第45話 王都に忍び寄る影
その日の研究塔は、いつもより静かだった。
魔導師団の訓練は午前で終わり、午後は各自、書類と机とに向き合う日。塔の中枢階では、魔力の流れを示す光が淡く脈打っている。
私はその一角、結界観測室の椅子に腰掛けていた。
「……また、ですね」
目の前に浮かぶ魔術板に、細い線が一瞬だけ走る。
王都全域に張り巡らされた結界の状態を、時系列で表示するためのグラフ。その下のほう、外殻防御層のさらに外側、監視用の薄い膜に、ちくりと針で刺したような揺らぎが記録されていた。
「はい。さっきから同じ波形が繰り返し出ています」
隣の席で、水晶板を操作していたノエルが、真剣な顔で頷く。
「自然発生の揺らぎなら、もっとばらけるはずなんですけど……これ、間隔も強度も、妙にきれいで」
「人の手が入っている、と?」
「ぼくの計測器にケチをつけるなら、今のうちですよ、主任」
冗談めかした言い方のくせに、目は笑っていない。
ノエルの指先が、水晶板の上を走る。いくつもの波形が重なり、立体的な魔力地図が浮かび上がった。
「この時間帯、王都の外縁部で大きな魔術は使われていません。巡回隊の定期報告とも一致しませんし、気象魔術も確認されていません」
「つまり、誰かが意図して、結界の外側を叩いている」
「しかも、結界の『測定しやすいところ』だけを、です」
ノエルが拡大したのは、何本もの監視線が交差するポイントだった。
まるで、計測器の感度が一番高い場所だけを狙って、ノイズを流し込んでいるように見える。
「……いやですね。計測方針まで把握されているみたいで」
「まだ断定はできませんけど」
私は両手を組んで、顎の下に当てた。
魔力の流れは、私の中ではほとんど感覚に近い。王都の結界網は、毎日見て、毎日触れて、少しずつ調整してきたものだ。その鼓動のリズムが、今日はどこか、かすかにずれている。
「記録、いつから?」
「あっと……ここ数日は散発的に。その前は、もっと弱い揺らぎが、数週間前から」
ノエルが指で線をなぞると、淡い点が幾つも浮かび上がった。
最初は、本当に小さなさざめき。地脈の気まぐれな変動と区別がつかない程度の、それこそ誤差の域だ。
けれど、点は少しずつ間隔を詰め、強度を増していく。
今日になって、ようやく「不審」と言えるレベルまで育った――そういう変化だった。
「……本当に、いやらしいやり方ですね」
ぽつりと漏れた言葉に、ノエルがこくこくと頷く。
「ですよね。最初からこの強さでやってくれてたら、とっくに『何かおかしい』って気づけたのに」
「気づかせないまま、クセを刻んでくる。結界の揺れ方を、少しずつ、ならしていく」
アストリアの大結界で、似たようなことをした記憶がある。
国王の命令で、負担の重い部分を別の系統へ分散させるために、数ヶ月単位でゆっくりと流路を書き換えた。誰の目にも見えない速度で。
あのときと同じ種類の、じわじわとした違和感だ。
「自然現象じゃない。これは誰かが、ここを『触っている』」
「ぼくも、そう思います」
ノエルが、ぎゅっとペンを握りしめた。
「主任。ログ、全部出力していいですか? 波形だけじゃなくて、空間座標の変化も重ねたいんです」
「もちろん。むしろ、お願いしたいくらいです」
「了解です!」
少年らしい声が、観測室に弾んだ。
ここまでは、ただの不審なデータだ。
けれど、私はもう一つ、気になっていることがある。
――この波形。どこかで見たことがある。
◇
夕方。窓の外の光が薄くなり、塔の影が長く伸び始める頃。
私は改めて魔術板の前に立ち、ノエルがまとめてくれたデータを呼び出した。
「主任、こっちが今日の分で、こっちが過去数日の重ね合わせです」
「ありがとう。すごく分かりやすいです」
立体図の中で、薄い膜のような結界が幾重にも重なっている。
その外側に、小さな棘のような線がぽつぽつと生えていた。一本一本は弱いけれど、数が増えると、輪郭の一部がざらついて見える。
「……ここですね」
私は一箇所を指先でなぞった。
波形を引き出すと、滑らかな山がいくつも連なった図が現れる。その山の頂点に、ほんの少しだけ、妙な引っかかりがあった。
「この立ち上がり方。魔力を一度『削ってから乗せる』癖があります」
「削ってから、乗せる?」
「ええ。アストリア式の大規模術式に多い癖です。瘴気を削り落としてから魔力の膜を貼るとき、こういう波形が出るんです」
私は、自分の胸の奥が冷たくなるのを感じた。
