第59話 最初の崩落
私はアストリアの地方庁で働く役人だ。
書類と印章と、たまに苦情。そんな毎日で生きてきた。
大結界がある限り、この街は安全だと、誰もが信じていた。私もだ。
今朝も、机の上には税の帳簿と、王都への定期報告の下書きが積まれていた。
そこへ、警備隊の若い兵が駆け込んできた。
「役人殿。昨夜、城壁の上で変な光が見えたそうです」
「光?」
「はい。空に、細い線みたいな……」
私は羽根ペンを止めたが、すぐに首を振った。
「結界が見える時はある。季節の魔力の乱れだろう。今は市場の警備が優先だ」
兵は渋い顔で下がった。
その背中を見送りながら、私は自分に言い聞かせた。
変な噂に振り回されれば、街は不安になる。役人の仕事は、平静を保つことだ。
昼前、市場は年末の活気であふれていた。
果物売りの呼び声。肉屋の包丁の乾いた音。パンの匂い。子どもの笑い声。
平和というのは、こういう雑な音の集合体だと思う。
「役人様、これ見てよ。王都から来た絹だってさ」
露店の女主人が布を広げる。
私は笑って頷いた。
「良い色ですね。売れますよ。大結界があるうちは、商いも回ります」
言った瞬間、自分の言葉が妙に軽く聞こえた。
その軽さに気づいたからか、背筋が冷えた。
風が止んだ。
ざわめきが、薄い膜を一枚隔てたみたいに遠のく。
犬が吠える。吠え続けているのに、声が上ずっていく。
空が、急に暗くなった。
「……雲?」
誰かがつぶやく。違う。雲じゃない。
太陽が隠れる暗さではなく、光そのものが削られる暗さだった。
次に来たのは、音だ。
ガラスが割れる。あの鋭い音が、頭上の高いところから降ってきた。
市場の全員が同じ方向を見上げる。
空に、線が走っていた。
細い、光のひび。昨日まで見たこともないはずなのに、なぜか私は、これが大結界だと分かった。
線が、ぱきん、と広がった。
見えないはずの膜が、剥がれ落ちた。
透明な破片が、光を引きずりながら落ちるみたいに。
そして、剥がれた穴の下から、紫黒い霧が噴き出した。
鼻の奥が痛い。鉄と腐葉土が混ざったような匂い。
瘴気だ。
「息を止めろ! 布を口に当てろ!」
私は喉が焼けるのをこらえて叫んだ。役人の声は、こういう時のためにある。
だが、霧は早い。
広場の端にいた男が膝をつき、咳き込み、そのまま倒れた。
女が悲鳴を上げ、子どもを抱いて後ずさる。
露店の串焼きの煙が、瘴気と混ざって灰色に見えた。
遠くから、咆哮が聞こえた。
獣の声ではない。岩が軋むような低音に、金属を引っかく高音が混じる。
市場の空気が凍った。
「門を閉めろ! 神殿へ! 地下へ!」
私は走りながら指示を飛ばした。
警備隊長が私の前に立ちはだかり、顔を引きつらせた。
「役人殿、外壁の見張りが……結界が薄いと」
「薄いどころじゃない。破れている。今は人を集めろ」
「しかし、王都への伝令は」
「私が書く。今は命が先だ」
その返事をした直後、私は、自分が何を基準に命令しているのか分からなくなった。
大結界があるなら、こんな判断は必要ないはずだった。
地方庁の前で、現地の魔導師が私を捕まえた。
額に汗。指先が震えている。彼もまた、結界に守られてきた側だ。
「役人殿、結界が剥がれています。外から押し込まれている」
「直せるのか」
「大結界は無理です。でも、小結界なら。範囲を絞れば、今いる人間だけは守れます」
「範囲は」
「神殿前と、避難路の交差点。あと、地下入口」
私は頷いた。守れるものから守る。それしかない。
そして私は、初めて大結界を頼らない指示を出した。
「やれ。子どもと負傷者を最優先。荷車でも担架でも使え」
「了解!」
魔導師が地面に膝をつき、短い詠唱を吐く。
光が地面を走り、円を描いた。
薄い膜が立ち上がる。小結界だ。
「入って! この中へ!」
兵士が人々を押し込む。
私も腕を伸ばし、倒れた男を引きずった。
「起きろ、息をしているか」
返事はない。胸が浅く上下しているだけだ。
私は布を水で濡らし、口元に当てた。祈るような気持ちで。
結界の外で、黒い影が動いた。
霧の中から、骨のように細い脚が何本も伸びる。
蜘蛛に似ていて、でも大きい。馬より大きい。
