第61話 ガルディアに届く風聞
ガルディア王城の会議室は、いつ来ても空気が澄んでいる。
窓は高く、机は広く、そして議題はだいたい重い。
中央の地図テーブルの上には、薄い光でできた大陸図が浮かんでいた。駒の色が、結界の層と部隊配置を示している。ノエルが作った投影機は、相変わらず仕事が丁寧だ。
「主任、こちらへ」
宰相ユリウスが手を振った。背後で、国王アレクシス陛下が腕を組んでいる。二人とも、表情がいつもより硬い。
私の隣には、セイジュ様。
黒いローブの裾が床をなでるたびに、空気が少しだけ冷える。気のせいではない。本人が緊張すると、周囲の魔力が勝手に整列する。
「グラナからの定期報告だ。まず聞いてくれ」
アレクシス陛下が頷くと、机の端の水晶が淡く光った。
そこから響いたのは、聞き慣れた低い声。
『こちらグラナ前線。副団長リカルドだ。予定通り、週次の観測結果を報告する』
「リカルド。生きてる?」
私が小声で言うと、セイジュ様が咳払いで止めた。場が場だ。分かっている。
『まず、アストリア側の国境線、北斜面の外殻層に小規模崩落を確認。崩落の直後、瘴気濃度が平均で1.3倍に上昇。風向きに乗って、こちらの外縁防衛線まで薄く流れてきている』
地図の上で、北側が紫に染まった。数字がいくつも踊る。結界計測器の値だ。
『魔物の流入も増加。数はまだ中型以下が中心だが、群れのまとまり方が良くない。瘴気の濁りで、追跡が難しい』
「結界は?」
アレクシス陛下が即座に問う。
『グラナ式多重結界、外壁にて安定。主任の設計、問題なし。だが、アストリア側の揺れがこのまま続くなら、こちらも緩衝層の調整が要る。以上』
水晶の光が消え、会議室に沈黙が落ちた。
私は地図の北端を見つめたまま、息を吐く。
「……始まりましたね」
声が思ったよりも冷たかった。
自分で自分に驚き、舌先で温度を探す。
「予想より早いか」
ユリウスが、楽しそうでもあり、嫌そうでもある顔で言った。あの人は政治家なのに、研究会の司会みたいな顔をする時がある。
「アリア、見立てを」
アレクシス陛下が言う。
この国の王は、いつも結論までの距離が短い。好きだ。
「小規模崩落ということは、外殻層が部分的に自重を支えられなくなっている。大結界が薄くなった、というより……支える骨組みが、腐り始めた段階です」
「腐る、か」
セイジュ様の銀の瞳が、地図の紫を刺した。
「ええ。大結界は、表面だけなら補修で誤魔化せます。でも内部の循環、魔力の流路が詰まると、同じ場所に負荷が集中する。そこが割れる」
私は指先で光の大陸図をなぞり、アストリア北方に小さな円を描く。
円は、じわりと波紋になって広がった。
「放置すれば、裂け目は増えます。瘴気は風と地脈に乗る。最終的には、大陸全体に波が回る」
「どれくらいだ」
アレクシス陛下の問いは、短い。
私は頷き、地図の横に推移線を呼び出した。紫の線が、ゆっくり右肩上がりで伸びる。
「今の傾きが続くなら、外殻層は最短で18か月。維持層が30か月前後で臨界に触れます。そこで一度でも大穴が開けば、瘴気の波は一気に太くなる」
ユリウスが息を吸った。
「数字で殴ってくるの、やっぱり好きだな」
「殴らないと、動かない人が多いので」
セイジュ様が、私の言葉に小さく頷いた。殴るのが得意な人は黙っていてほしい。
「ガルディアも?」
ユリウスが口角を上げたまま、目だけ笑っていない。
「当然です。国境は線ではなく、ただの目印ですから」
アレクシス陛下が、ゆっくり頷いた。
「……数年、と言っていたな」
私は少しだけ目を伏せた。
言われると分かっていたのに、胸がきしむ。昔、鎖の音を聞いた時みたいに。
「はい。大結界に残した貯金魔力は、持ってあと数年。そう伝えたはずです」
セイジュ様が、私の言葉に合わせるように一歩だけ前に出た。
影が私を包む。守りの影だ。
「だが、早い。まだ数年は余裕があるはずだった」
ユリウスが指を鳴らすと、地図の横に別の数値列が並んだ。王都ヴァルディアの観測値。アストリア方面だけ、確かにじわりと上がっている。
「原因は2つ考えられます。1つ目は、向こうが本来の運用をしていない。結界維持のための調整班が、減ったか、崩れたか」
それを言うのは簡単だ。
でも、減らしたのは誰だろう。
「2つ目は……外から押されている。瘴気の供給源が、強くなっている可能性」
セイジュ様の指が、北の谷を指した。
「山脈の向こうか」
「ええ。まだ確定ではありません。だからこそ、グラナの観測網を厚くします。ノエルの新型センサーを前線に。裂け目が増える前に、どこが壊れやすいか、先に当てます」
「予算は通そう」
ユリウスが即答する。迷いがない。こういうところだけは天使だ。
アレクシス陛下は、机の端を軽く叩いた。
「我々の選択は3つ。援助、傍観、そして……先制的な防衛強化だ」
「傍観は、現実的ではありません」
