第53話 2国結界リンク
警鐘が鳴りやまない。嵐の雨音に混じって、城壁の上から怒号と足音が降ってくる。
指揮所の天幕の中は、魔導灯の白い光と、結界計測器の淡い脈動だけが頼りだった。
「北門、結界強度が7割切った! 主任、ここから先は崩れる!」
ノエルが机の上の水晶盤を叩く。盤面に浮かぶ地図の北側が、赤く点滅していた。
「分かった。第1リングの緩衝層を薄くして、外殻へ回して」
「了解です!」
私の声は自分でも驚くくらい冷静だった。頭の中で、魔力の流れを水路の図にしていく。
外壁の第1城壁。市街を守る第2リング。最後の避難所の第3リング。
全部を守るのは無理。守る優先順位を、秒単位で組み替えるしかない。
「カイル、北門の補助陣、今から私の指示で組み替える。抵抗が出たら押し切って」
「……了解、主任」
返事が短い。けれど迷いはない。
昔の彼なら、ここでひと言多かった。今は、余計なプライドより現場を選ぶ。
天幕の入口が跳ね上がり、リカルドが泥と雨を跳ね散らして入ってきた。
「第2波、まだ終わらねえ。黒い霧のやつが厄介だ。結界の継ぎ目にまとわりついて、削ってくる」
「斬っても焼いても、残るタイプですね」
「笑えねえ冗談だな」
私は水晶盤の点滅を見つめた。赤がじわじわ増えていく。
ガルディア式の前線結界は強い。けれど、強いほど消耗も速い。
それに、あの黒い霧。結界の外殻に触れた部分だけ、妙に冷える。魔力が食われる感覚がある。
「セイジュは?」
「外壁の上だ。あいつが前に出ると現場が落ち着く。逆に、あいつが切れ始めると地獄になる」
リカルドの視線が、私の手元に落ちた。指先が、無意識に震えている。
隠すほどの余裕は、もうない。
「アリア、無理すんなよ」
「無理をしないと、今夜のグラナが残りません」
言い切った瞬間、天幕の奥の影が動いた。
黒いローブ。銀の瞳。雨を背負っているのに、そこだけ空気が乾いて見える。
「……結界が、持たないか」
セイジュが、私の隣に立った。短い言葉のくせに、胸の奥が勝手に温かくなる。
そして次の瞬間、その温かさが、鋭い現実に変わった。
「持たせます。ただし……禁じ手です」
私は地図の端を指でなぞった。国境線。その向こう、アストリア側。
「短い間だけ、アストリアの大結界にリンクします」
天幕の空気が凍った。ノエルが口を開けたまま固まり、カイルが眉を跳ね上げる。
リカルドだけが、低く息を吐いた。
「それ、やると何が起きる?」
「成功すれば、結界の波形が安定します。大結界の魔力の流れを、基準として借りる。今の私たちの結界は、削られて揺れている。揺れたままだと、黒い霧に噛み切られます」
「借りるって……向こうから魔力を引くのか?」
カイルが噛みつくように言う。
当然だ。誰だって、他国の結界に手を伸ばすなんて聞いたら、警戒する。
「引きません。正確には、同調させて、流路を組み替えるだけです。水路を繋いで、ほんの少しだけ水位を揃える。そうすれば、こちらの堤が崩れにくくなる」
「どれくらいの間だ」
「3秒。長くて5秒。それ以上は危ない」
危ない理由はいくつもある。
向こうの結界に余計な負担をかける。
こちらの結界が逆流して、穴を作る。
そして、あの黒い霧が、繋いだ瞬間に向こうへ逃げる。
だけど今夜、ここで人が死ぬのも、同じくらい危ない。
セイジュが、私の横顔を見た。
「……おまえの作った抜け道を使う気か」
「はい。あれがいちばん短くて、細い。太い道は作りません」
彼の声が少し低くなる。
「向こうに、気づかれる」
「気づかれます。たぶん、誰かが。たぶん、王都の地下で」
言った瞬間、喉の奥が苦くなった。
私はあの国を捨てた。捨てさせた。
なのに、結界だけは、今もあの国の空に残っている。私が残した数年分の魔力と、私の設計の癖が。
セイジュは、少しだけ黙った。
「やれ。責任は俺が持つ」
「責任の取り方が怖いんですが」
「おまえが倒れたら、俺が全部壊す」
「それは責任じゃなくてやつ当たりです」
ノエルが、はっとして手を挙げた。
「主任! リンク中、計測器の値が跳ねるはずです! ぼく、補正用の回路を追加します!」
「お願い。リゼット、治癒の準備を。私の魔力が揺れたら、気絶する可能性がある」
「やれやれ、女ってのは無茶がデフォルトなのね。任せなさい」
