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「連載版」婚約破棄された令嬢ですが、この国の大結界を張っていたのは私なので、隣国の魔導師団長にスカウトされました  作者: 夢見叶
第2部 ガルディア新生活と魔導師団編 第8章 国境防衛戦

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第52話 災厄の再来

 第一波が引いて、指揮所の空気だけが重く残った。

 雨が屋根を叩き、地図テーブルの上の駒が震える。誰も触っていないのに。


「主任、計測値、落ち着きました。……多分」

 ノエルが震える声で言い、すぐ自分の言い方に首をすくめた。


「多分、じゃなくて数字で言って」

「はい。結界負荷、最大から……今は7割。揺れは減ってます。でも、北側の谷、濃度が上がってる」


 谷。あの紫がかった霧が湧く場所。

 グラナの外壁の向こうは、崖と瘴気の谷と、暗い山。そこから魔物が来る。ここはいつも戦の気配がする街だと聞いていたけれど、今はそれを体で理解していた。


 私は机の端に指を置き、魔力の流れを感じ取る。

 多重結界ネットは生きている。膜の層が呼吸して、薄いところへ厚みを回している。第51話でやった、余裕のある区画から足りない区画へ流す制御だ。


 だけど、息継ぎが短い。

 まるで、次が来ると知っているみたいに。


「主任、飲んで」

 リゼットが温い水筒を押しつけてくる。


「ありがとう。……味がしない」

「それ、緊張してる証拠よ。だから飲むの」


 口に含んでも、水はただ冷たいだけだった。

 私は飲み込んでから、地図を見た。軍事区の指揮所、外壁、城門上の魔導砲台、矢狭間。全部が一枚の板の上にある。ここが崩れたら、次は市街だ。


「リカルド副団長、現地の前線は?」

「今は持ちこたえてる。だが……」


 リカルドが言いかけた瞬間、鐘が鳴った。

 ゴーン、という腹の底に響く音。外壁の上の警報。戦時の合図だ。


 指揮所の扉が開き、濡れた兵士が飛び込んでくる。


「第二波だ! 外縁防衛線、接触! 数が……いや、質が違う!」


 私の背骨を、冷たい線が走った。

 ノエルの計測器の針が跳ねる。紙の上の波形が、さっきとは別の角度で尖った。


「出ます。……全員、準備」

 声が自分でも不思議なくらい落ち着いていた。


 セイジュが、私の横に立つ。

 黒いローブの袖から、乾いた熱が伝わる。嵐の中でも、この人の魔力だけは澄んでいて、まっすぐだ。


「顔色が悪い」

「もともとこんな顔です」

「そういう意味ではない」


 短いやり取りに、リゼットが肩をすくめた。


「今のうちにイチャつく? 後で治癒するから、ほどほどね」

「してません」


 カイルが鼻で笑う。


「主任、指揮を。現場の冗談は俺が止めます」

「頼もしい。……言い方が嫌味じゃなければ、もっと頼もしいのに」

「失礼。癖です」


 私たちは走った。

 指揮所から外壁へ続く階段。雨水が溜まり、足元が滑る。城壁の上に出ると、風が顔を殴った。


 遠く、谷の闇が揺れている。

 光る目。甲殻。異様に大きい影が複数。

 それだけでも十分に悪いのに、その中心に、黒い霧が絡みついていた。


 霧が、まるで生き物みたいに、影の輪郭を舐める。

 ただ黒いだけじゃない。濃いところは墨みたいに重く、薄いところは油膜みたいに虹色が混ざる。

 そして、風向きに逆らって動いている。


「……あれ、風で流れてない」

 ノエルが小声で言った。


「意思がある、って言いたい?」

「言いたいです」


 現地指揮官が歯を食いしばる。


「Sランク級か。しかも複数……。聞いてないぞ」

「聞いてないのはいつものことです」

 私が言うと、リカルドが苦笑した。


「主任、笑えない冗談はやめてくれ」

