第48話 異常兆候、再び
北方国境からの報告書が、机の上で小さな山になっていた。
「……また増えてる」
思わず、ため息がこぼれる。
研究塔の会議室。壁一面の地図の前に立ちながら、私は最新の報告を一枚ずつ、魔力で固定した針に通していく。
「師匠、北方第3警戒線からの便り、これで全部です」
「ありがとう、ノエル。……こっちの観測ログも重ねてくれる?」
「了解です!」
ノエルが水晶板に指を滑らせると、壁の地図の上に薄い光の線が走った。
ガルディア北部から周辺諸国へと伸びる国境線。そのうち、アストリアとの境界に沿って、いくつもの赤い印が点っている。
「魔物の出現頻度、前回の集計よりもさらに上がっていますね。まるで、谷の向こうから何かに追い立てられてるみたいな……」
ノエルが小さく首をかしげる。
報告書の文字が頭の中で重なっていく。
魔物の群れが、瘴気の濃い谷を離れて平野部側へ移動中。
通常の季節変動幅を明らかに超える数。
そして――。
「ここ。アストリア側の小結界、局所崩落」
私は一枚の報告書を持ち上げ、地図の一点に重ねた。
ちょうど、赤い印と同じ場所。
「……一致しちゃいましたね」
ノエルがぽつりと呟く。
「このあたりの地形情報、出せる?」
「はい。ええと……崖沿いの監視小屋と、駐屯地の中間。アストリア側の結界柱が古くて、補修記録が何度か……」
そこまで聞いて、胸の奥がきゅっと痛んだ。
知っている。
その小結界の構造も、基礎式も、弱点も。
なにせ、設計したのは――かつての私なのだから。
「師匠?」
「……ごめん。ちょっと、昔の仕事を思い出してただけ」
笑ってごまかしながら、私は赤い印を指先でなぞる。
魔力を込めると、印がわずかに揺れて、薄い線となって繋がった。
アストリアの北方に、点々と並ぶ小結界。
それぞれが大結界から魔力を分けてもらい、局所的な防御を担う拠点。
私はかつて、そのいくつかを「長く持つように」「でも、自分が抜けても数年は保つように」と構造をいじった。
無理をさせた場所は、必ずどこかに歪みを抱える。
今、崩れているのは――まさに、その歪みの出口だ。
「……自業自得、ってやつですね」
口の中で小さく呟いた言葉は、誰にも聞こえないように飲み込んだ。
「アリア」
「セイジュ様」
扉の方から声がして振り返ると、黒いローブの団長が会議室に入ってきた。
銀の瞳が、地図の上を一度だけなぞる。
「状況は」
「北方国境全域で、魔物の活動が活発化しています。特に、アストリア側の小結界周辺で揺らぎが大きい。ここ数日の崩落報告は、全部――」
私は指先で、いくつかの赤を弾く。
ぽん、と小さな音を立てて、印が強く光る。
「私が、以前いじった地点に集中しています」
短い沈黙。
ノエルが、気まずそうに視線を泳がせた。
「……意図的に弱くした、わけではない。ただ、あの時点で取れる最善を選んだ結果だ」
セイジュ様が静かに言う。
私の胸の奥に刺さっていた棘を、そのまま見抜くような声だった。
「はい。分かっています」
「なら、今の最善を考えろ」
あっさりと言われて、思わず苦笑がこぼれる。
「相変わらず、ひどい振りです」
「おまえがそういう顔をするときは、大抵ろくでもない自己評価をしているからな」
セイジュ様がこちらに歩み寄り、机の端に置かれた報告書の山を一瞥した。
「アストリア側の大結界自体は、どうだ」
「少なくとも、この距離から観測できる範囲では、まだ形を保っています。ただ……魔力の振動が荒い。瘴気の流れも、以前とは違う」
ノエルが水晶板を操作し、新しい波形を投影する。
滑らかだった線が、ところどころでとげのように跳ねている。
「まるで、どこかで塞き止められた水が、別の場所から噴き出しているみたいな」
自分で例えながら、ぞくりと背筋が冷えた。
「ここが決壊したら、押し寄せる瘴気と魔物は、真っ先にガルディア北方に流れ込む。……そういう流路になっています」
あの日。
自分が逃げるために作った「抜け道」を、私は今、別の角度から見下ろしている。
「国境都市グラナの負荷が、一気に跳ね上がるな」
「はい。だからこそ、先にこちら側の結界を固めておく必要があります」
私はペンを取った。
地図のガルディア側に、いくつか丸を描き込む。
「戦闘層の厚みを増やして、緩衝層の流路を組み替える。アストリアからの波を、一度ここで受けて、南側へ逃がす形に」
「南側の負担が増えるぞ」
「海路の結界は、まだ余裕があります。……それに、最悪の場合、海に流れた瘴気は、陸に留まるよりはマシです」
自分でも、けっこう無茶を言っている自覚はある。
それでも、何もしないよりは。
「いいかもしれない」
セイジュ様が、短くそう言って頷いた。
「詳細な式をまとめろ。王と宰相に通す。グラナへの試験配備も含めてだ」
「了解しました」
ペン先が、さらさらと紙の上を走る音が、しばらくの間だけ会議室を満たした。
◇
――同じ頃、アストリア北方。
「……やっぱり、薄くなってるよな、これ」
私は、頭上の空を見上げて思わずつぶやいた。
灰色の空の下、かすかに揺らめく半透明の膜。大結界の外殻層だ。
「おい、何をぼさっとしてる。巡回記録、早くつけろ」
隣で帳面を抱えている同僚が、眉をひそめる。
「分かってるって。ほら、北側斜面、異常なし。瘴気濃度、昨日と同じ」
