第54話 国境に刻まれた名前
結界の外側が、ようやく静かになった。
耳を刺していた魔物の鳴き声も、警鐘の余韻も、風の中へ溶けていく。
だけど私の頭の中だけは、まだ騒がしい。
結界の数値、地脈の流れ、残った歪みの位置。ノエルの計測器が示した赤い点が、目の裏に焼きついて離れない。
「主任、南門の緩衝層が少し薄い。どうする」
カイルが息を切らしながら、結界柱のそばで叫ぶ。
「南門は維持で。北門へ魔力を回します。外壁側の第1リングを優先、緩衝層は最低ラインで」
「了解。……って、最低ラインってどの程度だ」
「崩れない程度です。崩れたら、次の指示が出せませんので」
「そういう言い方をするな。怖い」
自分でも、少し笑いそうになった。
怖いのは、私も同じなのに。
ぐらり、と視界が揺れた。
足元の石畳が動いたわけじゃない。私の身体のほうが、限界に近いだけだ。
「アリア」
背後から、短い声。
振り向くと、黒いローブの端が風に揺れていた。
セイジュはいつもの無表情のまま、私の額に手を当てる。冷たい指先が、逆に心地よかった。
「熱が出ている」
「出してません。汗です」
「区別がつかない。無理をするな」
「無理をしないと、結界が落ちます」
言い返した瞬間、セイジュの目が細くなった。
怒っている、というより、嫌な予感を押し殺している顔だ。
「落とさない。落とさせない。おまえが倒れる前に、俺が先に倒れる」
「それは困ります。団長が倒れたら、現場が混乱します」
「……混乱するのは、おまえが倒れたときも同じだ」
その言葉が、胸に刺さった。
私は反射的に、視線を逸らす。昔の癖が出る。自分の限界より、目の前の役目を優先する癖。
でも、ここはガルディアだ。
私はただの魔力タンクじゃない。私自身の判断が、守るべきものだと認められている。
「……分かりました。最後の微調整が終わったら、いったん下がります」
「最初からそう言え」
彼の声は冷たいのに、言葉の根っこが甘い。
それが分かるだけで、胸が少し軽くなる。
私は指先を空へ向け、結界の層をなぞるように意識を走らせた。
第1リングの外壁結界。第2リングの市街結界。第3リングの避難所結界。
グラナの街は、戦う前提で作られている。だからこそ、守り方も分かりやすい。外側が削られても、内側ほど堅くなる。人が逃げ込むほど、生き残る確率が上がる。理屈が、生活と一致している。
「主任、北門の外縁、防衛線に残ってた小群れが消えました!」
ノエルが叫ぶ。声が裏返っているのに、本人は気づいていない。
「消えた、というより……崩れました。残留瘴気が散っただけです。計測器の値、まだ見てください」
「はい! えっと……うわ、歪みが残ってる!」
「残ってます。残っているけど、侵入していない。今のうちに、歪みを噛み砕いて平らにします」
私は息を吸って、魔力を流した。
水路のように走る魔力流路を、指で撫でるように整える。余裕のある区画から、余裕のない区画へ。緩衝層を少し薄くして、最外殻を厚くする。状況に合わせて、結界の筋肉を付け替える。
最後の歪みが、ぱちん、と弾けるように消えた。
そこで初めて、私は自分が呼吸を止めていたことに気づく。
息を吐いた途端、膝が笑った。
「主任っ」
リゼットが駆け寄ってきて、私の肩を掴む。
手が温かい。姉御みたいな手。
「座れ。今すぐ。あんた、顔が白い」
「白いのは、もともとです」
「そういう返し、余裕があるやつの返しなんだよ」
言いながら、リゼットは治癒の魔力を私の肩口に流してくる。
痛みや疲労が、薄い膜を剥がされるみたいに和らぐ。ありがたい。
その間に、前線の空気が変わっていった。
討伐隊の誰かが、遠くで短い歓声を上げる。
それが波のように伝染して、城壁の上から拍手が起きた。
壊滅。
その言葉が、遅れて実感として落ちてくる。
私が見上げた空は、夕方の色を取り戻していた。
瘴気の紫が薄れ、雲の輪郭がちゃんと見える。
「終わった……?」
自分の声が、知らない人みたいに聞こえた。
「第2波は終わった。……まだ、何が出るか分からないが」
セイジュが淡々と言う。冷静すぎて、逆に安心する。
「はい。黒い霧の件も、気になります」
「逃げた。斬っても焼いても、完全には消えない」
「結界の外側へ逃げようとしていました。……嫌な挙動です」
私が言うと、セイジュはほんの少しだけ目を伏せた。
たぶん、同じ結論に辿り着いている。
あれは、ただの魔物じゃない。
どこかで、何かが腐っている。
でも今は、今。
目の前の街が生き残ったことのほうが先だ。
「おねえちゃん!」
突然、甲高い声が飛んできた。
振り向くと、内壁のほうから小さな子どもが走ってくる。兵士に止められそうになって、すり抜けて、まっすぐ私に突っ込んできた。
「おねえちゃんの結界、すごかった! 光ってた! 怖くなかった!」
勢いそのまま、私の腰に抱きつく。
「ちょっ……あぶ……」
よろける私を、セイジュが無言で支える。片手で私の肩を抱き、片手で子どもを引き剥がそうとする。
「セイジュ、だめです。泣きます」
「泣かせない方法はある」
「ありますけど、今それをやると、あなたが悪者です」
セイジュがほんの少しだけ、心底面倒そうな顔をした。
珍しい。すごく珍しい。
子どもは私を見上げて、目をきらきらさせる。
兵士の子だろうか。頬に煤がついている。たぶん避難区画から出てきたばかりだ。
