第58話 王城の窓に映る線
音楽が途切れない。笑い声も、グラスの触れ合う音も。
この場だけは、ずっと平和でいられると信じたいみたいに。
ルクス城の大広間は、白い石の柱と高い天井に守られている。
金の装飾は誇らしげで、魔導灯は星のように瞬く。
窓の外の王都ルクスリアも、同じ光で満ちているはずだ。
舞踏会は俺が主催した。
国境の小さな衝突も、地方の不穏な噂も、今夜は忘れろと命じるために。
いや、正確には、忘れたふりをさせるために。
「レオン殿下。今宵も素晴らしい夜でございますな」
北方の小国から来た使節が、腹の底まで笑って見せる。
俺は口角を上げ、いつもの台詞を返した。
「我が国は大結界に守られている。皆が安心して眠れる国だ。どうぞ、存分に楽しんでほしい」
言った瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さる。
守られている。誰に。
大結界は、昔からある国の宝だ。
そう教えられて育った。だから疑う必要もなかった。
けれど、数年前から俺は知ってしまっている。
宝は、誰かの血と魔力で回っていたと。
考えるな。今は王太子だ。
俺の役目は、国の顔として揺れないこと。
隣にいるリリアナが、俺より少し遅れて微笑む。
ぎこちない。だが、努力しているのは分かる。
俺が望んだとおりの、優しい王妃を演じようとしている。
「皆さま、どうぞお食事も。厨房が今夜のために、とても頑張ってくれましたの」
言い回しは教本どおり。声は少しだけ震えている。
それでも、来賓たちは「王妃らしい」と頷く。
見た目は整っているし、泣き顔も笑顔も、民が好む形をしている。
俺は彼女の手の甲にそっと触れ、合図した。
背筋を伸ばせ。顔を上げろ。堂々と。
リリアナは小さく息を吸って、笑顔を作り直す。
「……ありがとう、レオン様」
「礼は後でいい。今は、演じ切れ」
口にした後で、自分の言葉が冷たいと気づく。
だが、甘さは今夜の敵だ。崩れたら、その瞬間に餌になる。
すぐ近くで、伯爵家の令嬢たちが囁き合う。
「王妃様、前より落ち着かれたわね」
「殿下が支えていらっしゃるのよ。理想のご夫婦だわ」
理想。そう、理想だ。
俺たちは、国が欲しがる物語を差し出している。
だから拍手が起きる。だから酒が進む。
宰相補佐の男が、来賓の列の向こうから近づいてきた。
笑顔のまま、口元だけを動かす。こういう場の合図は慣れている。
「殿下。南方の海商国家の使節が、港の税制についてお話を」
「今か」
「今でないと、酒が回りすぎます」
俺はため息を飲み込み、使節へ向かった。
「殿下。海路は平穏ですか?」
「もちろんだ。大結界がある」
また言った。棘が増える。
使節はにやりと笑い、軽い口調で続ける。
「便利な言葉ですな。大結界。心配を一言で消せる」
「心配など不要だ」
「なら、我々は安心して投資できます。殿下の言葉は金より強い」
褒め言葉の形をした針。
俺は笑顔を崩さず、曖昧な返事でやり過ごす。
大結界が揺らいだら、海路も商売も全部崩れる。
そんな前提を、誰も口にしない。
口にした瞬間、平和という箱庭が割れるから。
ふと、背後で布の擦れる音がした。
使いの少年が、白手袋のまま俺に近づく。
踊る人々の影をすり抜け、耳元へ。
「殿下。観測室から……小さな報告が」
少年は、懐から薄い紙片を出した。
封は閉じられていない。急ぎの印だ。
俺は視線を落とすだけで読めた。
上空、微弱な振動。
原因、未特定。
現場判断で、経過観測。
たったそれだけ。
それでも、背中が冷えた。
数日前にも似た報告があった。
地方の夜警が、空の異変を言い出したと。
上司は笑って片付けたと。
俺も、笑ったふりをした。
「……分かった。戻れ」
少年は消える。
俺は紙片を握り潰し、笑顔を貼り付けて前を向いた。
この国は大丈夫だ。
そう言い続ければ、大丈夫になる。
そんな魔法があればいいのに。
そのときだった。
壁際の大窓のほうで、空気が揺れた。
最初はただの光の反射だと思った。
踊る人々の衣装、蝋燭の火、魔導灯のきらめき。
そのどれとも違う、鋭い白い線が、ガラスに走った。
俺は瞬きをした。
線は、窓の外の夜空に続いていた。
