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「完結済」婚約破棄された令嬢ですが、この国の大結界を張っていたのは私なので、隣国の魔導師団長にスカウトされました  作者: 夢見叶
第2部 ガルディア新生活と魔導師団編 第8章 国境防衛戦

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第55話 嵐のあとの静けさ

 戦いが終わった、と頭では分かっているのに。

 指先はまだ、結界の糸を探す癖をやめてくれなかった。


「主任。もう、そこは壊れてないです」

 隣の机から、ノエルが控えめに言う。


「はい。分かっています。分かっているんですけど……」

 私は羊皮紙の上に、つい魔力の流れの図を描き足してしまう。

 報告書だ。研究ノートではない。


 ここは国境都市グラナ。

 前線支部の指揮所の一角に、臨時の執務机を並べている。

 窓の外では、修復班が結界柱の周囲を忙しなく動き、遠くで鍛冶の音が鳴っていた。


「書け。寝る前に終わらせる」

 向かいの机で、セイジュ様が短く言う。

 相変わらず淡々としているのに、私の机の端には、いつの間にか温かいコーヒーが置かれていた。


「ありがとうございます。……でも、団長こそ休んでください。顔色、青いです」

「気のせいだ」

「気のせいであってほしいです」


 私が言い返すと、セイジュ様はほんの少しだけ口元をゆるめた。

 それを見ただけで、胸の奥の緊張がほどける。

 戦場の後に残るのは、こういう小さなものだ。


 紙束の上から、リカルド副団長が覗き込んできた。


「お、やってるな。主任、ここの文言、もうちょい柔らかくならねえ?」

「柔らかく、ですか?」

「だってよ。『結界層の再配分により損耗率を平均18%低減』とか言われても、現地司令官が眠るだけだ」

「眠らせるのは良くないですね……」


 私は咳払いをして、書き直す。


『多重結界の層を入れ替えた結果、結界の消耗が目に見えて減りました。今後も同方式を推奨します』


「おお、急に人間の文章になった」

「副団長、それ、褒めてます?」

「褒めてる褒めてる。で、最後。あれ、書くのか?」


 リカルド副団長の視線が、報告書の末尾へ落ちる。

 そこには、臨時に用意された石碑案の写しが挟まっていた。


『グラナ式多重結界 設計者:アリア・レイン』


 見た瞬間、背中がむずむずする。

 名前を刻むなんて、戦場より恥ずかしい。


「……書きません」

「おいおい」

「書け」

 セイジュ様が、間髪入れずに言った。


「団長まで同じ側に立たないでください」

「事実だ。残すべきだ」

「残すなら、仕様だけで十分です。設計者名は……」

「残るのは結界だけじゃない。責任もだ」


 その言葉は、重いのに、温かかった。

 私は黙って、ペン先を整える。


「……分かりました。書きます。ですが、字は小さめにします」

「意味がないだろう」

「私の心の防御です」


 ノエルが「ぷっ」と吹き出し、慌てて口を押さえた。

 カイルが通りがかりに眉をひそめる。


「主任。防御は、結界だけで十分では」

「十分じゃない時があるんです。カイルさん」

「……勉強になります」


 真顔で頷かれて、私は逆に困った。


 報告書は、夕方には形になった。

 修復班の最終点検が終わり、負傷者の名簿も確定する。

 紙とインクの戦いは、想像以上に体力を削るらしい。


 私が椅子から立ち上がった瞬間、足がふらついた。


「おい」

 セイジュ様の手が、腰を支える。


「だ、大丈夫です」

「大丈夫じゃない」

「……はい。大丈夫じゃないです」


 正直に認めると、少し楽になる。

 彼の手は熱くて、私の疲れた体に現実を戻してくれた。


「外、行く」

「今からですか?」

「最終チェック。終わってないだろう」


 そう言われると、反論できない。

 私は外套を羽織り、ノエルの計測器と、カイルの不機嫌そうな護衛付きで、結界柱の列へ向かった。


 城外の風は冷たくて、戦いの匂いがまだ残っている。

 地面には焼け跡と血の色が混じり、その上に新しい石灰が撒かれていた。


「主任。こっちの柱、魔力の波が少しだけ揺れてます」

 ノエルが水晶板を掲げる。


「揺れ方が、外からの圧ではなく……内側の息切れですね」

 私は指先で柱の刻印をなぞり、薄く魔力を流した。

 多重結界の層のひとつを、ほんの半拍だけ前に出す。


 空気が、すっと静かになる。


「止まった」

 カイルが低く言った。


「止めたのは私ですが、気づいたのはノエルです」

「……はい。ありがとうございます、主任」

 ノエルが照れたように笑う。


 視線の端で、石工が大きな板石を運んでいるのが見えた。

 あれが石碑になるのだろう。

 白い石の表面はまだ無傷で、そこに刻まれる文字を想像しただけで胃がきゅっとなる。


「主任!」

 そこへ、子どもの声が飛んできた。


 前の回で私に飛びついてきた子だ。今度は、手に包みを持っている。

 焼き菓子の匂いがした。


「これ、母さんが。おねえちゃん、寝てないからって」

「……寝てます。たぶん」

「たぶん!」


 子どもが笑い、私もつられて笑った。

 戦場の後でも、人は生きていて、明日のことを考えている。

 その当たり前が、急に眩しい。


「ありがとう。大事に食べますね」

「うん! また、守ってね!」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 私は小さく頷き、包みを抱え直す。


