第57話 アストリアの夜警
夜警の当番は、嫌いじゃない。
昼の見張りより寒いし、退屈だし、眠い。でも、町が静かになる分だけ、魔力の流れがよく分かる。
地方都市リュネの城壁は、王都ほど高くない。
それでも北の丘に向けて積まれた石は厚く、冬の夜気を含んで冷たい。
俺は外套の襟を立て、革靴の踵を鳴らしながら巡回した。
見上げた空に、淡い光の膜が張り付いている。大結界。
子どものころから当たり前に見上げてきた、アストリアの空の蓋だ。
薄い青が夜空に溶け、時折ゆらりと揺れる。その揺れすら、安心の印みたいに思われている。
「なあ、魔導師殿。今夜も青いな」
隣で槍を肩に担いだ衛兵が、あくび混じりに言う。
名札はガルド。彼は俺より年上で、夜の寒さに慣れている顔をしていた。
「空気が澄んでいるからだろ」
「結界があるから、北の谷の瘴気が来ない。ありがてえよな」
ガルドは城壁の外、闇に沈む北の丘を指した。
あの向こうは山と谷。魔物と瘴気の噂がいつも付いて回る場所だ。
城壁の下の市街は眠っている。
戸口には結界祭の飾りがまだ残っていた。大結界を讃える年中行事だ。
神殿の尖塔に吊るされた鈴が、風で小さく鳴る。きっと今夜も誰かが、女神の加護と王家の偉業を祈っている。
「結界があるから安全。寝てても守ってくれる。王家はすげえ」
ガルドは当然のように言う。
俺はうなずきながら、胸の奥で小さくため息をついた。
王家がすごいのか。結界そのものがすごいのか。
その違いを口にするやつは、ここにはいない。
俺は地方魔導師隊の末席だ。実戦経験も少ないし、肩書も小さい。
それでも夜警の当番に駆り出されるのは、結界の見回りが名目になっているからだ。
結界の維持は王都の役目。地方は目視と報告。いつもそう習った。
けれど、俺は魔導師だ。
目で見える光より先に、皮膚の内側が何かを拾うことがある。
魔力の流れは水のようだ。普段なら、膜の表面を一定の速さで滑っていく。
今夜は、その水面が、ほんのわずかにざらついている気がした。
「最近、王都は騒がしいらしいな」
俺が言うと、ガルドは鼻で笑った。
「どうせ夜会だろ。王族様の話は遠い。俺らはこの町を守れりゃいい」
「結界の担当が増えたって噂もある」
「王都の魔導師は暇だな」
彼は軽く言う。遠い話だから、軽くできる。
俺は口を閉じた。
数年前、王都で婚約破棄があった、という噂だけはここまで届いた。
あのとき、結界に関わる伯爵家の娘が隣国へ行ったとか、王家が手放したとか。
地方の酒場の話で、真偽なんて誰も気にしない。結界が青く光っている限り、全部作り話で片づく。
城壁の上には、小さな観測台がある。
水晶盤と、簡易の魔力計。王都みたいな大げさな観測室はない。
だから、こうして人間の目と耳が最後の頼りになる。
「今日、見回りの数が増えたよな」
俺が言うと、ガルドは肩をすくめた。
「最近、北の森で妙な魔物が増えたって話だ。結界があるから町には来ねえけどな」
「結界があるから、か」
その言葉を反芻した瞬間だった。
耳の奥で、きい、と音がした。
木が軋む音じゃない。鉄でもない。もっと硬く、もっと乾いている。
魔力の鎖が、どこかでねじれるときの音に似ていた。
俺は反射的に顔を上げた。
大結界の光の膜。その表面に、髪の毛ほどの細さの線が走っている。
ひび。
いや、ひびなんて、あり得ない。大結界は絶対だ。そう教わってきた。
だからこそ、目の前の光景が理解できなかった。
でも、見えた。
月明かりと重なって、光の線が一瞬だけ白く輝き、すぐに消える。
消えたあとも、瞼の裏に残像が焼き付く。
「今の、見たか」
俺はガルドに詰め寄った。
「ん? なにが?」
彼は眠そうに瞬きをするだけだった。
城壁の上には俺とガルド以外にも何人かいる。だが、誰も空を見上げていない。誰も、気づいていない。
俺の喉が渇く。
これは目の錯覚か。疲れか。寒さで視界が揺れただけか。
もう一度、耳の奥で、きい、と鳴った。
今度は、俺の頭の骨に直接触れるみたいに、嫌な震えが残った。
音が鳴った瞬間だけ、膜の光がわずかに濃くなる。まるで、自分で自分を締め直しているみたいに。
「……魔導師殿?」
ガルドが俺の顔をのぞき込む。
「顔色、悪いぞ。酒場のスープでも思い出したか?」
「違う。結界だ」
俺は観測台へ走った。水晶盤に手を置き、魔力を流し込む。
盤面の薄い光が、いつも通りの円を描く。数値も平常。異常なし。
それが、余計に怖い。
俺の魔力は弱い。だから、盤が拾えない異常があってもおかしくない。
けれど、俺の目は嘘をつかなかった。さっき、ひびを見た。
俺は水晶盤の端を指でなぞり、結界の外縁を想像した。
