第4話 外庭で待つ影
玉座の間の重い扉が、背後でゆっくりと閉まった。
ぎぃ、と軋む音が、やけに長く耳に残る。
途端に、胸の奥を締めつけていた何かが、ふっと緩んだ。
……魔力の圧が、少しだけ軽い。
国全土を覆う大結界と、私の魔力とをつなぐ見えない鎖。
それが、さっきの「婚約破棄」の瞬間に、一段階だけ外れた感覚があった。
とはいえ、今すぐ国がどうこうなるわけではない。
あらかじめ調整しておいた通り、数年は保つ。
私がいなくてもいいように、きちんと貯金してきたのだ。
……そこまでして「捨てられた」がっている令嬢なんて、私くらいだろうけれど。
自嘲を飲み込みながら、私は王城の長い廊下を歩く。
高い窓から差し込む光が、白い床にまぶしく反射していた。
「はあ……」
誰にも聞かれないよう、小さく息を吐く。
さっきまでの玉座の間は、空気そのものが重かった。
王と貴族と、噂話と、視線と。
そして、何よりも――結界を通して押し寄せてくる王都全体の「重さ」。
扉を一枚はさむだけで、こんなにも違うのだと、少し驚く。
廊下の突き当たりを折れ、外庭へ続く扉を押し開けると、春の風がふわりと頬を撫でた。
陽光。青い空。
磨き上げられた白い石畳の向こうに、緑の芝と、中央の噴水。
水音が、玉座の間のざわめきとは別世界のように穏やかだ。
「……やっと終わった」
誰に向けるでもなく、ぽつりと呟く。
レオン殿下の婚約者として過ごした歳月。
王家の便利屋として駆り出され続けた日々。
それら全部に、ようやく区切りがついた。
肩から力が抜けると、どっと疲れが押し寄せてきた。
芝生の端に置かれた石のベンチに腰を下ろし、空を見上げる。
王都を覆う結界の揺らぎが、微かに見えた。
普段なら、私が無意識に整えてしまう小さな歪み。
今は、あえて手を出さない。
「……大丈夫。計算通り」
ここで振り返るつもりはない。
今日の目的は、きちんと「捨てさせる」こと。
そのために何年もかけて用意してきた。
あとは――迎えに来てもらうだけ。
胸の奥で、別の鼓動が早まる。
王城の外庭の、この一番隅。
玉座の間から最も遠く、見張りも少ないこの場所を、待ち合わせに選んだのは私だ。
視線を噴水から外し、庭の端に伸びる並木を見やる。
木陰が、昼下がりの陽光から芝生を守るように落ちていて、その一角だけ、妙に空気が濃い気がした。
「……来て、くれますよね」
人払いの準備はした。
婚約破棄の場が長引かないよう段取りも整えた。
手紙で何度も打ち合わせをした。
それでも、「本当に来てくれるのか」という不安は、どうしたってゼロにはならない。
だって、彼がいるのは隣国ガルディア。
アストリアから見れば、国境を挟んだ「隣の国の最重要戦力」だ。
そんな人が、わざわざ他国の王城のすぐそばまで来る。
冷静に考えれば、ありえないことだと分かっている。
でも。
『不要になったら、いつでも引き取る』
文の最後に書かれていた、ぶっきらぼうな一文を思い出す。
冗談半分、と本人は言っていたけれど。
あの人は、言葉を軽くは使わない。
木陰の空気が、ふと揺れた。
魔力の流れが変わる。
風が、ほんの少しだけ向きを変えたような、あの感覚。
「……来ましたね」
私が立ち上がるより先に、木陰から一歩、黒い影が現れた。
黒髪に、鋭い銀色の瞳。
長身の体を黒のローブが包み、胸元には見慣れない紋章が光っている。
アストリアではなく、ガルディアの国章。
庭の明るさに目を細めながら、その人はまっすぐこちらを見た。
「予定通り、婚約破棄は済んだか?」
低く落ち着いた声。
聞き慣れたその響きに、胸の奥の緊張が一気に緩む。
「……はい。無事に捨てられました」
気づけば、口調が王宮用の敬語から、少し崩れていた。
レオン殿下や国王陛下の前では決して出さない、素の話し方。
彼は、面白そうに片眉を上げる。
「そうか。それは何よりだ」
「人が婚約破棄された直後なのに、その言い方はどうかと思います」
「王家が不要と言ったのだろう。ならば、喜んでいただきに来るのが礼儀というものだ」
さらりと物騒なことを言いながら、彼は歩み寄ってくる。
距離が近づくほどに、纏う魔力の密度がはっきり分かる。
圧倒的な魔力。
それなのに、荒々しさではなく、よく磨かれた刃物みたいに整っている。
初めて出会った、あの国境の夜を思い出す。
Sランク魔物を、あっさりと塵に変えた背中。
その後、私の研究ノートを興味深そうにめくりながら「面白い」と言ってくれた横顔。