「……今の、見たか?」
誰かが小声で言う。もう一人が息を呑む。
ざわめきが波のように広がり、音楽が一瞬だけ弱くなる。
リリアナが俺の袖を掴んだ。
爪が布に食い込むほど強く。
「レオン様。あれ、何ですの……」
俺は答えられなかった。
空に、ひびが入る。そんなことがありえるのか。
大結界がある。
空を覆う、透明な壁。
それが割れるなら、世界は。
いや、違う。割れたように見えただけだ。
今夜は舞踏会だ。俺は動揺を見せられない。
「落ち着け。錯覚だ」
言いながら、俺自身が落ち着けていない。
すると、大広間の端から杖の音が響いた。
王宮魔導師長が前に出てくる。年老いた男だが、歩みは迷わない。
「皆さま、ご心配には及びません」
声が、よく通る。空気を押さえつける力がある。
「今の光は、一時的な魔力の乱れです。上空の観測は常に行っております。危険はありません」
彼はそう言い切り、杖先で小さな術式を描いた。
窓の外に、淡い膜が重なる。視界が少し霞み、あの線は見えなくなる。
会場が、ほっと息を吐いた。
人は、安心できる言葉を待っていたのだ。
「さすが王宮魔導師長だ」
「大結界があるのですもの。怖がる必要など」
笑い声が戻る。音楽も強くなる。
俺はそれに合わせて、笑顔を貼りつけた。
だが、胸の棘は抜けない。
魔導師長が俺のそばへ来る。
表情は平静。その奥で、何かを計算している目だ。
「殿下。少しだけ」
俺は頷き、彼に耳を寄せた。
「乱れは、確かに観測されました。範囲は狭い。今夜のうちに調整で隠せます」
「隠す、だと?」
「騒ぎは国を弱く見せます。殿下が守るべきは、まず秩序です」
秩序。
その言葉が、昔の光景を連れてくる。
玉座の間。俺が高らかに宣言した日。
アリア・レインが、静かに頭を下げた背中。
あいつなら、今の線を見てどう言う。
多分、こうだ。
大結界は万能じゃない。数字と現実を見ろ。
そして、俺に一番言ってほしくないことを言う。
あなたは、今まで誰の上に立っていたの。
喉の奥が熱くなる。
俺はその熱を、笑顔で押し込めた。
アリアは、いつも合理的だった。
俺のために怒る女ではなかった。そう思ってきた。
だが今なら分かる。怒らないのは、怒る価値すら与えられていなかっただけだ。
後悔が、思考に刺さる。
あいつの指先。インクで汚れていた。
夜更けの書庫で、結界式を直していた背中。
俺は見ていたのに、見ないふりをした。
「殿下?」
魔導師長の声に、俺は現実へ戻る。
リリアナが不安そうに俺を見上げている。
「……分かった。会場はこのまま続けろ。来賓には余計な説明をするな」
「承知しました」
魔導師長は一礼して去る。
その背中を見送りながら、俺は拳を握った。
平和な王国。
俺は今、必死にそれを演じている。
リリアナが小さく言う。
「本当に、大丈夫なのですか……?」
「大丈夫だ」
即答した。嘘でも、真実でも。
王太子の言葉は、それだけで命令になる。
「あなたが震えるなら、皆が震える。笑え」
「……はい」
リリアナは唇を噛み、やがて頷く。
「笑います。王妃として。逃げないで、ここに立ちます」
その健気さに、少しだけ救われる。
俺は彼女に腕を差し出した。
「次は踊れ。今夜の主役は俺たちだ」
彼女が手を乗せる。
その手はまだ冷たい。
音楽に合わせて一歩踏み出したとき、俺はもう一度だけ窓を見た。
魔導師長の術で霞んだガラスに、かすかな白が残っている気がした。
見えないはずなのに。
そこにあると、分かってしまう。
俺は笑う。来賓に向けて、国に向けて、自分に向けて。
それでも、目だけは窓から逸らしたままだった。
笑顔の裏で、歯を食いしばる。
今夜が終わったら、観測室に行く。報告書を全部出させる。
そう決めたはずなのに、次の乾杯の声がそれを薄めていく。
俺は王太子だ。
弱さを見せた瞬間、国は崩れる。
だから、今はまだ、見ないふりをする。
ここまでお読みいただきありがとうございます。舞踏会の笑顔の裏で空のひびが走りました。レオンが守ろうとする秩序と、隠されてきた大結界の真実――次話では観測室の報告と、ある人物の影が動きます。続きが気になったら、ブクマ&評価で応援して頂けると励みになります。




