第51話 初陣は嵐の中で
その子は、外壁の内側で濡れた石畳を踏みしめながら、私のローブの裾をちょん、と引いた。
「お姉ちゃん、ここも直してくれる?」
指さされたのは、外壁に埋め込まれた古い結界柱の根元。
そこだけ、淡い光の膜が薄くなっている。
「……うん。今夜は応急で。明日、ちゃんと直す」
「ほんと? じゃあ、お母さんに言ってくる!」
ぱっと笑って駆けていく小さな背中を見送り、私は息を吐いた。
国境の街には、戦いの匂いと、暮らしの匂いが同じ距離で混ざっている。
「主任、時間です」
リゼットが私の肘を軽くつつく。
彼女はいつも通り強気な顔をしているのに、目の下だけはほんの少し硬い。
「もう来るって顔ですね」
「来るよ。空が、そう言ってる」
見上げた空は、厚い雲の腹で押しつぶされそうに低い。
山側から吹く風には、雨の冷たさだけじゃない、紫がかった瘴気のにおいが混じっていた。
軍事区の指揮所に入ると、すでにノエルが机に水晶板を並べていた。
カイルは通信の符を耳元に当て、短い言葉で誰かとやり取りしている。
「アリア、確認する。今夜は後方指揮だな」
セイジュ様が、地図台の前から私を見た。
灯りの影で銀の瞳だけが妙に冷たく光る。
「はい。私が壁上に出たら、現地の人は安心するかもしれませんが……」
「安心して死ぬな」
「言い方がひどいです」
「事実だ。おまえの指は、戦場よりここに向いている」
反論しかけて、私は口を閉じた。
悔しいけれど、正しい。
結界は、張った瞬間だけ強ければいいものではない。揺れに合わせて、流れを変えて、呼吸するように維持し続けなければならない。
私が前線で手を振るより、ここで一つでも破綻を遅らせる方が、ずっと多くを守る。
「……分かりました。指揮所でやります」
セイジュ様が、ほんの少しだけ頷いた。
その仕草が、戦場に出る騎士の行ってくるに似ていて、胸が変な音を立てた。
「セイジュ様」
「なんだ」
「戻ってくださいね」
「当然だ」
短い返事。
なのに、今の私にはそれで十分だった。
◇
夜半。
雷が、外壁の上で白く裂けた。
次の瞬間、鐘と警報が同時に鳴り響く。
ゴーン、という低い音が骨にまで届き、兵たちの足音が地面を揺らした。
『外縁防衛線、接触! 数、推定80!』
通信符の向こうから、叫び声混じりの報告。
雨の音で言葉が潰れそうになる。
私は机の端に置いた制御板に手を置き、魔力を流した。
グラナの外壁に埋め込んだ新型の術式が、私の魔力に反応して目を覚ます。
多重結界ネット。
戦闘層、緩衝層、避難層。
3枚の膜を、網のように重ねる仕組みだ。
制御板の上に、淡い立体地図が浮かび上がった。
外壁のラインが光り、要所の結界柱が点滅する。
「起動。第1層、展開」
私が呟くと同時に、指揮所の窓の外が一瞬だけ明るくなった。
外壁の上に、光の網が張り巡らされる。
雨粒がその網に当たり、火花みたいに弾けた。
「うわ……ほんとに網だ……」
「ノエル、感想はあと」
「は、はいっ!」
ノエルが慌てて計測器を叩く。
水晶板に走る数値が、雨のように流れた。
『前線、魔物群れ、壁まで200!』
報告が早くなる。
壁上の魔導師たちも詠唱を始めたのだろう、通信越しに低い詠唱の響きが混じる。
「第3柱、北東側。負荷が上がっています」
ノエルが声を上げた。
「緩衝層が先に削られてる。予備が足りない」
私は地図上の北東を指でなぞった。
そこは、昼に見た薄い場所の延長線上だ。
「……分かってる。だから今夜は、流す」
結界は壁。
でも、魔力は水に似ている。
溜める場所と、流す場所を間違えると、一気に溢れる。
「南側の余剰、北東へ。第2層の流路、切り替え」
指先で、光の線を引き直す。
すると立体地図の中で、淡い光が川のように移動した。
『了解、主任! 南側支部、供給弁開けます!』
通信符の向こう、カイルの声が即座に返る。
その一言で、胸の奥の緊張がひとつほどけた。
主任。
最初は距離を置くための呼び方だった。
今は、同じ方向を見ている証みたいに聞こえる。
『魔物、接触!』
どん、と低い衝撃が、遠くからでも伝わった。
壁に何かが体当たりしたのだ。
雨と雷の音の隙間に、獣の咆哮が混ざる。
「第1層、強度維持。第2層、吸収優先。壁上は……」
私は通信符を取って、短く言う。
「壁上部隊、無理に押し返さないでください。結界が吸います。削りに徹して」
『了解!』
返事が重なる。
ガルディアの兵士の返事は、短くて、強い。
立体地図の上で、赤い点が外壁にぶつかり、じわじわと押し広がる。
