第55話 嵐のあとの静けさ
戦いが終わった、と頭では分かっているのに。
指先はまだ、結界の糸を探す癖をやめてくれなかった。
「主任。もう、そこは壊れてないです」
隣の机から、ノエルが控えめに言う。
「はい。分かっています。分かっているんですけど……」
私は羊皮紙の上に、つい魔力の流れの図を描き足してしまう。
報告書だ。研究ノートではない。
ここは国境都市グラナ。
前線支部の指揮所の一角に、臨時の執務机を並べている。
窓の外では、修復班が結界柱の周囲を忙しなく動き、遠くで鍛冶の音が鳴っていた。
「書け。寝る前に終わらせる」
向かいの机で、セイジュ様が短く言う。
相変わらず淡々としているのに、私の机の端には、いつの間にか温かいコーヒーが置かれていた。
「ありがとうございます。……でも、団長こそ休んでください。顔色、青いです」
「気のせいだ」
「気のせいであってほしいです」
私が言い返すと、セイジュ様はほんの少しだけ口元をゆるめた。
それを見ただけで、胸の奥の緊張がほどける。
戦場の後に残るのは、こういう小さなものだ。
紙束の上から、リカルド副団長が覗き込んできた。
「お、やってるな。主任、ここの文言、もうちょい柔らかくならねえ?」
「柔らかく、ですか?」
「だってよ。『結界層の再配分により損耗率を平均18%低減』とか言われても、現地司令官が眠るだけだ」
「眠らせるのは良くないですね……」
私は咳払いをして、書き直す。
『多重結界の層を入れ替えた結果、結界の消耗が目に見えて減りました。今後も同方式を推奨します』
「おお、急に人間の文章になった」
「副団長、それ、褒めてます?」
「褒めてる褒めてる。で、最後。あれ、書くのか?」
リカルド副団長の視線が、報告書の末尾へ落ちる。
そこには、臨時に用意された石碑案の写しが挟まっていた。
『グラナ式多重結界 設計者:アリア・レイン』
見た瞬間、背中がむずむずする。
名前を刻むなんて、戦場より恥ずかしい。
「……書きません」
「おいおい」
「書け」
セイジュ様が、間髪入れずに言った。
「団長まで同じ側に立たないでください」
「事実だ。残すべきだ」
「残すなら、仕様だけで十分です。設計者名は……」
「残るのは結界だけじゃない。責任もだ」
その言葉は、重いのに、温かかった。
私は黙って、ペン先を整える。
「……分かりました。書きます。ですが、字は小さめにします」
「意味がないだろう」
「私の心の防御です」
ノエルが「ぷっ」と吹き出し、慌てて口を押さえた。
カイルが通りがかりに眉をひそめる。
「主任。防御は、結界だけで十分では」
「十分じゃない時があるんです。カイルさん」
「……勉強になります」
真顔で頷かれて、私は逆に困った。
報告書は、夕方には形になった。
修復班の最終点検が終わり、負傷者の名簿も確定する。
紙とインクの戦いは、想像以上に体力を削るらしい。
私が椅子から立ち上がった瞬間、足がふらついた。
「おい」
セイジュ様の手が、腰を支える。
「だ、大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「……はい。大丈夫じゃないです」
正直に認めると、少し楽になる。
彼の手は熱くて、私の疲れた体に現実を戻してくれた。
「外、行く」
「今からですか?」
「最終チェック。終わってないだろう」
そう言われると、反論できない。
私は外套を羽織り、ノエルの計測器と、カイルの不機嫌そうな護衛付きで、結界柱の列へ向かった。
城外の風は冷たくて、戦いの匂いがまだ残っている。
地面には焼け跡と血の色が混じり、その上に新しい石灰が撒かれていた。
「主任。こっちの柱、魔力の波が少しだけ揺れてます」
ノエルが水晶板を掲げる。
「揺れ方が、外からの圧ではなく……内側の息切れですね」
私は指先で柱の刻印をなぞり、薄く魔力を流した。
多重結界の層のひとつを、ほんの半拍だけ前に出す。
空気が、すっと静かになる。
「止まった」
カイルが低く言った。
「止めたのは私ですが、気づいたのはノエルです」
「……はい。ありがとうございます、主任」
ノエルが照れたように笑う。
視線の端で、石工が大きな板石を運んでいるのが見えた。
あれが石碑になるのだろう。
白い石の表面はまだ無傷で、そこに刻まれる文字を想像しただけで胃がきゅっとなる。
「主任!」
そこへ、子どもの声が飛んできた。
前の回で私に飛びついてきた子だ。今度は、手に包みを持っている。
焼き菓子の匂いがした。
「これ、母さんが。おねえちゃん、寝てないからって」
「……寝てます。たぶん」
「たぶん!」
子どもが笑い、私もつられて笑った。
戦場の後でも、人は生きていて、明日のことを考えている。
その当たり前が、急に眩しい。
「ありがとう。大事に食べますね」
「うん! また、守ってね!」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
私は小さく頷き、包みを抱え直す。
帰還準備は、もう始まっている。
けれど、私はここに何かを置いていっている気がした。
結界だけではない。名前も、責任も、たぶん気持ちも。
◇
「打ち上げだ! 今日だけは、上官も命令しない!」
リゼットが、酒場の扉を勢いよく開けた。
グラナの夜は冷える。
けれど店内は、鍋の湯気と人の熱気でむわっとしていた。
