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「完結済」婚約破棄された令嬢ですが、この国の大結界を張っていたのは私なので、隣国の魔導師団長にスカウトされました  作者: 夢見叶
第2部 ガルディア新生活と魔導師団編 第8章 国境防衛戦

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第51話 初陣は嵐の中で

 その子は、外壁の内側で濡れた石畳を踏みしめながら、私のローブの裾をちょん、と引いた。


「お姉ちゃん、ここも直してくれる?」


 指さされたのは、外壁に埋め込まれた古い結界柱の根元。

 そこだけ、淡い光の膜が薄くなっている。


「……うん。今夜は応急で。明日、ちゃんと直す」

「ほんと? じゃあ、お母さんに言ってくる!」


 ぱっと笑って駆けていく小さな背中を見送り、私は息を吐いた。

 国境の街には、戦いの匂いと、暮らしの匂いが同じ距離で混ざっている。


「主任、時間です」


 リゼットが私の肘を軽くつつく。

 彼女はいつも通り強気な顔をしているのに、目の下だけはほんの少し硬い。


「もう来るって顔ですね」

「来るよ。空が、そう言ってる」


 見上げた空は、厚い雲の腹で押しつぶされそうに低い。

 山側から吹く風には、雨の冷たさだけじゃない、紫がかった瘴気のにおいが混じっていた。


 軍事区の指揮所に入ると、すでにノエルが机に水晶板を並べていた。

 カイルは通信の符を耳元に当て、短い言葉で誰かとやり取りしている。


「アリア、確認する。今夜は後方指揮だな」


 セイジュ様が、地図台の前から私を見た。

 灯りの影で銀の瞳だけが妙に冷たく光る。


「はい。私が壁上に出たら、現地の人は安心するかもしれませんが……」

「安心して死ぬな」

「言い方がひどいです」

「事実だ。おまえの指は、戦場よりここに向いている」


 反論しかけて、私は口を閉じた。

 悔しいけれど、正しい。

 結界は、張った瞬間だけ強ければいいものではない。揺れに合わせて、流れを変えて、呼吸するように維持し続けなければならない。


 私が前線で手を振るより、ここで一つでも破綻を遅らせる方が、ずっと多くを守る。


「……分かりました。指揮所でやります」


 セイジュ様が、ほんの少しだけ頷いた。

 その仕草が、戦場に出る騎士の行ってくるに似ていて、胸が変な音を立てた。


「セイジュ様」

「なんだ」

「戻ってくださいね」

「当然だ」


 短い返事。

 なのに、今の私にはそれで十分だった。


     ◇


 夜半。

 雷が、外壁の上で白く裂けた。


 次の瞬間、鐘と警報が同時に鳴り響く。

 ゴーン、という低い音が骨にまで届き、兵たちの足音が地面を揺らした。


『外縁防衛線、接触! 数、推定80!』


 通信符の向こうから、叫び声混じりの報告。

 雨の音で言葉が潰れそうになる。


 私は机の端に置いた制御板に手を置き、魔力を流した。

 グラナの外壁に埋め込んだ新型の術式が、私の魔力に反応して目を覚ます。


 多重結界ネット。

 戦闘層、緩衝層、避難層。

 3枚の膜を、網のように重ねる仕組みだ。


 制御板の上に、淡い立体地図が浮かび上がった。

 外壁のラインが光り、要所の結界柱が点滅する。


「起動。第1層、展開」


 私が呟くと同時に、指揮所の窓の外が一瞬だけ明るくなった。

 外壁の上に、光の網が張り巡らされる。

 雨粒がその網に当たり、火花みたいに弾けた。


「うわ……ほんとに網だ……」

「ノエル、感想はあと」

「は、はいっ!」


 ノエルが慌てて計測器を叩く。

 水晶板に走る数値が、雨のように流れた。


『前線、魔物群れ、壁まで200!』


 報告が早くなる。

 壁上の魔導師たちも詠唱を始めたのだろう、通信越しに低い詠唱の響きが混じる。


「第3柱、北東側。負荷が上がっています」

 ノエルが声を上げた。

「緩衝層が先に削られてる。予備が足りない」


 私は地図上の北東を指でなぞった。

 そこは、昼に見た薄い場所の延長線上だ。


「……分かってる。だから今夜は、流す」


 結界は壁。

 でも、魔力は水に似ている。

 溜める場所と、流す場所を間違えると、一気に溢れる。


「南側の余剰、北東へ。第2層の流路、切り替え」


 指先で、光の線を引き直す。

 すると立体地図の中で、淡い光が川のように移動した。


『了解、主任! 南側支部、供給弁開けます!』


 通信符の向こう、カイルの声が即座に返る。

 その一言で、胸の奥の緊張がひとつほどけた。


 主任。

 最初は距離を置くための呼び方だった。

 今は、同じ方向を見ている証みたいに聞こえる。


『魔物、接触!』


 どん、と低い衝撃が、遠くからでも伝わった。

 壁に何かが体当たりしたのだ。

 雨と雷の音の隙間に、獣の咆哮が混ざる。


「第1層、強度維持。第2層、吸収優先。壁上は……」


 私は通信符を取って、短く言う。


「壁上部隊、無理に押し返さないでください。結界が吸います。削りに徹して」


『了解!』


 返事が重なる。