 帰還準備は、もう始まっている。

 けれど、私はここに何かを置いていっている気がした。

 結界だけではない。名前も、責任も、たぶん気持ちも。


     ◇


「打ち上げだ! 今日だけは、上官も命令しない!」

 リゼットが、酒場の扉を勢いよく開けた。


 グラナの夜は冷える。

 けれど店内は、鍋の湯気と人の熱気でむわっとしていた。

 兵士も職人も、同じように疲れた顔で笑っている。


「主任! こっちです!」

 ノエルが机を確保して、手を振る。

 私はその隣に座り、セイジュ様は無言で私の反対側に腰を下ろした。

 逃げ道を塞ぐ配置、ではないと思いたい。


「さあ、乾杯!」

 リゼットが杯を掲げる。


「……乾杯」

 カイルも、いつになく素直に杯を上げた。


 杯が鳴り、湯気の向こうで笑い声が弾む。

 酒が回り始めると、空気が少しだけ軽くなる。

 戦いの話をしても、泣きそうになる前に笑いに変えられる。


「主任の結界がなかったら、ぼくの計測器も役に立たなかったです!」

 ノエルが真っすぐ言う。


「計測器がなかったら、私は数値を根拠に司令官を黙らせられませんでした」

「黙らせたんですか?」

「ええ。丁寧に、です」


 リカルド副団長が大笑いした。


「丁寧に黙らせるって何だよ。主任らしいな」

「褒め言葉として受け取っておきます」


 カイルが咳払いをして、私の方を見た。


「主任。……その。前は、失礼なことを言った」

「どの件ですか?」

「全部だ」

「多すぎません?」


 リカルド副団長がまた笑う。

 カイルの耳が赤くなる。


「今は、あなたが主任で良かったと思っている」

「……ありがとうございます。では次は、現場の段取りを任せますね」

「任せるんですか!?」

「はい。信用しているので」


 カイルが固まった。リゼットが肩を叩く。


「ほらほら、認めたなら働け!」

「今この場でも!?」


 笑い声が広がり、私はようやく息を吐けた気がした。


 ふと、隣の席の老兵がこちらを向いた。

 皺だらけの顔が、ゆっくりとほどける。


「嬢ちゃん。ありがとうな」

「……私一人の力ではありません」

「分かってる。でもよ。あんたの結界が、背中を押してくれた。帰れるって思えた」


 胸の奥が、じんわり熱くなる。

 私は、ただ頷くことしかできなかった。


 そのとき、セイジュ様が、私の杯に水を足した。


「飲みすぎるな」

「団長、私の監視係ですか」

「違う。保護係だ」

「それ、似ています」


 リゼットが机を叩いて笑う。


「はいはい、溺愛ごちそうさま! 主任、顔赤いよ!」

「赤くありません! この暖炉のせいです!」

「暖炉は言い訳に便利だな」


 セイジュ様が淡々と言うので、私は思わず睨んだ。

 睨んだのに、彼は私の髪の乱れを指先で直そうとしてくる。

 反則だ。


 結局、その夜は皆で笑って、食べて、明日の出立の段取りを決めた。

 勝った後の時間は、短い。

 だからこそ、しっかり味わうべきなのだと思う。


     ◇


 店を出ると、空気がすっと冷たくなった。

 星が近い。

 国境の夜は、静かだ。


 城壁の上を歩きながら、私は無意識に北の闇を見た。

 山脈の向こう、アストリア側。

 そこに、私がかつて守っていた国がある。


「寒い」

 セイジュ様が、私の肩に外套をかける。

 私のローブの上に、彼の匂いが重なる。


「ありがとうございます。……団長」

「なんだ」


 言葉を選ぶ時間が、急に怖くなった。

 戦いが終わって、静けさが戻って。

 だからこそ、心の奥のものが浮かんでくる。


「あの国を、完全に見捨てることは……まだ、できそうにありません」

 口にした瞬間、自分でも驚くほど声が小さかった。


 セイジュ様は足を止め、私の横顔を見る。

 銀の瞳が、夜の星明かりを映していた。


「当然だ」

「……怒らないんですか?」

「なぜ怒る。おまえは冷たい人間じゃない」

「冷たい方が、楽な時もあります」


 私は笑おうとして、うまくできなかった。

 リンクの儀式で、あの国の結界に一瞬触れた。

 あの感触が、まだ指の奥に残っている。

 古い鎖のように、重くて、痛い。


「私は、逃げるために弱くした場所を知っています」

 言ってしまった。

 言葉にしてしまうと、罪みたいだ。


「だから?」

「だから……いつか、誰かが困るかもしれないって」


 セイジュ様は、私の手を取った。

 指先まで冷えていた私の手が、彼の熱で包まれる。


「おまえが選んだ国境は、もうここだ」

 低い声が、夜の空気に溶ける。


「……はい」

「それでも、向こうが崩れるなら、こちらも無傷ではいられない」

「……分かっています」

「なら、背負う量を減らせ。おまえの分は、俺が持つ」


 言い切られて、喉の奥が熱くなった。

 私は頷き、握られた手を握り返す。


 その瞬間だった。


 北の空に、ごく細い光が走った。

 雷ではない。

 ひび、だ。


 次の瞬間、光は消える。

 けれど耳の奥で、きし、と小さな音がした気がした。

 魔力の鎖が擦れるような、嫌な音。


「今の……」

 私が呟くより先に、セイジュ様が空を睨んでいた。


「報告する。観測網を増やす」

「団長、あれは……」

「気のせいで済ませるつもりはない」


 その言葉が、妙に心強かった。

 私は震える息を吐き、夜空をもう一度見上げる。


 静けさは、嵐の終わりではなく。

 次の嵐の、前触れなのかもしれない。


 ――数年後、再びこの空に災厄が押し寄せることを、まだ誰も知らない。

ここまでお読みいただきありがとうございました!第2部の終わりが見えたと思ったら、北の空に“ひび。次話は原因調査と、セイジュの「守る」がもう一段深くなります。続きが気になったら、ブクマ&評価、感想ひと言で背中を押していただけると励みになります。


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