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「完結済」婚約破棄された令嬢ですが、この国の大結界を張っていたのは私なので、隣国の魔導師団長にスカウトされました  作者: 夢見叶
第2部 ガルディア新生活と魔導師団編 第6章 結界研究と新魔術

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第37話 二人だけの夜更かし実験

 夕陽が沈みきるころ、研究塔の窓の外は群青に沈みつつあった。


 昼の訓練と魔導具班の見学を終えた私は、自室の机でノートを広げている。

 国境結界ネットワーク案を塔の最上階用に組み替えたシミュレーション術式。ノエルさん作の計測器とリンクさせる補助陣。どれも今日まで何度も書き直してきたものだ。


「……よし」


 ペンを置き、ページの端を軽く叩く。

 筋肉はまだ抗議しているのに、胸の奥だけは不思議と軽かった。


 そこで、扉が控えめにノックされる。


「アリア。準備はできているか」


 低い声に、心臓が一瞬だけ強く跳ねた。


「はい。すぐに参ります」


 扉を開けると、黒いローブの長身が廊下に立っていた。昼間より襟元の留め具が一つ外されていて、手には見慣れた板状の魔導具がある。


「ノエルの計測器だ。最上階用に調整しておいた」


「ありがとうございます。……その、迎えに来ていただかなくても、自分で――」


「途中で寝落ちされると困る」


「そんなことしません」


「筋肉の抗議がどうこうと言っていたと聞いたが」


「……ノエルさん、報告が早すぎます」


 思わず眉を押さえると、セイジュ様の口元がかすかに緩んだ。


「行くぞ」


「はい」


 並んで廊下を歩き、螺旋階段を上る。

 段を上がるごとに空気の密度が変わっていく。塔全体を巡る魔力の流れが、ゆっくりと上へ集まり、胸の奥で鼓動のように響いた。


「相変わらず、すごい魔力の量ですね、ここは」


「塔そのものが巨大な魔術装置だ。最上階は、その出力端の一つになる」


 淡々とした説明。その声にほんのわずかな誇らしさが混じっている気がして、私は小さく笑った。


     ◇


 最上階の扉を抜けた瞬間、視界が開ける。


 半球状の天井と床一面の魔方陣が淡く光り、窓の外には王都の灯と結界の細い帯が夜気の中に揺れていた。


「……本当に、国一つぶんの模型みたいですね」


 中央には円形の台座。その上に、ノエルさんの計測器が据えられている。板状の投影面の周囲に、細かな結晶がリング状に並び、塔の魔力と私の術式を橋渡しするように設計されていた。