アストリアで、大結界の調整をしていた頃。膨大なログを眺めながら、ひたすら波形を分類していた日々。王宮魔導師たち、それぞれの魔力の癖を、寝不足の頭で覚え込んでいった。
あの頃に見た形に、似ている。
「主任、顔が怖いです」
「……ごめんなさい。少し、昔を思い出しました」
深呼吸して、私は波形の別の部分を示した。
「ただ、まったく同じではありません。ガルディア式の圧縮の仕方と混ざっている。誰かが、二つの系統を意図的に『重ねて』使っている感じです」
「ということは、アストリア出身者がガルディア式を真似したか、あるいは……」
「ガルディア側の誰かが、アストリア式の資料を手に入れて応用したか、ですね」
ノエルが、むう、と眉を寄せた。
「前者なら、アストリアからのスパイっぽいですし……後者なら、やっぱり内部の人間ってことになりますね」
「どちらにしても、あまり歓迎できる状況ではありません」
私は、首筋のあたりを無意識にさすった。
スパイ疑惑が上がった会議室の空気を、思い出す。壁に突き刺さるような視線。あの中には、ただの疑念ではなく、こういうきっかけを待っていた人たちもいたのだろう。
「ノエル。このログ、演習のときのデータと照らし合わせられますか?」
「この前の模擬襲撃演習のやつですね!」
「そうです。あのとき見つけた濁りと、このノイズ。もし同じ系統なら――」
「線が、繋がりますね」
ノエルの目に、好奇心と緊張が同時に灯る。
「できます。ちょっと時間はかかりますけど、全部やります。こういうの、大好きですから」
「頼もしいです」
思わず笑ってしまう。
こういうときのノエルは、本当に研究者の顔になる。危険な問題でさえ、解き甲斐のある難問として楽しんでしまうところがあるのだ。
「じゃあ、ぼくはログ地獄に潜ってきますね!」
「ほどほどにしてくださいね。徹夜は禁止です」
「……善処します」
まったく信用できない返事を残して、ノエルは資料の山と共に隣室へ消えていった。
観測室に一人残されると、静けさが急に重たく感じられる。
王都の上に広がる結界網は、今日も淡く光っている。
その外側から、誰かが細い爪を立てている。そんなイメージが離れない。
「アストリア、か……」
かつて、自分が守っていた国。
そこから伸びてくるかもしれない影を、今度は別の国の立場で警戒しなければならない。
皮肉というには、少し苦すぎる関係だ。
「……セイジュ様にも、報告しないと」
そう呟いたところで、観測室の扉が控えめに叩かれた。
◇
場所が変われば、空気も変わる。
低い天井。木の梁。外では風の音。
そこは、ガルディアからは数百リーグ離れた、どこかの山中だった。
粗末な机の上に、魔術用の円盤が一枚置かれている。
中央には細い水晶。その下に、細かく刻まれた術式が光を帯びていた。
その周囲を、手袋に覆われた指先が、迷いなくなぞっていく。
「……悪くない。ガルディアの結界は、想像以上に柔軟だ」
低い声が、狭い室内に落ちた。
魔術師の顔はフードに隠れて見えない。ただ、その手つきだけが、熟練のそれだと教えてくれる。
円盤の上に、ガルディア王都の簡略図が浮かび上がる。
その上に、薄い膜のような光の層。さらに外側に、蜘蛛の巣のような線が広がっていた。
「監視線の交点を叩けば、こちらの信号も拾いやすい。計測器の癖まで、あの資料の通りだ」
術式の一部が書き換わり、光の波が外側へと広がっていく。
新たなノイズが、遠く離れた王都の結界へと送り込まれた。
「さて。アストリア式とガルディア式。どこまで混ぜれば、あの女は気づくかな」
水晶の中で、淡い青色の光が瞬く。
魔術師は手を止めない。
ただ、遠いどこかを見るように、わずかに唇の端を吊り上げた。
「おまえが選んだ新しい国の結界だ。遠慮なく、使わせてもらう」
王都の空を包む網に、誰にも見えないほど細いひびが、またひとつ刻まれる。
――そのひびに気づいた女の目が、やがてどこへ向くのか。
その答えを楽しみにしながら、影は、さらに手を伸ばしていった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今回は王都の結界に忍び寄る「何か」が、ついに輪郭を見せ始めた回でした。
アストリアとガルディア、二つの術式が交差するとき、彼らの想いもまた試されていきます。
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