「『同じ』って書くな。ちゃんと数値で……」
口ではそう言いながら、彼も一瞬だけ空を見上げた。
「……なあ、やっぱり薄くなってるよな」
「だろ?」
私は苦笑する。
大結界の専門家でも何でもないけれど、毎日ここで巡回していれば、肌で分かる。
風の重さ。瘴気のぬめり。魔力のきしむ音。
「この前、担当官に言ってみたんだよ。『結界が前より揺れてませんか』って」
「で?」
『気にしすぎだ。測定器の誤差範囲内だ』ってさ。ついでに、『余計なことを考える暇があったら、持ち場を増やすぞ』って怒られた」
思い出して、思わずため息が出る。
「予算も人手も足りないんだろ。大結界様は今日も元気、ってことにしておかないと」
「それはそうだけどさ……」
言葉を飲み込んだそのときだった。
耳鳴りのような、高い音。
頭上の膜が、きしりと鳴った気がした。
「今の、聞こえたか?」
「ああ」
私たちは同時に顔を見合わせる。
胸の奥が、いやな感じにざわついた。
「一応、記録に残しておくか」
「『一瞬だけ高音の振動音あり』、っと……どうせまた、『気にしすぎ』で片付けられるだろうけどな」
それでも、書かないよりはましだ。
ペン先を走らせながら、私はもう一度だけ空を見上げる。
薄い膜の向こうで、何かがゆっくりとひび割れていくような、そんな気配がした。
◇
「……ここまで、か」
最後の報告書に目を通し終え、私はそっとそれを閉じた。
窓の外には、ガルディア王都の空。アストリアとは違う、少し乾いた風。
「師匠、その顔、完全に『胃が痛いです』って書いてますよ」
ノエルが、温かいお茶を差し出しながら苦笑する。
「ありがとう。……カフェインは控えめ?」
「はい。マリアナさんに怒られますからね。『徹夜はだめです』って」
マリアナの顔を思い出して、少しだけ口元がゆるんだ。
「あれは逃げるために必要な処置だった、って、頭では分かってるんです」
カップを両手で包みながら、私はぽつりと口を開く。
ノエルが目を丸くしたが、黙って聞いていてくれた。
「大結界から手を離すために、どうしても負荷の流れを変えなきゃいけなかった。どこかに歪みが出るのは分かっていて、それでも、あの時の私には、それしか選べなかった」
王太子妃候補として、国の盾として。
あのままそこに縫い付けられていたら、きっと私は、ここにはいなかった。
「でも、その歪みが、今こうして目の前の数字になって現れていると……少し、胃が痛くなりますね」
笑い混じりに言うと、ノエルが困ったように眉を下げた。
「師匠」
「うん?」
「師匠がいじらなかったとしても、きっとどこか別のところで歪みは出てましたよ。あの国の大結界、元々、無理な運用してたって、師匠が一番よく知ってるじゃないですか」
言い返せない。
私は視線をカップの中に落とした。
「それに、今はもう、こっち側に新しい結界を作ることができる。前は、それすら許されなかった」
ノエルの言葉は、驚くほどまっすぐだった。
「……そうですね」
小さく息を吐く。
そうだ。あの時、私が選んだのは「捨てられること」だけじゃない。
ここで、新しい国境防衛線を作ること。
あの国から瘴気と魔物があふれ出してきても、それを受け止められる場所を用意すること。
「今できる最善は、ここを守ること」
自分に言い聞かせるように、もう一度、言葉を形にする。
「アストリアの人たちも、ガルディアの人たちも、まとめて。……欲張りですけど」
「いいじゃないですか。師匠の結界、元から欲張り設計ですし」
ノエルが笑った。
その言葉に、私もようやく、本物の笑みを返せる。
「アリア」
再び扉が開き、セイジュ様が姿を見せる。
「王と宰相が、国境防衛案の詳細を聞きたがっている」
「もう、目を通されたんですか?」
「『おまえの書く式はいつも難解だ』と言いながらな。だが、通す方向で話は進んでいる」
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
「それと、北方国境への出立準備を始めろと言われた」
「……つまり」
「近いうちに、実地での調整が必要になる」
来たか、と心の中で小さく呟く。
「分かりました。必要な道具と資料をまとめておきます」
「無茶はするな」
いつもの口癖。
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
「無茶をしない程度に、最善を尽くします」
私は立ち上がり、壁の地図を見上げる。
アストリアとガルディアの国境。その先にある、まだ見ぬ国境都市グラナ。
あの線の上で、またひとつ、私の結界が試されることになる。
「……今度は、逃げるためじゃなくて。守るために」
胸の奥で、そっとそう言い直してから。
私は新しい結界式のノートを開いた。
北方国境がざわつき始めて、いよいよ第2部も大結界のツケと向き合う段階に入りました。
逃げるためにいじった結界を、今度は守るために組み替えるアリアと、隣で当然のように背を預けるセイジュたちを、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。
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