「射程も解像度も十分だ。あとは運用者の腕次第だな」


「プレッシャーをかけないでください」


 苦笑しつつ、私は台座の手前に立つ。


「今日は、戦闘用層と生活層、それから緩衝層の三段構造を試します。地形データは、先日の会議でいただいた最新版に合わせてあります」


「負荷は俺が見る。おまえは式に集中しろ」


「はい」


 指先を床の魔方陣すれすれに下ろす。

 塔全体を巡る魔力が、じわりとこちらへ向きを変えるのが分かった。


 アストリアの大結界中枢室とは違う、けれど同じくらい深い圧力。

 今度は鎖ではなく、私の望む方向へ流れを切り替えられる魔力だ。


「――起動」


 小さく呟き、魔力を流し込む。


 床の線が一斉に光り、光は塔の中心へと収束して計測器へと吸い込まれる。次の瞬間、板の上に半透明の立体図が浮かび上がった。


 山脈、川、国境線。都市を示す光点。

 その上に幾重もの輪が重なるように、新しい結界の流路が描かれていく。


「……すごい」


 思わず漏れた声に、自分でも苦笑する。


「これが国境結界ネットワークの骨組みです。外側の層が戦闘用、内側が生活層。その間を走る帯が緩衝層」


 私はいくつかの線を指でなぞりながら説明する。

 戦場になりやすい山間部には厚い防御層を。人の生活が集まる平野部には、揺れを柔らかく受け止める層を。


「ここが、以前話していた『検問』の役割をする部分か」


 セイジュ様が、半透明の帯を軽くなぞる。


「はい。戦闘層から生活層への揺れは通しにくく、生活層から戦闘層への情報は通しやすく。完全な一方通行ではありませんが、優先方向を決めています」


「ふむ」


 短い相槌。銀の瞳は真剣に線を追っていた。


「まずは局所的な揺らぎから試します。夜間と昼間で、パターンを分けて」


 私は北方の峠、商隊の通る谷間、魔物が出やすい森の縁など、いくつかの地点を指定する。


「――第一波、入力」


 瘴気に見立てた魔力の波が、国境線へ向かって押し寄せる。

 戦闘層がぎゅっと収縮して受け止め、緩衝層で一度揺れを吸収し、生活層には緩やかな波だけが伝わっていく。


「……理論通り、ですね」


 胸の奥で、小さく安堵する。


「第二波。今度は複数地点同時に」


 ここまでは机上で何度も試した範囲だ。問題は、その先。


「最終段階では、王都近辺にも負荷をかけたいのですが」


「やるしかないだろう」


 迷いのない横顔に、思わず背筋が伸びる。


「分かりました。第三波で」


 私は王都と国境を結ぶ複数の流路に、強めの波を設定した。


     ◇


「……少し、揺れが大きい」


 第三波の開始からしばらくして、計測器が短く警告音を鳴らした。


「魔力密度、上昇中。緩衝層、想定値を五パーセント超過……」


 私は眉を寄せる。


「この辺り、思ったより負荷が集中していますね」


 指先で示した部分に、赤い光がじわりと滲んでいく。

 国境の山脈と王都方面の流路が交差する地点。以前、大結界の補強で無理な曲げ方をした場所に、どこか似ていた。


「やっぱり、ここは式を――」


 負荷分散用の式を書き換えようとした瞬間。


 塔の床、そのずっと下のほうから、低い振動が伝わってきた。


「……え?」


 心臓部の鼓動のような、重く深い脈動。

 それが、今走らせているシミュレーションと妙な形で重なった。


 投影図の光が、一瞬だけ激しく明滅する。


「アリア。手を離せ」


 鋭い声と同時に、セイジュ様の手が私の手首を掴んだ。


 けれど、そのときにはすでに、塔を巡る魔力と私自身の魔力が、制御しきれない形で共鳴し始めていた。


「――っ」


 頭の奥で、何かが弾けるような感覚。

 視界が揺れ、足元の感覚が遠のく。


 膝が崩れかけたところで、強い腕が私の身体を受け止めた。


 背中と腰に、確かな温度。

 胸元に伝わる鼓動の速さ。


「アリア」


 耳元で、低い声が震える。


「本気で、心臓が止まるかと思った」


 いつもと違う声だった。

 淡々とも皮肉混じりとも違う、むき出しの焦りを帯びた声音。


「……だ、大丈夫です」


 喉が乾いて、声が少し掠れる。


「一瞬、塔の魔力と変な共鳴をしただけで……意識もありますし、手も動きますし」


「理屈はあとだ」


 ぴしゃりと遮られる。


「立てるか」


「えっと……」


 足に力を込めてみる。膝が少し震えたが、立てなくはない。


「だいじょ――」


 言いかけて、ようやく自分の状況を認識した。


 肩越しに感じる硬い胸板。

 腰を支える手の位置。

 少し前傾した体勢に合わせて、私の身体がすっぽりと抱き込まれている。


「…………」


 頭の中で、別種の警報が鳴り響いた。


「あ、あの、セイジュ様。その……そろそろ」


「まだだ」


 即答。


「魔力の揺れが完全には収まっていない。無理に動けば、もう一度倒れる」


