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「完結済」婚約破棄された令嬢ですが、この国の大結界を張っていたのは私なので、隣国の魔導師団長にスカウトされました  作者: 夢見叶
第3部 結界崩壊と国際会議編 第9章 結界崩壊の兆候

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第60話 噂になる名前

 市場の端にある小さな酒場で、私は湯気の立つスープを木椀に注いでいた。

 朝から店は落ち着かない。いつもなら昼まで静かなのに、今日は入口が何度も開いて、土と汗の匂いを連れた人が入ってくる。


 避難民だ。


 アストリア方面から流れてきた人たちは、荷を抱えて、目の下に影をつくっている。

 子どもを背負った女が、椀を受け取った瞬間に泣きそうな顔をした。


「……あったかい」

「ゆっくり食べて。おかわりは少しだけなら出せるよ」


 私がそう言うと、女は何度も頷いた。

 その背中越しに、男たちの荒い声が聞こえる。


「信じられるかよ。空が割れたんだぞ」

「ガラスみたいな音だった。で、上から黒い霧が……」

「魔物が鳴いた。あんな声、壁の中で聞くはずがないのに」


 店の常連が、思わず口を挟む。


「大結界があるんだろ? アストリアは安全って」

「だった。昨日まではな」


 言い切った避難民の男は、指先を震わせて酒を煽った。

 私も喉が乾いた。大結界。あの国を丸ごと守る、見えない蓋。

 それが剥がれ落ちた、と彼らは言う。


「役所の連中は、すぐ小結界を張ったらしい」

「でも、死んだ。子どももだ」

「瘴気の霧を吸った老人が、朝まで持たなかったって」


 言葉が重い。

 酒場の空気が、一段低く沈む。誰も笑わない。

 鍋の煮える音だけが、妙に大きく聞こえた。


 そこへ、奥の席から誰かが言った。


「……レイン伯爵家の娘がいなくなってから、おかしくなったんじゃないか」


 その一言で、店の視線が集まる。

 言った本人は、ぱっと口を押さえていた。失言だと分かったのだろう。

 でも、もう遅い。言葉は、油の上に落ちた火みたいに広がる。


「レイン伯爵家?」

「ほら、昔、王太子殿下の婚約者だった……」

「名前、なんだっけ。アリア……そう、アリア・レインだ」


 私は手を止めた。

 その名は、下町でも知っている。王城の噂は、壁を越えて流れてくる。

 けれど、彼女が何をしていたかまでは、誰も知らない。知らされていない。


 避難民の男が、唇を歪めた。


「俺の街じゃ、記念碑にひびが入った。神殿の前のやつだ」

「記念碑?」

「大結界があるって誇るための石だよ。そこに、線が走った」


 線。ひび。割れる空。

 頭の中で、全部がつながりそうで、つながらない。


 常連の爺さんがぼそりと言う。


「王家が、あの令嬢を追い出したって話は本当かい」

「追い出したっていうか……婚約破棄だろ」

「同じだよ。捨てたってことだ」


 捨てた。

 その単語が、骨のある魚みたいに喉に引っかかった。


 カウンターの端に、鎧の男がどさりと腰を下ろした。

 城壁の兵だ。最近は、酒より先に温かいものを探す顔をしている。


「女将、スープ。持ち帰れるか」

「はいはい。熱いから気をつけて」


 私は容器に注ぎながら、つい聞いてしまう。


「……本当に、結界が」

「見たわけじゃない。だが、巡回の回数が倍だ。上が焦ってる」


 兵は短く答え、周囲を見回した。

 そして、ため息を吐く。


「噂話はほどほどにな。誰かが煽れば、下町でも暴動が起きる」

「煽るって……誰が」

「知らん。ただ、王城の連中は今、機嫌が悪い。余計な火種を嫌う」


 その言い方が、逆に怖い。

 火種は、もう燃えているのに。


 兵が席を立つとき、避難民の男がぽつりと言った。


「……あの令嬢、見たことはねえ。でも、街の神官が言ってた。結界は誰かの命でできてるって」

「命って」

「魔力だよ。命みたいなもんだろ」


 私は言葉を失った。

 結界を動かす魔力。魔導師。貴族のもの。私たちには遠い話。

 なのに今、その遠い話が、鍋の中のスープみたいに私の生活へ流れ込んでくる。


 午後、私は鍋を片付ける手を早めた。

 店主でもある夫が、目で合図する。広場に行け、ということだ。

 物資の配給があるらしい。避難民が増えれば、下町の胃袋も一緒に空く。


 石畳の道を抜けると、王都の広場はいつもよりざわざわしていた。

 屋台が並び、人が並び、声が重なって、空気がぴりぴりする。


 配給の列の横で、洗濯籠を抱えた主婦たちが話している。

 私は耳を立てた。こういう時の噂は、火より早い。


「聞いた? アストリアの結界、壊れたって」

