第32話 隣に座る人
歓迎会がお開きになる頃には、魔導師団のホールはだいぶ静かになっていた。
片付けのために皿が運ばれ、魔術灯の光も少し落とされる。さっきまで頭の上を飛び交っていた笑い声が、遠くへ薄れていく。
長い一日の終わり。けれど、胸の中だけはまだざわついていた。
「……おつかれ」
背後から落ちてきた低い声に振り返ると、黒いローブの団長様――セイジュ様が歩いてくるところだった。
いつもより表情が少しだけ柔らかい。ほんのり赤い頬は、おそらく酒のせいだ。
「セイジュ様も、お疲れさまです。かなりいろいろな方に捕まっていましたよね」
「仕事の延長だ」
短くそう言ってから、銀の瞳がじっと私を見下ろしてくる。
「顔色は悪くないな」
「そんなに、心配そうに見ていらしたんですか」
「初めての場だった」
それだけ。
けれど、歓迎会の間じゅう浴びていた視線を思い出して、私は苦笑した。
「正直に言うと、半分くらいは観察されている気分でした」
王太子の元婚約者。
外様の女魔導師。
災厄の魔導師が連れてきた何か。
そんなラベルが、ささやき声と一緒に飛び交っていた。
「思ったより、悪くはなかったですけれど」
「そうか」
セイジュ様の肩が、ふっと緩んだ。
「リゼットとリカルドがうまく場を回してくれていた。あいつらの顔を立てる意味でも、今日はおとなしく付き合って正解だったな」
「はい。リゼットさんには、女友達枠として捕まえられてしまいました」
「捕まえられた?」
「ここでは女友達くらいはいたほうが生きやすいわよ、って」
彼女の悪戯っぽい笑顔を思い出すと、自然と肩の力が抜ける。
「悪くない提案だ」
セイジュ様はあっさり頷いた。
「アリアは、仕事以外の話をする相手をもっと増やしたほうがいい」
「研究の話でも、いいですよ?」
「それは俺が聞く」
即答だった。変なところで独占欲が強い。
「じゃあ、研究と結界と愚痴はセイジュ様に、その他の日常の話はリゼットさんに、ということで」
「愚痴も俺か」
「はい。雇い主ですから」
「理不尽な押しつけだな」
そう言いながら、口元がわずかに上がる。
◆
魔導師団本部を出て塔へ戻る道は、昼間よりもずっと静かだった。
石畳に靴音が規則正しく響き、夜気が頬を撫でる。王都の上空を覆う結界の膜が、肌にかすかな圧として感じられる。
「歩けるか」
「それは、どちらに対する確認でしょう」
「おまえだ」
「私は平気です。酔っているのは、どちらかと言えば」
「俺は酔っていない」
半歩前を歩く背中が、ほんの少しだけふらついたように見えたのは、気のせいだと思うことにした。
「さっき、リカルドさんに無理やり注がれていましたよね。団長もたまにはちゃんと飲め、って」
「仕事中は断っていると、ああやって隙を突いてくる」
珍しく、不満そうな声音だ。
「弱いわけではない。ただ、酒が入ると」
「と?」
「余計なことを口にしやすくなる」
そこで、ぴたりと言葉を切った。
自覚はあるらしい。
塔の玄関ホールに入ると、暖かい空気と一緒に、ハーブのいい匂いが迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、団長様、アリア様」
メイド長のマリアナさんが、玄関近くで控えている。
「遅くまで、ありがとうございます」
「歓迎会はいかがでしたか」
「そうですね……観察されました」
正直に答えると、マリアナさんは一瞬だけ目を細めてから、穏やかに笑った。
「そのうち、観察される側から頼られる側へ変わっていきますよ。アリア様なら、きっと」
「そんなに簡単に変わるものですか」
「アリア様なら、です」
さらりと断言されて、言葉に詰まる。
「団長様は、お加減はいかがです?」
「問題ない」
即答したものの、マリアナさんの視線はじっとりしていた。
「お酒は控えめに、とお願いしましたのに」
「あれは付き合いだ」