「名前、なに?」
「……アリアです」
「アリア! アリアおねえちゃん! また来て!」
「また来ます。ここは、私の仕事場ですから」
そう言った瞬間、胸の奥が、すっと温かくなった。
私の仕事場。
この言葉が、こんなに自然に出てくる日が来るなんて。
「おまえ、すげえな」
近くで見守っていたリカルドが、笑って言った。
副団長の笑い方は、いつも現場の空気を軽くする。
「ありがとうございます。でも今のは、街の構造が良かったです。多重城壁と避難区画が、結界と相性がいい」
「つまり、グラナが偉い」
「グラナが偉いです」
言い切ると、周囲がどっと笑った。
笑いが出る。泣くよりずっといい。
戦後の検証会議は、あっという間に始まった。
場所は前線指揮所。地図テーブルの上に、ノエルの計測器が吐き出した数値の紙が積まれている。
「結論から言う。今回の結界構造を、国境都市グラナの公式仕様として採用する」
現地指揮官が言い、王都への通信魔導具が光った。
「正式名称は……どうする」
誰かが聞く。
「グラナ式多重結界でいいだろう」
リカルドが即答した。
私は、反射で口を開きかけて、閉じた。
そう呼ばれるのは、たぶん正しい。街の守り方として、これ以上分かりやすい名前はない。
でも、その一方で。
その構造を設計したのは、私だ。
「主任、いいんですか? それで」
カイルが、珍しく遠慮がちな声で言う。
「いいんです。街が守れれば」
「……いや。そうじゃなくて」
カイルは言い淀む。
たぶん、彼なりの正義がある。貴族出身のエリートらしい、面倒で真面目な正義。
そのとき、通信の向こうで宰相ユリウスの声がした。
声だけで分かる。にやり、と笑っている。
「名称はそれで良い。だが、記録には残す。設計者名を」
「……設計者名?」
私は思わず聞き返した。
「功績が個人に帰属するのは当然だ。ガルディアはそういう国だろう」
その場の空気が、少しだけ固まった。
固まってから、ゆっくり温度が上がっていく。
「石碑を建てる」
現地指揮官が続けた。「結界柱のそばに。街の者が見える場所にだ」
「石碑……」
私はつぶやく。
「今回の戦いの記録と、結界の仕様、そして設計者の名を刻む」
指揮官は、私をまっすぐ見た。
「アリア・レイン。おまえの名を刻む」
頭の中が、真っ白になった。
名を刻む。公に。誰の陰でもなく。
アストリアでは、私は何年も結界を維持していたのに、誰も知らなかった。
知っているのは、王家の一部と、レイン家と、そしてセイジュだけだった。
だから、私は捨てられたときも、誰も困らない顔ができた。
でも、ここでは。
困る。変な意味で困る。胸が、落ち着かない。
「主任?」
ノエルが覗き込んでくる。「どうしました? 泣きます?」
「泣きません」
「顔が赤いです」
「寒いだけです」
「今、暑いですよ」
「……うるさいです」
ノエルが笑い、リゼットが肩を叩き、リカルドが呆れたように息をついた。
カイルは、なぜか少しだけ満足そうに頷いている。
そして、セイジュだけが、私の横で静かに言った。
「当然だ」
「……え?」
「おまえの名は、刻まれるべきだ。遅すぎるくらいだ」
胸の奥が、ぎゅっと締まった。
私は、うまく言葉が出てこない。
「……私、名前が残るの、慣れてません」
「慣れろ」
「乱暴ですね」
「乱暴じゃない。命令だ」
命令。
その言葉が、嫌じゃない。
私は小さく息を吐いて、頷いた。
この国では、功績は功績として扱われる。
私はそれを、受け取っていい。
会議が終わり、外に出ると、夜風が頬を撫でた。
国境の空は澄んでいて、遠くの山脈の稜線が黒く浮かぶ。あの向こう側に、瘴気の谷がある。
「次は、もっと改良します」
私は、考えるより先に口に出していた。
「何を」
セイジュが聞く。
「第1リングの負荷分散。今日は北門に魔力が寄りすぎました。計測器のデータ、あとで全部見直します。あと、黒い霧の挙動も……」
「休んでからにしろ」
「休んだら忘れます」
「忘れない。おまえの頭はそういう作りじゃない」
言い切られて、私は苦笑する。
確かにそうだ。寝ても、夢で結界を組み直している自信がある。
セイジュは私の肩に、自分のローブをかけた。
ふわりと黒い布が落ちて、外気が遮られる。
「寒いだろう」
「……あなたが着ないと寒いのでは」
「俺は平気だ。おまえが寒いほうが問題だ」
それはもう、論理じゃない。
でもセイジュは、論理の顔で言う。
ずるい。
私はローブの端を握りしめて、空を見上げた。
この空の下で、私の名前が石に刻まれる。
そんな未来を、私は今まで想像したことがなかった。
でも、想像していいのかもしれない。
私が守った場所に、私の足跡が残る未来を。
そして、その名前がいつか、あの国に届くことも。
届いたとしても、もう私は戻らない。
戻らないまま、必要なときにだけ、必要な形で関わる。
それが、今の私の選んだ責任だ。
だから、次はもっと。
守るために、強くする。
私は、国境の冷たい夜気を吸い込みながら、ローブの中でそっと笑った。
ここまでお読みくださりありがとうございます。グラナに刻まれる名と、セイジュの不器用な独占欲、いかがでしたか。次話は黒い霧の正体と、アリアの帰る場所がさらに揺さぶられます。続きを追っていただけると嬉しいです。ブクマ&評価で応援して頂けると、とても励みになります!