私は床の上に指を滑らせ、光の線を引いた。
ガルディア式の簡潔な多角形を土台に、アストリア式の多重円を重ねる。
嫌なほど手が覚えている。目を閉じても描けるくらい、何年もそれに縛られてきた。
「リカルド、外の隊列に伝えて。次の3秒、結界がほんの少しだけ厚くなる。その瞬間に、押し返す」
「了解だ。全員、噛み締めろって言っとく」
セイジュが私の背後に立つ。背中に、熱が近い。
彼の魔力は破壊向きで、圧縮が異常に上手い。その圧縮された魔力が、私の周りに薄い檻みたいに張られた。
暴走したら、ここで止める。そう言われている気がした。
「無理はするな」
「無理はします。でも、死ぬ気はありません」
「それでいい」
私は息を吸い、吐いた。
意図を決める。式を選ぶ。流し込む。維持して、終端する。
今夜は、その全部を、3秒でやる。
「リンク、開始」
魔方陣が光った。天幕の中の空気が、急に冷たくなる。
遠い遠い地下の石壁。水晶核。古いレリーフ。そこに流れていた、私の魔力の癖。
懐かしいのに、胸が痛い。
そして、確かに、向こう側からも何かが触れてきた。
驚きと、戸惑いと、ほんの少しの安堵が混ざった反応。
誰かが、私の残した流れを覚えている。
その瞬間、黒い霧がうねった。
結界の外から、匂いだけで分かる。あれは、繋いだ道を嗅ぎつける。
「来る……!」
私は歯を食いしばり、式の上にもう1層を重ねた。
逆流防止。通すのは波形だけ。混ざり物は弾く。
セイジュの手が、私の手首を掴んだ。
「集中しろ」
「してます!」
魔力が跳ねる。頭が白くなる。
でも、光の線が揺れを整えるのが見えた。水位が揃う。堤が落ち着く。
結界盤の赤が、ほんの少しだけ薄くなる。
「今!」
リカルドの叫びが、雨音を割った。
外壁の上で、光の網が太くなる。
私が結界で黒い霧の個体の動きを縫い止める。足場ごと、空間ごと固定する感覚。
そこへ、セイジュの闇と雷が落ちた。広域殲滅魔法。空が割れるみたいな大技。
光と闇が交錯して、世界が、ほんの少しだけ白黒になる。
爆ぜた魔力が雨を蒸発させ、熱い霧が舞い上がった。
黒い霧は、悲鳴みたいな気配を残して散る。
散りながら、結界の外側へ逃げようとする。完全には消えない。逃げ足が速い。
「しつこい……!」
「逃がすな」
「逃がしません」
けれど私の視界が揺れた。リンクの反動が遅れてくる。
私は膝をつきそうになり、セイジュの腕に引き上げられた。
「終端。切る」
声が少し震えた。式を閉じる。繋いだ道が、細い糸みたいにほどける。
最後の最後、遠い遠い場所から、かすかな声みたいなものがした気がした。
今のは何だ、と。懐かしい、と。
それが誰の声か、私は知らない。知るべきでもない。
天幕に戻ると、ノエルが水晶盤を抱えたまま叫んだ。
「主任! 北門、持ち直しました! 結界強度、8割まで戻ってます!」
「よし。第1リングは維持。第2リングに余剰を回して、負傷者の避難路を確保して」
リゼットが私の頬に手を当て、舌打ちする。
「顔色、最悪。倒れる前に座りなさい」
「まだ座れません。次が来ます」
私は自分の胸の奥を確かめた。
リンクの瞬間、あの黒い霧が、どこかへ逃げた。
結界の外側へ。あるいは、もっと遠くへ。
そして、もう1つ。
向こう側が、こちらを見た。ほんの少しでも、確かに。
私は笑うふりをして、息を整えた。
「……今夜のグラナは守れました。でも、これで終わりじゃありませんね」
セイジュが頷く。銀の瞳が、戦場の闇をまっすぐ見ている。
「終わらせる。おまえが望む形で」
「欲張りですね」
「おまえにだけは、欲張る」
その言葉が、嵐の夜の中で、やけに鮮明に胸に残った。
私は頬の熱をごまかすように、水晶盤へ視線を戻す。
地図の北側に、黒い影がまだ蠢いている。
そして遠い遠い西の空に、私にしか分からない、懐かしい魔力の余韻が残っていた。
たぶん、あの国の時計が、今、少しだけ動き出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
二国結界リンクで一息ついた――はずが、向こう側も“こちら”を見ました。
次話から、結界の揺れが王都と隣国の思惑を動かし、アリアとセイジュの距離も一段近づきます。
続きが気になったら、ブクマ&評価で背中を押していただけると励みになります。