この町の上空だけじゃない。国土全部を覆う、巨大な膜。
あそこに小さな裂け目が生まれたとして、地方の水晶が拾えるだろうか。
拾えない可能性のほうが、ずっと高い。
城壁の階段を駆け下り、詰所へ向かった。
夜の石畳を走ると、冷たい空気が肺に刺さる。
通りを抜けると、結界祭の記念碑が見えた。初代王が空へ手を伸ばす像だ。
その足元に刻まれた言葉は、子どもでも暗唱できる。
大結界は永遠。王家は守護者。国は安泰。
詰所には、隊長のバルドがいた。白髪混じりの魔導師で、地方の結界管理を任されている。
机には報告書が積まれ、彼は眠気と戦いながらペンを動かしていた。
「隊長。報告があります」
俺が息を整える前に言うと、バルドは眉を上げた。
「今の時間に?」
「大結界に、ひびの光が走りました。耳の奥で、魔力の鎖が軋むみたいな音も」
言っているうちに、自分が馬鹿みたいに聞こえてくる。
それでも、口を止められなかった。
バルドはペンを置き、俺を見た。
「おまえ、最近寝ているか」
「寝ています。少なくとも、倒れるほどじゃ」
「なら、寒さだ。外は冷える。耳鳴りもする」
「耳鳴りじゃありません。あれは……」
「結界が割れる音だと?」
隊長の声に、わずかな苛立ちが混じった。
詰所の隅にいた衛兵が笑う。
「結界が割れたら、俺たち全員死んでますよ」
「そうだ。大結界は王家の誇りだ。割れるわけがない」
その言葉が、俺の背中を冷たく撫でた。
割れるわけがない。だから、異常は存在しないことになる。
「観測水晶は平常値ですか」
バルドが形式的に尋ねる。
「……はい。数値は平常です。でも、目視で」
「なら、目視が間違っている」
即答だった。
「王都の観測室から、異常が出たという連絡はない。こちらだけが騒いで、どうする」
隊長は棚から古い帳面を引き出し、ぱらぱらとめくった。
「去年も一昨年も、似た報告はあった。結局、全部気のせいだ」
「気のせいで、同じ音が出ますか」
言ってしまってから、しまったと思った。
バルドの目が細くなる。
「若いの。危機感があるのはいい。だが、国を守っているのは不安じゃなく手順だ」
彼は俺の肩を軽く叩いた。
「おまえの仕事は報告だ。報告した。これで終わり。分かるな」
分かる、と言うしかなかった。
俺は敬礼し、詰所を出た。扉が閉まると、背後の笑い声が薄く聞こえた。
城壁に戻る途中、俺は立ち止まった。
王都へ直接連絡できる伝達魔法は、封印鍵がないと使えない。
俺の手には、地方の水晶盤しかない。権限も、信用もない。
それでも、もし本当に結界が傷んでいるなら。
その最初の一文を、誰かが書かなきゃいけない。
だから俺は、懐から小さな手帳を出した。
夜警当番の備忘録だ。誰にも提出しない、俺だけの記録。
震える指で、日付と時刻を書き、短い言葉を残す。
結界に細い線。音あり。きい、と。
城壁に戻ると、ガルドが槍を抱えたまま空を眺めていた。
「隊長に怒られたか?」
「怒られてない。ただ……気のせいだってさ」
「まあ、そうだろ。結界はずっとこうだった」
彼は当たり前のように言い、夜空を指した。
「ほら、きれいだ。女神の膜みたいだろ」
きれいだ、と俺も思った。
淡い光が、町を包むように揺れている。その下で人々は眠っている。
この光がある限り、世界は変わらない。そう信じられている。
俺だけが、信じきれなかった。
さっきのひびは、幻じゃない。
もう一度だけ、観測台の水晶盤に触れた。
平常。異常なし。
数値は正しいのに、俺の皮膚だけが、薄い膜の冷たさを感じている気がした。
耳の奥で、きい、と鳴る。
さっきより小さく、遠い。けれど、確かに続いている。
音は、誰かの叫びじゃない。誰かを責める声でもない。
ただ、壊れかけた機構が、黙って軋む音だ。
俺は夜空を見上げたまま、喉の奥で言葉を飲み込んだ。
この国は、音に気づかないふりをすることで、安心を維持している。
それが、結界よりも強い信仰になっている。
俺の足元で、城壁の石が冷えていく。
北の闇の向こうで、何かが呼吸しているような気配がした。
その夜、町は何事もなく朝を迎えた。
誰も死なず、誰も騒がず、誰も結界の空を疑わなかった。
あの音が、後に第一の警告と呼ばれることになるとは。
俺はまだ、知らなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
静かな夜の「きい」という音――誰も気づかない違和感が、少しずつ国を動かしていきます。
次話では、王都側の動きと本当に結界を支えている人の影が近づきます。
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