「セイジュ様」
名前を呼ぶと、彼――セイジュ・アルバートは、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「ずいぶん早かったですね。まだ玉座の間から報せが届くには時間がかかるかと」
「おまえの魔力の気配が、いつもより軽くなったからな」
「……それだけで分かるものなんですか」
「毎日のように手紙でおまえの魔力の状態を聞かされていればな。今日は朝から、鎖が外れかけているような感覚があった。だから、そろそろだろうと」
さらりと言ってのけるが、それはつまり――
私の魔力の変化を、国境の向こうからでも感じ取っていた、ということだ。
「監視されていた気分です」
「観測だ。似ているが、違う」
「どちらにせよ、少し恥ずかしいのですが」
不満そうに言うと、彼は小さく肩をすくめる。
「恥じるところはない。王都の大結界をあれだけ一人で支えていた魔導師だ。どんな変化も、記録しておく価値がある」
「……褒められているはずなのに、実験対象みたいな言い方ですね」
「事実だ」
即答。
こういうところが、彼の残念なところでもあり、好きなところでもある。
笑いを堪えきれずにいると、セイジュがふと真顔になる。
「それで、後悔はないか?」
銀の瞳が、まっすぐ私を射抜く。
王太子の婚約者という立場を捨て、国の大結界からも離れた。
今日この日を迎えるために、何年もかけて準備してきた。
その全部が、今この瞬間に反転している。
「……後悔するような選択だったなら、ここまで準備していません」
胸に手を当てて、ゆっくりと息を吸う。
玉座の間で浴びた視線の重さを思い出す。
レオン殿下の、あの勝ち誇った顔。
リリアナの、震える睫毛。
そして、何も言わなかった人たち。
「それに、セイジュ様。あなたに言われたんですよ」
「俺が?」
「『この国に埋もれているには惜しい』と」
国境のテントの中で、彼がぽつりと言った一言。
あれがなければ、私はきっと、まだ王宮の便利屋として鎖に繋がれたままだった。
セイジュは、少しだけ視線をそらして小さく咳払いをした。
「あれは、研究の話だ」
「研究と、私の人生は、切り離せませんから」
そう言うと、彼は観念したように一度まぶたを閉じ、そしてこちらに片手を差し出してきた。
「では改めて。アリア。アストリア王国が不要としたおまえを、ガルディア王国魔導師団長として迎えに来た。俺の国で、おまえの結界術を好きに振り回すといい」
「……また物騒な言い方を」
「事実だ」
またそれ。
思わず笑ってしまいながら、その手を取る。
指先に触れた瞬間、温かさが伝わってきた。
魔力の質は私とは正反対なのに、不思議と落ち着く温度。
「本当に、来てくださったんですね」
「当たり前だ。貴重な魔導師をもらいに来たと、さっき言っただろう」
「だからその言い方やめませんか。私、荷物か何かですか」
「違うのか?」
「違います」
きっぱり否定すると、彼は少しだけ考えるような間を置いてから、言い直した。
「……では。貴重な魔導師であり、俺の――」
そこで、彼の言葉が途切れた。
外庭の入り口の方から、複数の足音と、鎧の擦れる音が近づいてくる。
鋼と革がこすれ合う、騎士のそれだ。
セイジュは、私の手を離さないまま、ちらりとそちらに視線を向ける。
「来たか」
「予想より早いですね」
「婚約破棄の舞台に、予想通りという言葉は似合わない」
苦笑混じりにそんなことを言うと、彼は私を自分の背後にかばうように一歩前に出た。
ローブの裾が、芝生の上で静かに揺れる。
「セイジュ様?」
「アストリア王家の第一王子が来る。少なくとも、礼儀だけは尽くしておこうと思ってな」
そう言って、彼はわずかに顎を上げ、足音のする方向をまっすぐに見据える。
「……アストリア王国第一王子殿下に、ご挨拶を」
低く、よく通る声が外庭に響いた。
その声が、レオン殿下たちの耳に届くほんの少し前。
私は、自分の手に残るセイジュの温もりを確かめるように、指先をぎゅっと握りしめた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
ついに婚約破棄が成立し、外庭でセイジュが堂々と「お迎え」に来る回でした。
次回はいよいよレオン殿下との正面衝突&「捨てた令嬢」の価値が暴かれていきます。
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