「それは……」


 確かに、胸の奥でまだ波紋のような感覚が続いている。

 けれど、この体勢を維持するのも、別の意味で危険だ。


「セ、セイジュ様の心臓は、大丈夫ですか」


「今も速い」


「え」


「おまえが倒れかけた光景が、頭から離れないせいだ」


 どうして、そういうことを平然と言えるのだろう、この人は。


 顔が一気に熱くなる。塔の魔力の余熱ではない別の熱が、頬に上がっていくのが自分でも分かった。


「……ひとまず、シミュレーションは停止した。塔側の回路も切り離した」


 セイジュ様が片手を離して解除式を描く。

 投影図の光が、ゆっくりと落ちていった。


「今日はここまでだ」


「でも、まだ解析していないログが――」


「あとでノエルに回す」


「今の状態で続けても、まともなデータは取れん。安全基準は、おまえ自身にも適用される」


「……ぐうの音も出ません」


 それでも、やりかけを中断するのはどうにも落ち着かない。


「研究者としては、まだ手を動かしたい気持ちが山ほどあるのですが」


「研究者としての欲と、身体の限界は別だ」


「そういうところだけ、とても冷静ですよね、団長様は」


 思わずこぼした言葉に、彼が小さく息を吐いた気配がした。


「おまえがそうでないぶん、誰かが冷静でいなければならない」


 いつもの調子に戻ったような言い方。けれど、抱きとめる腕の力は、まだ少し強いままだった。


     ◇


 塔の魔力の鼓動が落ち着き、胸の奥の揺れもようやく静かになってきたころ。


「……だいぶ楽になりました」


「そうか」


 短い返事のあと、ようやく腕の力が緩んだ。

 それでも完全には離れず、片腕だけがまだ腰を支えている。


 顔を上げると、銀の瞳が間近にあった。


「……っ」


 息が詰まる。

 普段は一定の距離を保っている顔が、手を伸ばせば触れられるくらい近い。


「顔色は悪くない」


 指先がそっと頬に触れる。

 熱を確かめるように一瞬だけ滑り、すぐに離れた。


 その短い接触に合わせて、心臓がまた忙しなく脈打つ。


「……本当に、無茶をする」


 低くかすれた声。


「塔の心臓部と自分の魔力を同時に揺らすなど、正気のやることではない」


「試算上は耐えられるはずだったんです。少しだけ余裕を見て――」


「おまえの『少し』はあてにならない」


 即座に切り捨てられる。


「大結界でも同じことをしていたのだろう」


「……否定できません」


 視線を逸らした先にも黒いローブの袖と、その下の体温があった。

 意識すればするほど、行き場がなくなっていく。


「あの、セイジュ様」


「なんだ」


「そろそろ、本当に離れていただかないと、心臓が落ち着く前に別の理由で倒れそうなのですが」


 必死に言葉を選んだつもりが、口に出してみると自分で言っておいて顔から火が出そうになる。


 短い沈黙のあと。


「……そうだな」


 彼の耳が、ほんの少し赤くなっているように見えた。


「すまない」


 ゆっくりと腕が離れていく。

 支えを失った身体がぐらりと揺れかけたところで、今度は彼が一歩下がり、距離を取った。


 急に増えた空気に、ほっとするような、少し寂しいような感覚が混じる。


「アリア」


「はい」


「今日はもう部屋に戻れ。ログの解析は明日以降でいい」


「でも――」


「命令だ」


 短く、はっきりと。


「……了解しました」


「明日、改めて式を組み直すときは、塔の心臓部との共鳴を別系統に逃がす案も考えろ」


「はい。……寝てから、ですね」


「当然だ」


 思わず笑みがこぼれる。

 私の悪い癖を、一番よく分かっている人だ。


「送っていく」


「階段を下りるだけですし、自分で――」


「さっき倒れかけたばかりの患者を、一人で階段に放り出す医者がどこにいる」


「例えが物騒です」


 そんなやりとりを交わしながら、最上階を後にする。


     ◇


 階段を下りるあいだ、短い沈黙のあとでセイジュ様が口を開いた。塔の心臓部がおまえの魔力に反応したのは偶然ではないこと、共鳴の条件が一つ分かった以上、今夜の実験は失敗ではなく前進だということ。大結界のときと違って今は仲間がいるのだから、一人で全部を背負うな――そう、淡々とした口調で告げられる。


 胸の奥が少し軽くなる。


「……分かりました。まだ、やることが山ほどありますから」


 そう答えると、彼は小さくうなずき、私たちはそれぞれの夜へと歩き出した。


第37話までお付き合いいただきありがとうございます!

塔の心臓部とアリアの共鳴、そしてセイジュの「本気で心臓が止まるかと思った」でニヤッとしていただけていたら嬉しいです。

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