「冗談のつもりで言ってません」


 私は喉の奥で息が止まった。

 2年前。

 国境任務で、Sランクの魔物が出た夜。結界がきしんで、私の魔力が吸われて、世界が白黒になった。

 そこへ、低い声が落ちた。


 そこまでだ。


 あの瞬間の重さ。

 あの人が現れて、全部を終わらせた、あの圧倒的な光景。


「……同じ、だ」


 呟くと、セイジュが私の視線の先を見て、目を細めた。


「懐かしい顔をするな。今は戦場だ」

「分かってます。……でも、あのときと同じなら」


 私は自分に言い聞かせる。

 あのときの私は、守るための式を持っていたけど、守るための権限は持っていなかった。

 今は違う。ここでは、私は主任で、指揮を取っていい。


 私は指を鳴らす。

 結界の層を増やすのではない。形を変える。

 網ではなく、檻。逃げ道を塞ぎ、動きを止めるための結界。


「ノエル、北側の負荷を2割だけ南へ逃がして。代わりに外壁上の防御板に魔力を回す」

「え、でも、街の住宅区が……」

「大丈夫。内壁の避難結界がある。そこは厚い。まず外で止める」


 ノエルが頷き、計測器のつまみを回す。

 カイルが城門上の魔導砲台へ指示を飛ばす。矢狭間から弓兵が整列して、震える息が白くなる。


 私は魔力を引いた。

 地脈と、結界柱と、私の設計図が一本の線になって繋がる。


 次の瞬間、外壁の前に、淡い光の檻が立ち上がった。

 多重結界ネットを、縦方向に折り畳んで、輪にする。輪を重ねて、空間ごと縛る。


「止まれ」


 命令のような言葉が口から出た。

 Sランク級の個体が、檻にぶつかって跳ね返る。甲殻が軋み、爪が光の膜を削る。

 普通なら、ここで結界は破られる。


 でも私は、もう2年前の私じゃない。


 層の間に、緩衝層を挟む。

 衝撃を受け流して、次の層へ渡す前に丸める。生活を守る結界に必要な、あの柔らかい膜。今は戦場でも同じだ。


 魔物の爪が走っても、膜は裂けない。削れた分だけ、すぐ後ろの層が薄く補う。


「セイジュ、今!」

「ああ」


 彼が前へ出た。

 雨の中で、銀の瞳が冷たく光る。


「広域はまずい! 味方が!」

 誰かが叫ぶ。兵士の声。もっともな恐怖。


 だからこそ、私は結界を変える。


「大丈夫。私が、道を作ります」


 結界の檻を、ただの壁から、筒に変える。

 入口は魔物の群れ側。出口は、谷の空。

 中は真空みたいに静かで、音が吸い込まれる。


「撃つなら、そこだけ。全部、そこへ流す」


 セイジュの指先に、黒い光が集まった。

 闇ではない。濃い夜を、凝縮したみたいな色。

 それが、私の結界の筒の中へ滑り込む。


 次の瞬間。

 光と闇が交錯して、空が割れたように鳴った。


 檻の中のSランク級が、影の粒になって崩れる。

 続いて、周囲の中型魔物も、筒の入口へ吸い寄せられるように足を取られ、まとめて消えた。

 熱風が一度だけ押し寄せたが、結界が吸収し、城壁の上の私たちは無事だった。


 外壁の上で、誰かが息を呑む音がした。

 次に、歓声が上がりかける。だが、リカルドがすぐに怒鳴る。


「まだ終わってない! 目を離すな!」


 私は頷く。終わってない。終わらせていない。


 私の隣で、リゼットが息を吐く。


「ほらね。主任がいると、災厄も安全仕様になる」

「褒めてるのか、からかってるのか」

「両方」


 カイルが、珍しく素直に言った。


「……今の連携、軍の教本に載せたい」

「載せるなら、最初に安全注意を大きく書いてください。真似されると困ります」


 冗談を挟んだのは、手が震えそうだったからだ。


 勝った。

 第二波の主戦力は、確かに落とした。

 でも。


 黒い霧が、残っていた。


 霧は、焼けたはずの空間の端で、糸みたいに揺れている。

 セイジュの魔法が触れた部分だけ、薄くなるのに、消えない。

