第60話 噂になる名前
市場の端にある小さな酒場で、私は湯気の立つスープを木椀に注いでいた。
朝から店は落ち着かない。いつもなら昼まで静かなのに、今日は入口が何度も開いて、土と汗の匂いを連れた人が入ってくる。
避難民だ。
アストリア方面から流れてきた人たちは、荷を抱えて、目の下に影をつくっている。
子どもを背負った女が、椀を受け取った瞬間に泣きそうな顔をした。
「……あったかい」
「ゆっくり食べて。おかわりは少しだけなら出せるよ」
私がそう言うと、女は何度も頷いた。
その背中越しに、男たちの荒い声が聞こえる。
「信じられるかよ。空が割れたんだぞ」
「ガラスみたいな音だった。で、上から黒い霧が……」
「魔物が鳴いた。あんな声、壁の中で聞くはずがないのに」
店の常連が、思わず口を挟む。
「大結界があるんだろ? アストリアは安全って」
「だった。昨日まではな」
言い切った避難民の男は、指先を震わせて酒を煽った。
私も喉が乾いた。大結界。あの国を丸ごと守る、見えない蓋。
それが剥がれ落ちた、と彼らは言う。
「役所の連中は、すぐ小結界を張ったらしい」
「でも、死んだ。子どももだ」
「瘴気の霧を吸った老人が、朝まで持たなかったって」
言葉が重い。
酒場の空気が、一段低く沈む。誰も笑わない。
鍋の煮える音だけが、妙に大きく聞こえた。
そこへ、奥の席から誰かが言った。
「……レイン伯爵家の娘がいなくなってから、おかしくなったんじゃないか」
その一言で、店の視線が集まる。
言った本人は、ぱっと口を押さえていた。失言だと分かったのだろう。
でも、もう遅い。言葉は、油の上に落ちた火みたいに広がる。
「レイン伯爵家?」
「ほら、昔、王太子殿下の婚約者だった……」
「名前、なんだっけ。アリア……そう、アリア・レインだ」
私は手を止めた。
その名は、下町でも知っている。王城の噂は、壁を越えて流れてくる。
けれど、彼女が何をしていたかまでは、誰も知らない。知らされていない。
避難民の男が、唇を歪めた。
「俺の街じゃ、記念碑にひびが入った。神殿の前のやつだ」
「記念碑?」
「大結界があるって誇るための石だよ。そこに、線が走った」
線。ひび。割れる空。
頭の中で、全部がつながりそうで、つながらない。
常連の爺さんがぼそりと言う。
「王家が、あの令嬢を追い出したって話は本当かい」
「追い出したっていうか……婚約破棄だろ」
「同じだよ。捨てたってことだ」
捨てた。
その単語が、骨のある魚みたいに喉に引っかかった。
カウンターの端に、鎧の男がどさりと腰を下ろした。
城壁の兵だ。最近は、酒より先に温かいものを探す顔をしている。
「女将、スープ。持ち帰れるか」
「はいはい。熱いから気をつけて」
私は容器に注ぎながら、つい聞いてしまう。
「……本当に、結界が」
「見たわけじゃない。だが、巡回の回数が倍だ。上が焦ってる」
兵は短く答え、周囲を見回した。
そして、ため息を吐く。
「噂話はほどほどにな。誰かが煽れば、下町でも暴動が起きる」
「煽るって……誰が」
「知らん。ただ、王城の連中は今、機嫌が悪い。余計な火種を嫌う」
その言い方が、逆に怖い。
火種は、もう燃えているのに。
兵が席を立つとき、避難民の男がぽつりと言った。
「……あの令嬢、見たことはねえ。でも、街の神官が言ってた。結界は誰かの命でできてるって」
「命って」
「魔力だよ。命みたいなもんだろ」
私は言葉を失った。
結界を動かす魔力。魔導師。貴族のもの。私たちには遠い話。
なのに今、その遠い話が、鍋の中のスープみたいに私の生活へ流れ込んでくる。
午後、私は鍋を片付ける手を早めた。
店主でもある夫が、目で合図する。広場に行け、ということだ。
物資の配給があるらしい。避難民が増えれば、下町の胃袋も一緒に空く。
石畳の道を抜けると、王都の広場はいつもよりざわざわしていた。
屋台が並び、人が並び、声が重なって、空気がぴりぴりする。
配給の列の横で、洗濯籠を抱えた主婦たちが話している。
私は耳を立てた。こういう時の噂は、火より早い。
「聞いた? アストリアの結界、壊れたって」
「うちの旦那、城壁の見回り増えたってさ。怖いよね」
「それでね、原因が、元王太子妃候補の……」
主婦が、言いかけて周りを見た。
周囲にも兵がいる。大声は危ない。だからこそ、囁きが濃くなる。
