第52話 災厄の再来
第一波が引いて、指揮所の空気だけが重く残った。
雨が屋根を叩き、地図テーブルの上の駒が震える。誰も触っていないのに。
「主任、計測値、落ち着きました。……多分」
ノエルが震える声で言い、すぐ自分の言い方に首をすくめた。
「多分、じゃなくて数字で言って」
「はい。結界負荷、最大から……今は7割。揺れは減ってます。でも、北側の谷、濃度が上がってる」
谷。あの紫がかった霧が湧く場所。
グラナの外壁の向こうは、崖と瘴気の谷と、暗い山。そこから魔物が来る。ここはいつも戦の気配がする街だと聞いていたけれど、今はそれを体で理解していた。
私は机の端に指を置き、魔力の流れを感じ取る。
多重結界ネットは生きている。膜の層が呼吸して、薄いところへ厚みを回している。第51話でやった、余裕のある区画から足りない区画へ流す制御だ。
だけど、息継ぎが短い。
まるで、次が来ると知っているみたいに。
「主任、飲んで」
リゼットが温い水筒を押しつけてくる。
「ありがとう。……味がしない」
「それ、緊張してる証拠よ。だから飲むの」
口に含んでも、水はただ冷たいだけだった。
私は飲み込んでから、地図を見た。軍事区の指揮所、外壁、城門上の魔導砲台、矢狭間。全部が一枚の板の上にある。ここが崩れたら、次は市街だ。
「リカルド副団長、現地の前線は?」
「今は持ちこたえてる。だが……」
リカルドが言いかけた瞬間、鐘が鳴った。
ゴーン、という腹の底に響く音。外壁の上の警報。戦時の合図だ。
指揮所の扉が開き、濡れた兵士が飛び込んでくる。
「第二波だ! 外縁防衛線、接触! 数が……いや、質が違う!」
私の背骨を、冷たい線が走った。
ノエルの計測器の針が跳ねる。紙の上の波形が、さっきとは別の角度で尖った。
「出ます。……全員、準備」
声が自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
セイジュが、私の横に立つ。
黒いローブの袖から、乾いた熱が伝わる。嵐の中でも、この人の魔力だけは澄んでいて、まっすぐだ。
「顔色が悪い」
「もともとこんな顔です」
「そういう意味ではない」
短いやり取りに、リゼットが肩をすくめた。
「今のうちにイチャつく? 後で治癒するから、ほどほどね」
「してません」
カイルが鼻で笑う。
「主任、指揮を。現場の冗談は俺が止めます」
「頼もしい。……言い方が嫌味じゃなければ、もっと頼もしいのに」
「失礼。癖です」
私たちは走った。
指揮所から外壁へ続く階段。雨水が溜まり、足元が滑る。城壁の上に出ると、風が顔を殴った。
遠く、谷の闇が揺れている。
光る目。甲殻。異様に大きい影が複数。
それだけでも十分に悪いのに、その中心に、黒い霧が絡みついていた。
霧が、まるで生き物みたいに、影の輪郭を舐める。
ただ黒いだけじゃない。濃いところは墨みたいに重く、薄いところは油膜みたいに虹色が混ざる。
そして、風向きに逆らって動いている。
「……あれ、風で流れてない」
ノエルが小声で言った。
「意思がある、って言いたい?」
「言いたいです」
現地指揮官が歯を食いしばる。
「Sランク級か。しかも複数……。聞いてないぞ」
「聞いてないのはいつものことです」
私が言うと、リカルドが苦笑した。
「主任、笑えない冗談はやめてくれ」
「冗談のつもりで言ってません」
私は喉の奥で息が止まった。
2年前。
国境任務で、Sランクの魔物が出た夜。結界がきしんで、私の魔力が吸われて、世界が白黒になった。
そこへ、低い声が落ちた。
そこまでだ。
あの瞬間の重さ。
あの人が現れて、全部を終わらせた、あの圧倒的な光景。
「……同じ、だ」
呟くと、セイジュが私の視線の先を見て、目を細めた。
「懐かしい顔をするな。今は戦場だ」
「分かってます。……でも、あのときと同じなら」
私は自分に言い聞かせる。
あのときの私は、守るための式を持っていたけど、守るための権限は持っていなかった。
今は違う。ここでは、私は主任で、指揮を取っていい。
私は指を鳴らす。
結界の層を増やすのではない。形を変える。
網ではなく、檻。逃げ道を塞ぎ、動きを止めるための結界。
「ノエル、北側の負荷を2割だけ南へ逃がして。代わりに外壁上の防御板に魔力を回す」
「え、でも、街の住宅区が……」
「大丈夫。内壁の避難結界がある。そこは厚い。まず外で止める」
ノエルが頷き、計測器のつまみを回す。
カイルが城門上の魔導砲台へ指示を飛ばす。矢狭間から弓兵が整列して、震える息が白くなる。
私は魔力を引いた。
地脈と、結界柱と、私の設計図が一本の線になって繋がる。
次の瞬間、外壁の前に、淡い光の檻が立ち上がった。
多重結界ネットを、縦方向に折り畳んで、輪にする。輪を重ねて、空間ごと縛る。
「止まれ」
命令のような言葉が口から出た。
Sランク級の個体が、檻にぶつかって跳ね返る。甲殻が軋み、爪が光の膜を削る。
普通なら、ここで結界は破られる。
でも私は、もう2年前の私じゃない。
層の間に、緩衝層を挟む。
衝撃を受け流して、次の層へ渡す前に丸める。生活を守る結界に必要な、あの柔らかい膜。今は戦場でも同じだ。
魔物の爪が走っても、膜は裂けない。削れた分だけ、すぐ後ろの層が薄く補う。