「付き合いでも飲みすぎは身体に毒です。今、温かいお茶をお持ちしますね。居間にいらっしゃいますか?」
「そうしよう」
セイジュ様が頷いて、私を見る。
「アリアも、少し休んでいけ」
「はい」
そう答えると、マリアナさんが嬉しそうに微笑んだ。
「では、特製の安眠ブレンドを。研究で夜更かしなさる前に飲んでいただければ、よくお休みになれますよ」
「そんなに私が夜更かし前提なんですね」
「もう、把握済みですから」
苦笑いする間に、彼女は台所へ消えていった。
◆
居住フロアの共用ラウンジ――塔の居間は、夜用の柔らかな灯りに照らされていた。
厚手の絨毯の上に、ゆったりとしたソファと低いテーブル。窓の向こうには、星のようにまたたく王都の灯り。
「こちらに」
促されて、私はソファの片側に腰を下ろした。
そのすぐ隣に、ほとんど距離を空けずに団長様も座る。
少しでも動けば肩が触れそうな近さに、歓迎会のときより緊張している自分がいた。
ほどなくして、マリアナさんがお茶を運んでくる。
「お待たせいたしました。今夜は少し甘めにしてあります」
「ありがとうございます」
薄い金色のお茶から、やさしい香りが立ち上る。カップを両手で包むと、冷えていた指先までじんわり温まっていった。
マリアナさんが部屋を出て行き、本当に二人きりになったところで、ようやく息を吐く。
「……疲れたか」
隣から、さっきと同じ問いが落ちてきた。
「少し、ですね」
私はカップの表面を眺めながら答えた。
「人前で何かをするのは、戦場より緊張するのかもしれません」
「戦場のほうがマシという感想は、普通ではない」
「戦場には、噂話があまり飛んでこないので」
言ってから、自分で笑ってしまう。
「さっき、少しだけ聞こえました。外様とか、スパイかも、とか」
胸の奥は、思ったほど痛まない。
あの国で向けられていた、道具を見るような視線のほうが、よほど冷たかったからだ。
「予想はしていましたし、カイルさんの言い方はむしろ分かりやすくて助かりました」
「分かりやすい?」
「実力が本物なら構わない、って。なら話は早いです。結果で黙らせればいいだけですから」
そう口にすると、隣から小さな吐息が聞こえた。笑ったのだと分かる。
「おまえは時々、えげつないことを平然と言うな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「ああ。褒めている」
銀の瞳が、横から私を覗き込む。
「ただ、結果で黙らせる前に、必要以上に噂を気にして眠れなくなる、ということはないな」
「……それは」
図星を刺されて、言葉に詰まる。
耳に残ったささやきが、夜の静けさの中で頭の隅をつついてくる未来が、簡単に想像できてしまった。
「ここにいていいのか、っていう感覚は、まだ完全には馴染んでいません」
ぽつりと零した声は、自分でも驚くほど小さい。
「塔でも、魔導師団でも、セイジュ様も、私をここにいていい人として扱ってくださっているのは分かるんです。でも、身体のどこかに、前の国の癖が残っているというか」
「立っているだけで、いつでも不要と言われるかもしれない場所、か」
静かな言葉。
あの玉座の間の空気を、この人も一緒に吸っていたことを思い出して、胸が少し締め付けられる。
「もう、そんな場所には戻らない」
淡々とした口調で、彼は言い切った。
「ここでは、おまえが自分で選んで立っている。一人の魔導師としてだ」
「分かっては、いるんですけど」
「分かっているなら、あとは慣れだ」
さらりと断言されて、思わず顔を上げる。
銀の瞳が、いつもより少しだけ揺らいで見えた。
「ここでの暮らしに慣れるまで」
カップをテーブルに置いたセイジュ様が、わずかにこちらへ体を傾ける。
「ずっと隣に座っていてやる」
低い声が、そっと落ちてきた。
「…………」
一瞬、頭が真っ白になる。