「アリア・レイン。追い出された人」
「え、あの、冷たい令嬢って言われてた?」
「でも、あの人がいなくなってから、空がおかしいって」
別の女が、怒りを含んだ声で言う。
「王家は何をしてるの。守りの国だって威張ってたのに」
「守ってたのは誰だったんだろうね」
その問いに、誰も答えられない。
私も同じだ。ただ、胸の奥が嫌な形で冷えた。
そこへ、紙束を抱えた若い男が走ってきた。
安物の刷り物を高く掲げて叫ぶ。
「速報だ! 北の街で結界が剥がれた! 王都も安全じゃないってよ!」
「やめろ、そんなの!」
誰かが怒鳴る。
兵が飛んできて、若い男の襟首を掴んだ。
「許可のない話のばらまきは禁ずる!」
「だって本当だろ! 死んだって聞いたぞ!」
押し問答の輪ができる。
群衆の目がぎらつく。怖いのは魔物じゃない。焦りだ。
私は無意識に、昔の光景を思い出していた。
何年も前、王城近くの神殿で、ひとりの令嬢を見たことがある。
銀っぽい髪。薄い色の瞳。周りの貴族たちが遠巻きにしていた。
その令嬢は、奉納箱の前で神官に小さく頭を下げていた。
そして、隣で泣く子どもに、ハンカチをそっと渡した。
言葉は聞こえなかった。けれど、あの仕草だけは覚えている。
冷たい令嬢。
噂はそう言った。けれど、私はあのときの静かな手を、冷たいとは思えなかった。
広場の端に、避難民の子どもたちが固まっていた。
大人が話している間、彼らは黙って空を見ている。
王都の空は青い。けれど、青いだけだと信じ切れない顔だった。
ふと、道の向こうがざわめいた。
兵が列をつくり、人を押し下げる。
「通るぞ! 道を開けろ!」
馬車だ。
王家の紋章が入った黒い馬車が、ゆっくり広場の前を進んでくる。
私は思わず背伸びをした。窓の布が揺れて、ちらりと中が見える。
金の髪。あの顔は知っている。
王太子殿下……いや、今は国王になったと聞く。レオン様だ。
隣には、淡い色のドレスの女性が座っていた。
リリアナ様。新しい王妃。
その瞬間、風が吹いた。
広場の囁きが、束になって馬車へ飛ぶ。
「アリア・レインがいれば」
「捨てたのは王家だ」
「今さら遅いだろ」
「隣国にいるって、本当か?」
「ガルディアの魔導師団長と……って」
私は息を呑んだ。誰が言ったのか分からない。
でも、言葉は確かに届いた。馬車の窓辺で、レオン様の肩が小さく跳ねたのが見えた。
レオン様は、布越しに外を見ている。
笑っていない。作り物の笑顔すら、今日は貼れていないようだった。
リリアナ様は唇を噛み、膝の上で手を握りしめている。指先が白い。
馬車が進む。
兵が睨みつける。人々は一瞬だけ口を閉じる。
それでも、沈黙は長く続かない。閉じた口は、次の囁きを溜めるだけだ。
馬車の後ろ姿が見えなくなった頃、広場の端に板が立てられた。
兵が釘を打ち、紙を貼る。
群衆が押し寄せる。私も流れに押されて、文字を覗いた。
王命。結界異常に関する情報提供の呼びかけ。
そして、小さく、でも確かに書かれていた。
専門家の意見を求む。西方ガルディア王国へ、使者を派遣する。
誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが歯を食いしばった。
王家が、隣国に頭を下げるのか。そんな時代が来るなんて。
私は配給札を握りしめた。
冬なのに、風が妙に生ぬるい。
遠くの城壁の上で、警鐘の試し打ちが鳴った。
ゴーン、と。
音が胸に落ちて、私は思った。
これからは、噂が名前を持つ。
そして、その名前が、王家を追い詰める。
アリア・レイン。
知らないはずの令嬢の名を、私はなぜか、祈るみたいに口の中で転がしていた。
使者が戻るまで何日かかるのだろう。もしその前に、もう一度空が割れたら。
私は鍋の火を思い出し、明日も湯を沸かすしかないと自分に言い聞かせた。
本編ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
王都にもじわじわ迫る不穏と、「名前」が持つ重さが広がる回でした。噂だけだった存在が現実になったとき、誰が何を守り、何を捨てたのか――次話から一気に答え合わせが始まります。
続きが気になったら、ブックマーク&評価で応援していただけると励みになります。