 ガルディアの兵士の返事は、短くて、強い。


 立体地図の上で、赤い点が外壁にぶつかり、じわじわと押し広がる。

 その圧に合わせて、光の網がたわみ、きしみ、耐える。


 額に汗が滲む。

 寒いはずなのに、指先だけが熱い。


「主任、北西が落ちます!」


 ノエルの声。

 数値が跳ねる。

 緩衝層の波形が、鋭く尖った。


「北西は外縁の砦が壊れてる。地脈が乱れてるのよ」


 リゼットが歯を食いしばって言う。

 彼女も術式の補助をしていて、指が細かく震えていた。


 私は一瞬だけ目を閉じた。

 頭の中で結界の層を立体に組み直す。

 どこを厚くして、どこを薄くするか。


 全部を守るのは無理。

 けれど、崩れ方は選べる。


「北西、第1層を一時的に薄くします。代わりに第2層を厚く。外殻を捨てて、内側を守る」


「外殻を捨てるって……」

 ノエルが息を呑む。

「壁が、剥がれるみたいに見えますよ?」

「見えます。でも、剥がれるのは外側だけ。内側は残る」


 私は指先で術式を反転させた。

 光の網が一瞬だけ緩み、次の瞬間、透明な膜がその内側に滑り込む。

 外側は破れたように見えて、でも、破れたのはあえて薄くした皮一枚だけだ。


『北西、突破された!?』


 前線から慌てた声。

 私はすぐ返した。


「突破じゃありません。予定通りです。内側の膜は生きています。落ち着いて」


『……了解。落ち着くの、難しいですけど!』


 誰かの叫びに、指揮所の空気が一瞬だけ笑いそうになって、すぐ戻った。


 そのとき。


 通信符から、低い声が割り込んだ。


『アリア』


 セイジュ様だ。

 雨と風の向こうなのに、声だけは不思議なくらい近い。


『壁上、北東。第1層のたわみが大きい』

「今、流路を増やしました。あと10呼吸で安定します」

『分かった。……無理はするな』


 短い忠告。

 私は笑いそうになって、笑えなかった。


「無理をしないと、守れない夜です」

『だから、無理の仕方を選べ』


 その一言が、胸に刺さる。

 昔の私なら、全部を自分の魔力で押し切った。

 倒れてでも、張り続けた。

 そして誰も、止めてくれなかった。


 でも今は。

 止める声がある。

 一緒に支える手がある。


「……はい。選びます」


 私は、魔力の流れをさらに細かく分けた。

 余裕のある区画から、足りない区画へ。

 足りない区画は、どこを捨てても人が死なない形に。


 赤い点が、少しずつ引いていく。

 魔物の群れが、結界の反発と、壁上の連携魔術に削られていく。


『第一波、後退!』


 報告が上がったとき、私はやっと息を吐いた。

 喉が、からからだ。

 指先はまだ熱いのに、全身の力が抜けそうになる。


「主任、数字、安定しました!」

 ノエルが泣きそうな顔で笑う。

「……これ、ほんとに、持ちますね」

「持たせたの。私たちで」


 言った瞬間、胸の奥がじんとした。

 私は一人じゃない、という事実が、こんなに強いなんて。


 扉が開く音。

 雨に濡れたローブの裾を引きずって、セイジュ様が指揮所に入ってきた。

 髪から落ちる雫が床に小さな円を作る。


「終わったか」

「第一波は」

「そうか」


 彼は私の額を見て、眉をわずかに寄せた。


「汗だらけだ」

「外よりはマシです」

「外の方が楽だったぞ」

「絶対うそです」


 小さな言い合い。

 それだけで、心臓の鼓動が正常に戻る気がした。


 セイジュ様は濡れた手袋を外し、机の上の水差しを私の前に置いた。

 誰かがさっきまで触っていたのだろう、金具が少し温かい。


「飲め」

「……命令ですか?」

「忠告だ」


 私は素直に口をつけた。冷たい水が喉を通り、やっと自分が息を止めていたことに気づく。

 指先の震えまで戻ってきて、遅れて怖さが追い上げてきた。


「怖いか」

「はい。でも、逃げません」

「知ってる」


 短い肯定。

 その言葉が、背中の支えになる。


 けれど。

 ノエルが、震える声で水晶板を見つめたまま言う。


「……主任。瘴気の濃度、下がってません」

「第一波が引いたのに?」

「はい。むしろ、変なノイズが混じってきて……」


 立体地図の外縁。

 赤い点の後ろに、黒っぽい影が滲むように広がっていく。


 私は、嫌な予感に喉がきゅっと縮んだ。

 嵐の音の裏で、何かが笑っているみたいな、ざらついた魔力。


「……序の口、ですね」


 セイジュ様が、静かに言った。


「次が本命だ。全員、立て。呼吸を整えろ」


 私は制御板にもう一度手を置く。

 光の網は、まだ張り続けている。

 けれど、次に来るものは、ただの群れじゃない。


 そう確信しながら、私は唇を噛んだ。

ここまで読んでくださりありがとうございます。嵐の夜を越えても、瘴気の本命はまだ姿を見せていません。次話では、結界の奥に潜む意図と、セイジュの独占欲(少しだけ)が動きます。続きが気になったら、ブクマ&評価で応援して頂けると励みになります。


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