アリア」

 低い声。セイジュだと分かる。

「聞いていたな」

「……はい」

「顔色が悪い」

「平気です。たぶん」

「たぶんは禁止だ」


 思わず、口の端が上がりそうになる。

 こんな場面で笑うのは不謹慎だ。それでも、彼の言葉は私を現実に引き戻す。


「私は、戻りません」

 言い切ったはずの言葉が、今日は少しだけ揺れる。

「でも、放置もしません。世界が壊れるのは、嫌ですから」


 セイジュは短く息を吐いた。

「なら、俺は隣にいる。おまえが何を選んでも」


 通信石が微かに震えた気がした。

 たぶん、私の魔力が乱れているだけだ。それでも、心臓の鼓動が落ち着く。


 私は頷いた。

 泣かない。逃げない。


 国境の向こうで起きていることは、もう噂ではない。

 目の前で、命が削れている。

 そして、私の名前が祈りに変わっている。


 だから私は、次の手を打つ。

 アストリアのためではなく。

 この大陸を、崩さないために。


 グラナの鐘が鳴った。

 今度は警報ではない。

 交代の合図だ。

 戦は、続く。

ここまでお読みいただきありがとうございます。瘴気に濡れた亡命者たちと、祈りのように呼ばれる「アリア」の名――彼女は背負うのではなく、選び直します。次話は、結界崩壊の原因に迫る一手を。続きが気になったら、ブクマ&評価で応援して頂けると励みになります。


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