私が言うと、陛下は眉を上げた。試すような目。
「理由を」
「瘴気は国境で止まりません。アストリアが崩れれば、次は大陸のどこかが崩れる。ガルディアだけが無傷でいる前提は、幻想です。防衛強化は必須。その上で、アストリア側の崩壊速度を落とす手段が必要です」
「落とす方法は?」
「節点を冷やします。崩落しやすい箇所に、魔力の逃げ道を増やす。ですが、向こうの中枢に触れずにやるなら、かなり繊細です。私の式が必要になります」
言い終えてから、少しだけ唇を噛んだ。
式が必要、という言い方は、私が鍵だと言っているのと同じだ。
ユリウスが手帳を開き、さらさらと書く。
「つまり、援助は人道ではなく、保険。安全保障。……いいね、言葉が硬いと議会が静かになる」
私は肩をすくめた。
「静かになるなら、もっと硬くしますよ」
セイジュ様が、なぜか満足げに頷いた。そこは褒めるところではない。
「問題は、アストリアがいつ頭を下げるかだな」
アレクシス陛下の声が、少しだけ低くなる。
私の心臓が、小さく跳ねた。
頭の中に、王都の広場の風景が浮かぶ。噂話。私の名前。追い出された、という言葉。
もう、関係ない。
そう思っているのに、指先が冷える。
「まだ動きはない。だが商人経由で、面白い風聞が入っている」
ユリウスが、わざと軽い調子で言った。
「アストリアの下町で、あなたの名が祈りみたいに囁かれているそうだ。アリア・レインがいれば、ってね」
私は笑うべきか迷って、結局、息だけ吐いた。
「……祈りは、便利ですね。責任の所在を空に投げられる」
「皮肉が冴えてきた。ガルディアに馴染んだ証拠だ」
ユリウスが楽しそうに言う。
でも、アレクシス陛下は笑わない。
「アリア。おまえはどうしたい」
直球だ。
王が個人の意思を訊くのは、本来、危険な行為だ。答えが政治になる。
私は、少しだけ考えた。
考えるふりではなく、本当に。
「私は戻りません」
声が震えないように、言葉を短く切る。
「ただし、世界が崩れるのは見たくない。必要なら、遠隔で、国境から、あるいは国際枠組みで。条件が整えば動きます」
セイジュ様が、横で静かに頷いた。
それだけで、背骨が真っ直ぐになる。
「よし」
アレクシス陛下が言った。
「ならば、我々は準備をする。グラナの防衛を厚くし、観測を増やし、外交の言葉を整える。アストリアが来る前に、来た後の形を決めておく」
「政治は私がやります」
ユリウスが笑う。
「理屈はあなたが。剣は団長が。王は……責任を取る」
アレクシス陛下が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それが王の仕事だ」
◇
会議が終わり、廊下に出ると、冬の光が窓から差し込んでいた。
王城の石壁は冷たいのに、その光はあたたかい。
すれ違った侍従たちが、小声で何かを囁く。
聞こえる単語は、断片だけだ。アストリア、使者、結界。
私は歩幅を変えない。聞こえないふりは、昔から得意だった。
「顔色が悪い」
セイジュ様が、周囲に誰もいないのを確認してから言った。
「いつもです」
「いつも、では困る」
彼の言い方は相変わらず不器用だ。
でも、指先が私の手を探し当てるのは、上手になった。
私はその手を握り返す。
魔力の気配が、ぴたりと重なる。安心の重み。
「さっきの問い、答えは変わらない」
セイジュ様が言う。
「おまえは、戻らなくていい。あの国が、おまえを鎖で引くなら、俺が切る」
「鎖、というより……呪いに近いですね」
「なら、呪いごと焼く」
物騒だ。けれど、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「ありがとう。でも、焼かなくてもいいです。私が切ります。自分で」
私が言うと、セイジュ様は一瞬だけ目を細めた。
「……強くなったな」
「最初からです。周りが見てなかっただけ」
「そうだな」
あっさり認めるから、腹が立たない。ずるい。
研究塔へ続く渡り廊下の先で、遠くの空が少しだけ霞んで見えた。
北の方角。あの国の上。
私は、息を吸って吐く。
胸の奥のきしみを、言葉に変える。
「それでも私は、戻らない」
誰に聞かせるでもなく、口にする。
決意は、声にすると形になる。
セイジュ様が、握った手に力を込めた。
「なら、その形を守る」
光の中で、私は頷いた。
次に来るのは、きっと政治だ。
そして、その先にあるのは、世界の話。
逃げない。
でも、鎖には戻らない。
そう決めたまま、私は研究塔の扉を押した。
ここまでお読みくださりありがとうございます。アストリアの結界崩壊が動き出し、ガルディアも世界の話へ踏み込むことになりました。次回、ついに使者が王城へ——アリアの条件と、セイジュの本音がぶつかります。続きが気になったら、ブクマ&評価で背中を押して頂けると励みになります。