「セイジュ、今!」
「ああ」
彼が前へ出た。
雨の中で、銀の瞳が冷たく光る。
「広域はまずい! 味方が!」
誰かが叫ぶ。兵士の声。もっともな恐怖。
だからこそ、私は結界を変える。
「大丈夫。私が、道を作ります」
結界の檻を、ただの壁から、筒に変える。
入口は魔物の群れ側。出口は、谷の空。
中は真空みたいに静かで、音が吸い込まれる。
「撃つなら、そこだけ。全部、そこへ流す」
セイジュの指先に、黒い光が集まった。
闇ではない。濃い夜を、凝縮したみたいな色。
それが、私の結界の筒の中へ滑り込む。
次の瞬間。
光と闇が交錯して、空が割れたように鳴った。
檻の中のSランク級が、影の粒になって崩れる。
続いて、周囲の中型魔物も、筒の入口へ吸い寄せられるように足を取られ、まとめて消えた。
熱風が一度だけ押し寄せたが、結界が吸収し、城壁の上の私たちは無事だった。
外壁の上で、誰かが息を呑む音がした。
次に、歓声が上がりかける。だが、リカルドがすぐに怒鳴る。
「まだ終わってない! 目を離すな!」
私は頷く。終わってない。終わらせていない。
私の隣で、リゼットが息を吐く。
「ほらね。主任がいると、災厄も安全仕様になる」
「褒めてるのか、からかってるのか」
「両方」
カイルが、珍しく素直に言った。
「……今の連携、軍の教本に載せたい」
「載せるなら、最初に安全注意を大きく書いてください。真似されると困ります」
冗談を挟んだのは、手が震えそうだったからだ。
勝った。
第二波の主戦力は、確かに落とした。
でも。
黒い霧が、残っていた。
霧は、焼けたはずの空間の端で、糸みたいに揺れている。
セイジュの魔法が触れた部分だけ、薄くなるのに、消えない。
むしろ、結界の縁に沿って、するりと逃げようとする。
「……来るな」
私は結界の層を細かく刻み、霧を閉じ込めにかかる。
けれど霧は、膜の隙間を探るように形を変えた。粒子になり、煙になり、影になって、外へ向かう。
結界に触れた場所が、ほんの少しだけ濁る。
透明だったはずの光に、黒いすすが混ざるみたいに。
濁りは薄いのに、いやな感触だけが濃い。手袋の上からでも、粘つく。
「侵食じゃない……付着」
私は言った。
「式が削られるんじゃなくて、汚される。だから焼いても落ちない」
ノエルが叫ぶ。
「主任! 結界の波形が、アストリア式の……えっと、古い型に似てます!」
「似てるんじゃない。混ざってる」
セイジュが低く呼んだ。止めろ、という意味だと分かる。
でも、ここで逃がしたら。
「逃がしたくない」
「分かる。……だが、おまえが削れるのは嫌だ」
その言い方が、あまりに直球で。
私は一瞬だけ、息を忘れた。
「今は、それどころじゃ……」
「今だから言う」
セイジュの手が、私の肩を掴んだ。
熱い。防寒ローブ越しでも分かる。戦場の熱ではなく、この人の意志の熱。
霧が、さらに外へ伸びた。
谷へ。山の奥へ。国境線の向こうへ。
私は噛みしめる。
「……仮説を立てます」
「戦場で?」
「戦場ほど、データが濃い」
ノエルが、眼鏡を拭く暇もなく頷いた。
「霧の性質、結界に対して……汚染に近いです。波形が、ほら」
「見えてます。ありがとう」
私は目を閉じ、霧の魔力の匂いを嗅いだ。
嫌な懐かしさがある。古い石の地下、冷たい壁、王都の圧迫感。
あの国の、大結界の底に沈むような感覚。
「これ、瘴気……でも普通の瘴気じゃない」
私は言葉を選ぶ。
「大結界が劣化するときに出る、余計な滓。そんな感じがする」
セイジュの眉が動いた。
「アストリアの?」
「可能性は高い。……私が手を離すために流れを変えた。その歪みが、ここまで……?」
胸が、ちくりと痛む。
逃げるために必要だった。そう思ってきた。
それでも、現実が目の前に来ると、痛いものは痛い。
霧は、最後にひとつだけ震えて、結界の外へ溶けた。
まるで、笑ったみたいに。
残ったのは、結界の縁の黒い濁りと、私の手の冷たさだけ。
この濁りは、放っておけば広がる。次の波で、ここが弱点になる。
「……主任、どうします?」
現地指揮官が問う。
「結界の縁を切り替えます。汚れた層を捨てて、新しい層で上書きする。今夜、眠れなくなりますけど」
「眠らなくていい、とは言いませんよ」
リゼットが即座に釘を刺す。
「倒れたら治癒するの、面倒だからね」
セイジュが短く言った。
「俺が見張る。おまえは倒れるな」
「命令形ですか」
「お願いだ」
その一言が、雨より胸に落ちた。
誰かが遠くで言った。第三波が来る、と。
私は、空を見上げる。
雨雲の向こうで、国境の闇が、もっと深くなった気がした。
「来ますね」
私が言うと、セイジュが短く頷いた。
「なら、次は逃がさない」
「はい。逃がしません」
私の声は、震えていなかった。
2年前の私が聞いたら、信じないだろう。
でも、私は今、ここにいる。
守るべき街があって、隣に立つ人がいて、背中を預けられる仲間がいる。
だから。
災厄が再来するなら、今度は私が迎え撃つ。
ここまでお読みいただきありがとうございます!第二波を退けたはずなのに、残った黒い滓。結界は上書き、そして第三波へ——。セイジュの「お願い」に胸を掴まれた方、続きが気になったらブクマ&評価で応援して頂けると励みになります。次話、霧の正体へ。