「そ、それは……邪魔ではないですか」
どうにか捻り出した言葉は、自分でも分かるくらいの照れ隠しだった。
「邪魔なわけがない」
間髪入れず、返ってくる。
「俺が隣に座っていて、誰が邪魔をする」
「いえ、そういう意味ではなくて」
「少なくとも、俺にとっては都合がいい」
さらりと続けられて、心臓の鼓動がうるさくなる。
「目の届くところにいてくれれば、変な噂が立ってもすぐ潰せるし、勝手に無茶な仕事を引き受けようとしても止められる」
「無茶な仕事を勝手に引き受けるのは、どちらかと言えばセイジュ様では」
「否定はしない」
あっさり自覚された。
「だから余計に、おまえを目の前からいなくさせたくない」
そこで、彼のまぶたが一瞬伏せられる。
「目を離した隙に、またどこかの国の盾だの道具だのにされていたら、今度こそ心臓に悪い」
最後の一言は、ほとんど呟きだった。
胸の奥が、きゅっと鳴る。
「そんなこと、もうしません」
自然と、そう返していた。
「私も、勝手に鎖を繋ぎ直しに行ったりはしませんから」
「本当か」
「本当です」
きっぱり言い切ると、セイジュ様は少しだけ目を細めた。
「なら、俺も約束しよう」
「約束、ですか」
「ああ」
視線がまっすぐこちらを捉える。
「ここでの暮らしに慣れるまで……いや、慣れてからもだな」
さらりと条件が延長された。
「おまえが嫌だと言わない限り、俺はずっと隣にいる」
「…………っ」
さっきより一歩踏み込んだ言葉に、頭の中が完全にショートした。
嫌だと言う選択肢は、最初から存在しない。
だからといって、そのまま口に出す勇気もない。
「ほんとうに、酔っていないんですよね」
「酔っていない」
少しもぶれない答えが返ってくる。
頬がますます熱くなった。
◆
「……眠そうだ」
どれくらい話していたのか分からない。
ふと気づけば、カップは空になり、魔術灯の光も少し落とされていた。
「すみません。少し……」
背もたれに体を預けた途端、全身から力が抜ける。
郊外の村での結界修復。
魔導師団での報告。
歓迎会のざわめきと、リゼットさんの言葉。
「無理はするな」
隣の声が少し近くなったと思った瞬間、バランスを崩しかけた体が、ふわりと支えられた。
「わ……」
肩口に、固くてあたたかい感触。
それがセイジュ様の肩だと理解した途端、余計に動けなくなる。
「そのままでいい」
低い声と一緒に、肩に添えられた手が、そっと支えるように力を込めた。
「落ちるぞ、そのままだと」
「もう、半分くらい落ちている気がします」
「なら、落ちる先を安定させておく」
理屈のようでいて、理屈になっていない。
小さく笑いながら、私はそっと目を閉じた。
耳のすぐ近くで、規則正しい鼓動が聞こえる。
かつて大結界と繋がっていたとき、私の中で鳴り続けていた膨大な脈動とは違う。
もっと人間らしい、不規則さを含んだ、あたたかい音。
それが心地よくて、意識がゆっくり沈んでいく。
まぶたの裏に、窓の外の夜空が浮かんだ。
ガルディア王都を覆う結界の外殻が、星を少しだけ滲ませている。
その下で私は今、誰かの所有物でも盾でもなく、一人の魔導師として息をしている。
そして隣には。
私が自分で選んだ、新しい居場所へ連れてきてくれた人がいる。
そのとき、自分がどこに座っていたいのかは、もう決まっているのだと思う。
あたたかい肩に頬を預けながら、意識の淵でそっと言葉を結んだ。
――この人の隣なら、きっと大丈夫だ。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
歓迎会から塔の夜、そして「ずっと隣にいる」と口にしてしまった団長様。
アリアが新しい居場所に慣れていくほど、二人の距離はさらに縮んでいきます。
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