第38話 不穏な国境報告
翌朝の作戦会議室は、いつもより少しだけ空気が重かった。
長机の上に、新しく持ち込まれた地図が広げられている。北方国境線をなぞるように、赤い印がいくつも打たれていた。
魔導師団長として席に着くセイジュ様。その隣に、技術顧問兼主任研究者として私。その向かい側には宰相のユリウス様と、王城からの連絡役である文官たち。
「北方第3防衛線からの報告を、改めて共有する」
リカルド副団長が立ち上がり、手元の報告書を軽く持ち上げた。
紙の擦れる音が、妙に大きく聞こえる。
「魔物の活性化傾向。ここ1か月で小規模な群れの出現頻度が約1.5倍に増加」
「周期的な波とは違う、という判断か?」
ユリウス様が、細い指で眼鏡の位置を直しながら問いかける。
「はい。これまでも増減はありましたが、今回は南側、つまりアストリアとの国境付近での発生が目立ちます。加えて……」
リカルド副団長が、別の紙を持ち上げる。
そこには、見慣れた単語が記されていた。
「アストリア側警備隊より、『結界の光膜にちらつきあり』『以前より薄く感じる』との報告が複数」
会議室の空気が、一瞬だけぴりりと張り詰めた。
「結界の薄れ、ねえ」
ユリウス様が、少しだけ肩をすくめる。
「向こうの大結界も、築いてからかなりの年月が経っている。老朽化した橋が軋むようなものだろう。こちらとしては、魔物の流れが変わる可能性に注意を払っておけば十分だ」
「宰相としては、そう見ますか?」
王家からの連絡役と思しき文官が、おずおずと尋ねる。
ユリウス様はくいっと唇の片端を上げた。
「少なくとも、今ここで『隣国が危ない』と騒ぎ立てる必要はない。彼らには彼らの事情と責任がある。我々は、我々の国境を守るだけだ」
合理的な判断だと思う。
けれど、私は、報告書のその一文から目を離せずにいた。
アストリアの大結界が、薄くなっている。
それは、誰よりも私がよく知っているはずの事実だった。
「アリア」
すぐ隣から、低い声が落ちてくる。
顔を上げると、セイジュ様の銀の瞳が、静かにこちらを見ていた。
「何か気づいたことがあるなら、言え」
「……いえ。現時点では、まだ断言はできません。ただ、魔物の活性化と結界の薄れが同時に起きているとなると、瘴気の流れが変わりつつある可能性は高いかと」
私はできるだけ感情を排して、分析だけを口にした。
「こちら側の結界網への影響は?」
「今のところ、直接の干渉は観測されていません。ただ、北方方面の瘴気密度が上がれば、将来的に負荷は増えるでしょう」
「ならば、なおさら新型結界の前線配備を急ぐべきだな」
セイジュ様が、あっさりと結論を告げる。
「国境結界ネットワーク案の調整はどこまで進んでいる?」
「昨夜のシミュレーションで、主要な干渉パターンは確認できました。あとは、実地の地形データを組み込んで最終調整を行えば、試験配備は可能です」
言葉にしながら、自分の喉が少し乾いていることに気づく。
昨夜、最上階での実験中に起きた一時的な魔力暴走。あの原因も、おそらくは国境側の魔力流路がわずかに揺らぎ始めているせいだ。
私の中で、点と点が細い線で結ばれていく。
「よろしい。では、国境新結界プロジェクトの優先度を引き上げよう」
ユリウス様があっさりと宣言する。
「陛下への上申はこちらで済ませる。君たちは技術面と運用面の詰めを急いでくれたまえ」
「了解した」
セイジュ様が短く答える。
その間もずっと、私は広げられた地図の上の赤い印を追っていた。
北方の山脈。谷。瘴気の濃い源泉。そして、その少し南――アストリア側の地形。
紙の上に描かれた線と記号が、頭の中で別の図と重なっていく。
数年前、アストリアの大結界を改修したときに描いた、中枢から各地へ伸びる魔力流路の図だ。
「会議は以上だ」
リカルド副団長の声がして、人々が席を立ち始める。
椅子の軋む音、紙の束をまとめる音、出口へ向かう足音。
「アリア」
また、呼ばれた。
「……はい」
「顔色が少し悪い」
「大丈夫です。ただ、少し気になることがあるので、後で研究室で整理しておきます」
そう答えると、セイジュ様は一拍おいてから、低く付け加えた。
「一人で抱え込むな」
それは、昨夜も聞いた言葉だった。
分かっています、と口にする代わりに、私は小さくうなずいてから頭を下げた。
「資料のコピーを数部、私の研究室に回していただけますか」
文官にそう頼んで、私は一足先に部屋を出る。
胸の奥で、古い傷が疼いていた。
◇
夕方。研究塔の自室ではなく、結界研究用の大きな机がある部屋に私はこもっていた。
机の上いっぱいに広げたのは、今日の会議で使われた北方国境の地図。それに、ガルディア側の既存結界配置図、そして――アストリアの大結界の古い設計図の写し。