 むしろ、結界の縁に沿って、するりと逃げようとする。


「……来るな」


 私は結界の層を細かく刻み、霧を閉じ込めにかかる。

 けれど霧は、膜の隙間を探るように形を変えた。粒子になり、煙になり、影になって、外へ向かう。


 結界に触れた場所が、ほんの少しだけ濁る。

 透明だったはずの光に、黒いすすが混ざるみたいに。

 濁りは薄いのに、いやな感触だけが濃い。手袋の上からでも、粘つく。


「侵食じゃない……付着」

 私は言った。

「式が削られるんじゃなくて、汚される。だから焼いても落ちない」


 ノエルが叫ぶ。


「主任! 結界の波形が、アストリア式の……えっと、古い型に似てます!」

「似てるんじゃない。混ざってる」


 セイジュが低く呼んだ。止めろ、という意味だと分かる。

 でも、ここで逃がしたら。


「逃がしたくない」

「分かる。……だが、おまえが削れるのは嫌だ」


 その言い方が、あまりに直球で。

 私は一瞬だけ、息を忘れた。


「今は、それどころじゃ……」

「今だから言う」


 セイジュの手が、私の肩を掴んだ。

 熱い。防寒ローブ越しでも分かる。戦場の熱ではなく、この人の意志の熱。


 霧が、さらに外へ伸びた。

 谷へ。山の奥へ。国境線の向こうへ。


 私は噛みしめる。


「……仮説を立てます」

「戦場で?」

「戦場ほど、データが濃い」


 ノエルが、眼鏡を拭く暇もなく頷いた。


「霧の性質、結界に対して……汚染に近いです。波形が、ほら」

「見えてます。ありがとう」


 私は目を閉じ、霧の魔力の匂いを嗅いだ。

 嫌な懐かしさがある。古い石の地下、冷たい壁、王都の圧迫感。

 あの国の、大結界の底に沈むような感覚。


「これ、瘴気……でも普通の瘴気じゃない」

 私は言葉を選ぶ。

「大結界が劣化するときに出る、余計な滓。そんな感じがする」


 セイジュの眉が動いた。


「アストリアの?」

「可能性は高い。……私が手を離すために流れを変えた。その歪みが、ここまで……?」


 胸が、ちくりと痛む。

 逃げるために必要だった。そう思ってきた。

 それでも、現実が目の前に来ると、痛いものは痛い。


 霧は、最後にひとつだけ震えて、結界の外へ溶けた。

 まるで、笑ったみたいに。


 残ったのは、結界の縁の黒い濁りと、私の手の冷たさだけ。

 この濁りは、放っておけば広がる。次の波で、ここが弱点になる。


「……主任、どうします?」

 現地指揮官が問う。


「結界の縁を切り替えます。汚れた層を捨てて、新しい層で上書きする。今夜、眠れなくなりますけど」

「眠らなくていい、とは言いませんよ」

 リゼットが即座に釘を刺す。

「倒れたら治癒するの、面倒だからね」


 セイジュが短く言った。


「俺が見張る。おまえは倒れるな」

「命令形ですか」

「お願いだ」


 その一言が、雨より胸に落ちた。


 誰かが遠くで言った。第三波が来る、と。


 私は、空を見上げる。

 雨雲の向こうで、国境の闇が、もっと深くなった気がした。


「来ますね」

 私が言うと、セイジュが短く頷いた。


「なら、次は逃がさない」

「はい。逃がしません」


 私の声は、震えていなかった。

 2年前の私が聞いたら、信じないだろう。


 でも、私は今、ここにいる。

 守るべき街があって、隣に立つ人がいて、背中を預けられる仲間がいる。


 だから。

 災厄が再来するなら、今度は私が迎え撃つ。

ここまでお読みいただきありがとうございます!第二波を退けたはずなのに、残った黒い滓。結界は上書き、そして第三波へ——。セイジュの「お願い」に胸を掴まれた方、続きが気になったらブクマ&評価で応援して頂けると励みになります。次話、霧の正体へ。


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