「うちの旦那、城壁の見回り増えたってさ。怖いよね」

「それでね、原因が、元王太子妃候補の……」


 主婦が、言いかけて周りを見た。

 周囲にも兵がいる。大声は危ない。だからこそ、囁きが濃くなる。


「アリア・レイン。追い出された人」

「え、あの、冷たい令嬢って言われてた?」

「でも、あの人がいなくなってから、空がおかしいって」


 別の女が、怒りを含んだ声で言う。


「王家は何をしてるの。守りの国だって威張ってたのに」

「守ってたのは誰だったんだろうね」


 その問いに、誰も答えられない。

 私も同じだ。ただ、胸の奥が嫌な形で冷えた。


 そこへ、紙束を抱えた若い男が走ってきた。

 安物の刷り物を高く掲げて叫ぶ。


「速報だ! 北の街で結界が剥がれた! 王都も安全じゃないってよ!」

「やめろ、そんなの!」


 誰かが怒鳴る。

 兵が飛んできて、若い男の襟首を掴んだ。


「許可のない話のばらまきは禁ずる!」

「だって本当だろ! 死んだって聞いたぞ!」


 押し問答の輪ができる。

 群衆の目がぎらつく。怖いのは魔物じゃない。焦りだ。


 私は無意識に、昔の光景を思い出していた。

 何年も前、王城近くの神殿で、ひとりの令嬢を見たことがある。

 銀っぽい髪。薄い色の瞳。周りの貴族たちが遠巻きにしていた。


 その令嬢は、奉納箱の前で神官に小さく頭を下げていた。

 そして、隣で泣く子どもに、ハンカチをそっと渡した。

 言葉は聞こえなかった。けれど、あの仕草だけは覚えている。


 冷たい令嬢。

 噂はそう言った。けれど、私はあのときの静かな手を、冷たいとは思えなかった。


 広場の端に、避難民の子どもたちが固まっていた。

 大人が話している間、彼らは黙って空を見ている。

 王都の空は青い。けれど、青いだけだと信じ切れない顔だった。


 ふと、道の向こうがざわめいた。

 兵が列をつくり、人を押し下げる。


「通るぞ! 道を開けろ!」


 馬車だ。

 王家の紋章が入った黒い馬車が、ゆっくり広場の前を進んでくる。

 私は思わず背伸びをした。窓の布が揺れて、ちらりと中が見える。


 金の髪。あの顔は知っている。

 王太子殿下……いや、今は国王になったと聞く。レオン様だ。


 隣には、淡い色のドレスの女性が座っていた。

 リリアナ様。新しい王妃。


 その瞬間、風が吹いた。

 広場の囁きが、束になって馬車へ飛ぶ。


「アリア・レインがいれば」

「捨てたのは王家だ」

「今さら遅いだろ」

「隣国にいるって、本当か?」

「ガルディアの魔導師団長と……って」


 私は息を呑んだ。誰が言ったのか分からない。

 でも、言葉は確かに届いた。馬車の窓辺で、レオン様の肩が小さく跳ねたのが見えた。


 レオン様は、布越しに外を見ている。

 笑っていない。作り物の笑顔すら、今日は貼れていないようだった。

 リリアナ様は唇を噛み、膝の上で手を握りしめている。指先が白い。


 馬車が進む。

 兵が睨みつける。人々は一瞬だけ口を閉じる。

 それでも、沈黙は長く続かない。閉じた口は、次の囁きを溜めるだけだ。


 馬車の後ろ姿が見えなくなった頃、広場の端に板が立てられた。

 兵が釘を打ち、紙を貼る。

 群衆が押し寄せる。私も流れに押されて、文字を覗いた。


 王命。結界異常に関する情報提供の呼びかけ。

 そして、小さく、でも確かに書かれていた。


 専門家の意見を求む。西方ガルディア王国へ、使者を派遣する。


 誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが歯を食いしばった。

 王家が、隣国に頭を下げるのか。そんな時代が来るなんて。


 私は配給札を握りしめた。

 冬なのに、風が妙に生ぬるい。

 遠くの城壁の上で、警鐘の試し打ちが鳴った。


 ゴーン、と。


 音が胸に落ちて、私は思った。

 これからは、噂が名前を持つ。

 そして、その名前が、王家を追い詰める。


 アリア・レイン。


 知らないはずの令嬢の名を、私はなぜか、祈るみたいに口の中で転がしていた。


 使者が戻るまで何日かかるのだろう。もしその前に、もう一度空が割れたら。

 私は鍋の火を思い出し、明日も湯を沸かすしかないと自分に言い聞かせた。

本編ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

王都にもじわじわ迫る不穏と、「名前」が持つ重さが広がる回でした。噂だけだった存在が現実になったとき、誰が何を守り、何を捨てたのか――次話から一気に答え合わせが始まります。


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