背中から突き出た角が、結界の膜に触れた瞬間、ぱちぱちと火花が散った。
「来るぞ!」
隊長が叫ぶ。
影がぶつかった。
膜がたわむ。音はしない。けれど空気が押しつぶされて、胸が痛い。
魔導師が歯を食いしばる。
「魔力が、持たない……!」
「持たせろ。ここが抜かれたら、街が終わる!」
私の声はひどく乾いていた。
人を安心させるための声が、命令のための声に変わっていくのが分かった。
結界の外で、兵が槍を突き出した。
膜の際に魔物の脚が触れた瞬間、膜が焼けるように光り、脚が弾かれる。
だが、別の影が横から滑り込み、地面を抉って霧を巻き上げた。
「裏道だ! 北の路地に回った!」
見張りの叫び。
私は駆けた。役人が走るなど滑稽だが、滑稽でも走るしかない。
北の路地では、すでに小さな魔物が入り込んでいた。
犬くらいの大きさの、黒い獣。目だけが赤く光る。
「下がれ!」
兵が子どもを庇う。獣が跳ぶ。
刃が閃き、獣は地面に落ちたが、兵の腕から血が噴いた。
「医療班! 神殿へ!」
私は叫びながら、血で濡れた袖を押さえた。
兵は歯を食いしばり、笑おうとした。
「大丈夫です。これくらい……」
その声が、震えている。
神殿へ運び込む途中、私は見た。
瘴気の霧が、空から細い雨みたいに降っている。
結界の穴が、空の上に開いているせいだ。
これが続けば、畑も水も、人も、全部やられる。
誰かが泣いた。誰かが怒鳴った。
「王都は何をしている!」
「大結界は絶対だって言っただろ!」
言葉が飛び交い、すぐに喉の奥で消えた。
怒鳴っても、空のひびは閉じない。
夕方、魔物の影が一歩引いた。
小結界の光が、わずかに安定する。
外の霧も、風向きが変わったのか薄くなる。
魔導師が膝から崩れ、地面に手をついた。
「……一旦、押し返せました」
声は枯れている。
「一旦、だな」
私は頷いた。頷くしかなかった。
被害の確認に入ると、現実が殴ってきた。
倒れた屋台。散った果物。割れた瓶。
そして、布をかけられた人の形が、いくつもある。
帳簿に数字を書くのは慣れている。
だが、名前の隣に数字を書きたくはなかった。
パン屋の主人。荷車の御者。市場でいつも喧嘩していた双子の片割れ。
誰もが、ついさっきまで生きていた。
「役人殿、王都への伝令文は」
隊長が疲れた顔で聞いてくる。
私は頷き、震える手で紙を取り出した。
結界の崩落。瘴気の侵入。魔物の出現。死傷者。
書くべきことは明確なのに、文字が滲んだ。
私の指が震えているせいだ。
夜、神殿の前へ向かった。
そこには大結界記念碑がある。
王都が建てた立派な石柱で、毎年、守りに感謝する式典をやる。
私も何度も、あの前で頭を下げた。
石柱に、ひびが入っていた。
細い線が、上から下へ。
今日、空に走ったひびと同じ形で。
隣にいた神官長が、震える声で言った。
「結界は……絶対では、なかったのですね」
私は返事ができなかった。
誰かが小さく言った。
「王都の地下で、何かが壊れたんじゃないか」
別の誰かが首を振る。
「分からない。でも、今日の空の音は忘れない」
沈黙は冷たい。けれど、冷たいままでいてほしかった。
この沈黙が怒りに変わった時、街はもっと壊れる気がした。
私は今朝の兵の顔を思い出した。
変な光が見えた、と言っていた。私は笑って流した。
平静を守るためだと正当化したが、ただの怠慢だったのかもしれない。
次に同じ報告が来たら、私はもう、見て見ぬふりはできない。
人々が集まり、沈黙した。
泣き声も、怒号も、誰も出さない。
ただ、ひびの入った石柱を見つめる。
私は、初めて現実として理解した。
国の守りが欠けたのではない。
信じていた前提そのものが、崩れ始めたのだ。
そして、この崩落は、まだ最初にすぎない。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
大結界の「最初の崩落」で、街も人も、信じていた前提ごと揺らぎました。次話では“誰が/何が”結界を裂いたのか、王都と現場の視点が交差して動き出します。
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