兵士も職人も、同じように疲れた顔で笑っている。
「主任! こっちです!」
ノエルが机を確保して、手を振る。
私はその隣に座り、セイジュ様は無言で私の反対側に腰を下ろした。
逃げ道を塞ぐ配置、ではないと思いたい。
「さあ、乾杯!」
リゼットが杯を掲げる。
「……乾杯」
カイルも、いつになく素直に杯を上げた。
杯が鳴り、湯気の向こうで笑い声が弾む。
酒が回り始めると、空気が少しだけ軽くなる。
戦いの話をしても、泣きそうになる前に笑いに変えられる。
「主任の結界がなかったら、ぼくの計測器も役に立たなかったです!」
ノエルが真っすぐ言う。
「計測器がなかったら、私は数値を根拠に司令官を黙らせられませんでした」
「黙らせたんですか?」
「ええ。丁寧に、です」
リカルド副団長が大笑いした。
「丁寧に黙らせるって何だよ。主任らしいな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
カイルが咳払いをして、私の方を見た。
「主任。……その。前は、失礼なことを言った」
「どの件ですか?」
「全部だ」
「多すぎません?」
リカルド副団長がまた笑う。
カイルの耳が赤くなる。
「今は、あなたが主任で良かったと思っている」
「……ありがとうございます。では次は、現場の段取りを任せますね」
「任せるんですか!?」
「はい。信用しているので」
カイルが固まった。リゼットが肩を叩く。
「ほらほら、認めたなら働け!」
「今この場でも!?」
笑い声が広がり、私はようやく息を吐けた気がした。
ふと、隣の席の老兵がこちらを向いた。
皺だらけの顔が、ゆっくりとほどける。
「嬢ちゃん。ありがとうな」
「……私一人の力ではありません」
「分かってる。でもよ。あんたの結界が、背中を押してくれた。帰れるって思えた」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
私は、ただ頷くことしかできなかった。
そのとき、セイジュ様が、私の杯に水を足した。
「飲みすぎるな」
「団長、私の監視係ですか」
「違う。保護係だ」
「それ、似ています」
リゼットが机を叩いて笑う。
「はいはい、溺愛ごちそうさま! 主任、顔赤いよ!」
「赤くありません! この暖炉のせいです!」
「暖炉は言い訳に便利だな」
セイジュ様が淡々と言うので、私は思わず睨んだ。
睨んだのに、彼は私の髪の乱れを指先で直そうとしてくる。
反則だ。
結局、その夜は皆で笑って、食べて、明日の出立の段取りを決めた。
勝った後の時間は、短い。
だからこそ、しっかり味わうべきなのだと思う。
◇
店を出ると、空気がすっと冷たくなった。
星が近い。
国境の夜は、静かだ。
城壁の上を歩きながら、私は無意識に北の闇を見た。
山脈の向こう、アストリア側。
そこに、私がかつて守っていた国がある。
「寒い」
セイジュ様が、私の肩に外套をかける。
私のローブの上に、彼の匂いが重なる。
「ありがとうございます。……団長」
「なんだ」
言葉を選ぶ時間が、急に怖くなった。
戦いが終わって、静けさが戻って。
だからこそ、心の奥のものが浮かんでくる。
「あの国を、完全に見捨てることは……まだ、できそうにありません」
口にした瞬間、自分でも驚くほど声が小さかった。
セイジュ様は足を止め、私の横顔を見る。
銀の瞳が、夜の星明かりを映していた。
「当然だ」
「……怒らないんですか?」
「なぜ怒る。おまえは冷たい人間じゃない」
「冷たい方が、楽な時もあります」
私は笑おうとして、うまくできなかった。
リンクの儀式で、あの国の結界に一瞬触れた。
あの感触が、まだ指の奥に残っている。
古い鎖のように、重くて、痛い。
「私は、逃げるために弱くした場所を知っています」
言ってしまった。
言葉にしてしまうと、罪みたいだ。
「だから?」
「だから……いつか、誰かが困るかもしれないって」
セイジュ様は、私の手を取った。
指先まで冷えていた私の手が、彼の熱で包まれる。
「おまえが選んだ国境は、もうここだ」
低い声が、夜の空気に溶ける。
「……はい」
「それでも、向こうが崩れるなら、こちらも無傷ではいられない」
「……分かっています」
「なら、背負う量を減らせ。おまえの分は、俺が持つ」
言い切られて、喉の奥が熱くなった。
私は頷き、握られた手を握り返す。
その瞬間だった。
北の空に、ごく細い光が走った。
雷ではない。
ひび、だ。
次の瞬間、光は消える。
けれど耳の奥で、きし、と小さな音がした気がした。
魔力の鎖が擦れるような、嫌な音。
「今の……」
私が呟くより先に、セイジュ様が空を睨んでいた。
「報告する。観測網を増やす」
「団長、あれは……」
「気のせいで済ませるつもりはない」
その言葉が、妙に心強かった。
私は震える息を吐き、夜空をもう一度見上げる。
静けさは、嵐の終わりではなく。
次の嵐の、前触れなのかもしれない。
――数年後、再びこの空に災厄が押し寄せることを、まだ誰も知らない。
ここまでお読みいただきありがとうございました!第2部の終わりが見えたと思ったら、北の空に“ひび。次話は原因調査と、セイジュの「守る」がもう一段深くなります。続きが気になったら、ブクマ&評価、感想ひと言で背中を押していただけると励みになります。