どれも、私がかつて描いたものだ。
「ここが……崩落地点」
細い羽ペンの先で、報告書に記されていた地点をつつく。
赤い印が重なっていく。
北側の山脈に沿うように走る大結界の外殻。その一部に、負荷を逃がすための緩衝層をあえて薄くしておいた部分がある。
そこに、今、小さな穴が開き始めている。
「やっぱり、そうですよね」
ため息とも、笑いともつかない息が漏れた。
あのとき、私は自分がアストリアを離れても数年は持つように、大結界に魔力の「貯金」をしてきた。
中枢核と各地の結界柱のあいだに、自分の魔力でできた補助流路をこっそり差し込んで。
それは、本来の設計にはなかった、仮設の補強だ。
でも、どんな貯金にも利息はつかないし、底はある。
地図の上を、ゆっくりと指でなぞる。
魔力の流れを頭の中で再構成しながら、どこからどれだけ漏れているのかを計算する。
「瘴気濃度の上昇と、魔物の活性化……」
報告書の数値を横に置き、紙の端に小さな数字を書き込んでいく。
魔力の減衰率。補助流路の耐久限界。瘴気の侵入速度。
机の上に、数字と矢印と記号が増えていった。
「このまま何もしなければ……あと数年」
言葉に出した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
数年のあいだは、大結界は持つだろう。
私が置いてきた魔力の貯金が、本体の劣化を誤魔化してくれるから。
けれど、その先は。
私が計画通りに抜けるために弱くした部分から、ゆっくりと、確実に、ひび割れが広がっていく。
「……自業自得ですね」
誰もいない部屋で、思わず苦笑する。
あのとき、私はアストリアの王家に「私を必要としない」という選択をさせた。
大結界の仕組みも、負荷も、何も説明しないまま。
それでもすぐに国が滅ぶようなことにはならないよう、最低限の安全装置だけは残してきたつもりだった。
数年の猶予。その間に、誰かが、大結界の本当の姿に気づき、対策を打ってくれればいいと。
けれど――この数字を見る限り、その猶予は、思っていたよりも早くすり減っている。
「お父様……」
レイン伯爵家の屋敷。大結界の負荷で時々頭痛を訴えていた父の姿が脳裏に浮かぶ。
王都の街並み。ルクスリアの白い塔。そこに暮らす人々。
胸のあたりが、きゅう、と小さく痛んだ。
もし今、私がアストリアに戻れば。
中枢室に降りて、再び大結界と繋がれば。
ひび割れを塞ぎ、瘴気の流れを整え、数年どころか、もっと長く持たせることもきっとできる。
そう分かっているからこそ、考えてはいけないと分かっているからこそ、その仮定は、甘い毒のように頭の中で形を変えながら何度も浮かんでくる。
「戻る、か」
ぽつりと口に出してみて、自分で笑ってしまった。
今さら、どの顔をして。
王家に頭を下げさせる条件付きなら、たぶん可能だ。
ガルディアとしての立場を使えば、国際的な「救援」という形で手を貸すこともできるだろう。
でも、それは、今やることではない。
「今の私の肩書きは、アストリア王太子妃候補ではなく、ガルディア国境結界プロジェクト主任で」
誰もいない研究室に、静かな声が落ちる。
「私の責任は、今、ここにある国境を守ること」
言葉にしてしまえば、少しだけ楽になる。
自分で自分に契約書を書いて、署名したようなものだ。
窓の外に目を向けると、空はすっかり夜の色に変わっていた。
研究塔の窓から見える北方の空は、アストリアで見ていた穏やかな夜とは違う。
ほんのかすかに、瘴気の紫が混ざっている。遠くの山並みの向こう側で、何かが蠢いている気配がする。
「数年後、あの国がどうなっているかは分かりませんけど」
窓枠に指を置き、軽く叩く。
「そのとき、私がどう動くかは、そのときの私が決めればいい。少なくとも今は、ここでやるべきことが山ほどあります」
そう言い聞かせると、胸の痛みが少しだけ和らいだ。
机の上に残していた地図とメモを軽く整え、私は新しい紙を引き寄せる。
ガルディア北方国境に敷設する、新型結界ネットワークの最終案。
瘴気の流れが変わる前提で、負荷の逃し方をもう一段階、細かく設計し直す必要がある。
「……あの国が、自分たちで選んだ結果を受け止める覚悟を持つまで」
その間だけでいい。
私は私の選んだ場所で、私の守りたいものを守る。
羽ペンの先をインク壺に浸し、新しい線を描き始める。
夜はまだ長い。
やるべき仕事も、まだ終わらない。
国境会議回、いかがでしたか?
アリアの元の国への未練と、今の居場所としてのガルディアへの覚悟を書きながら、作者も胸がきゅっとしていました。
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