その圧に合わせて、光の網がたわみ、きしみ、耐える。
額に汗が滲む。
寒いはずなのに、指先だけが熱い。
「主任、北西が落ちます!」
ノエルの声。
数値が跳ねる。
緩衝層の波形が、鋭く尖った。
「北西は外縁の砦が壊れてる。地脈が乱れてるのよ」
リゼットが歯を食いしばって言う。
彼女も術式の補助をしていて、指が細かく震えていた。
私は一瞬だけ目を閉じた。
頭の中で結界の層を立体に組み直す。
どこを厚くして、どこを薄くするか。
全部を守るのは無理。
けれど、崩れ方は選べる。
「北西、第1層を一時的に薄くします。代わりに第2層を厚く。外殻を捨てて、内側を守る」
「外殻を捨てるって……」
ノエルが息を呑む。
「壁が、剥がれるみたいに見えますよ?」
「見えます。でも、剥がれるのは外側だけ。内側は残る」
私は指先で術式を反転させた。
光の網が一瞬だけ緩み、次の瞬間、透明な膜がその内側に滑り込む。
外側は破れたように見えて、でも、破れたのはあえて薄くした皮一枚だけだ。
『北西、突破された!?』
前線から慌てた声。
私はすぐ返した。
「突破じゃありません。予定通りです。内側の膜は生きています。落ち着いて」
『……了解。落ち着くの、難しいですけど!』
誰かの叫びに、指揮所の空気が一瞬だけ笑いそうになって、すぐ戻った。
そのとき。
通信符から、低い声が割り込んだ。
『アリア』
セイジュ様だ。
雨と風の向こうなのに、声だけは不思議なくらい近い。
『壁上、北東。第1層のたわみが大きい』
「今、流路を増やしました。あと10呼吸で安定します」
『分かった。……無理はするな』
短い忠告。
私は笑いそうになって、笑えなかった。
「無理をしないと、守れない夜です」
『だから、無理の仕方を選べ』
その一言が、胸に刺さる。
昔の私なら、全部を自分の魔力で押し切った。
倒れてでも、張り続けた。
そして誰も、止めてくれなかった。
でも今は。
止める声がある。
一緒に支える手がある。
「……はい。選びます」
私は、魔力の流れをさらに細かく分けた。
余裕のある区画から、足りない区画へ。
足りない区画は、どこを捨てても人が死なない形に。
赤い点が、少しずつ引いていく。
魔物の群れが、結界の反発と、壁上の連携魔術に削られていく。
『第一波、後退!』
報告が上がったとき、私はやっと息を吐いた。
喉が、からからだ。
指先はまだ熱いのに、全身の力が抜けそうになる。
「主任、数字、安定しました!」
ノエルが泣きそうな顔で笑う。
「……これ、ほんとに、持ちますね」
「持たせたの。私たちで」
言った瞬間、胸の奥がじんとした。
私は一人じゃない、という事実が、こんなに強いなんて。
扉が開く音。
雨に濡れたローブの裾を引きずって、セイジュ様が指揮所に入ってきた。
髪から落ちる雫が床に小さな円を作る。
「終わったか」
「第一波は」
「そうか」
彼は私の額を見て、眉をわずかに寄せた。
「汗だらけだ」
「外よりはマシです」
「外の方が楽だったぞ」
「絶対うそです」
小さな言い合い。
それだけで、心臓の鼓動が正常に戻る気がした。
セイジュ様は濡れた手袋を外し、机の上の水差しを私の前に置いた。
誰かがさっきまで触っていたのだろう、金具が少し温かい。
「飲め」
「……命令ですか?」
「忠告だ」
私は素直に口をつけた。冷たい水が喉を通り、やっと自分が息を止めていたことに気づく。
指先の震えまで戻ってきて、遅れて怖さが追い上げてきた。
「怖いか」
「はい。でも、逃げません」
「知ってる」
短い肯定。
その言葉が、背中の支えになる。
けれど。
ノエルが、震える声で水晶板を見つめたまま言う。
「……主任。瘴気の濃度、下がってません」
「第一波が引いたのに?」
「はい。むしろ、変なノイズが混じってきて……」
立体地図の外縁。
赤い点の後ろに、黒っぽい影が滲むように広がっていく。
私は、嫌な予感に喉がきゅっと縮んだ。
嵐の音の裏で、何かが笑っているみたいな、ざらついた魔力。
「……序の口、ですね」
セイジュ様が、静かに言った。
「次が本命だ。全員、立て。呼吸を整えろ」
私は制御板にもう一度手を置く。
光の網は、まだ張り続けている。
けれど、次に来るものは、ただの群れじゃない。
そう確信しながら、私は唇を噛んだ。
ここまで読んでくださりありがとうございます。嵐の夜を越えても、瘴気の本命はまだ姿を見せていません。次話では、結界の奥に潜む意図と、セイジュの独占欲(少しだけ)が動きます。続きが気になったら、ブクマ&評価で応援して頂けると励みになります。




