第26話 新しい空と塔の主
目を開けた瞬間、まぶしさに思わず瞬きをした。
さっきまでいた王城の玉座の間ではない。高い天井。白い石を滑らかに削り出した柱。空気の匂いまで、私の知っているアストリア王都とは違っていた。
胸の奥で、長く続いていた細い糸が、静かにほどけていく感覚がする。
大結界と、私を繋いでいた鎖だ。
さっき、玉座の間を出たときにも一度、あのきしむような感覚はあった。でも今は、それが完全に消えている。代わりに、塔のどこか深い場所から、一定のリズムで脈打つような魔力の流れが伝わってきた。
ここは、ガルディア王国の王都ヴァルディア。
そして、魔導師団長セイジュ様の拠点であり、今日から私の居場所になる研究塔だ。
「……アリア」
低い声に呼ばれて、私は顔を上げる。
少し離れた場所に、黒髪と銀の瞳の青年が立っていた。長い黒のローブの裾が、転移の余韻でまだふわりと揺れている。
セイジュ様だ。
「気分はどうだ」
「ええ……少し、ふわふわしますけれど。大丈夫です」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
本当は、足が震えてもおかしくないはずだ。さっきまでいた国は、もう私の帰る場所ではない。王家の婚約者でも、国の盾でもなくなった。
代わりに得たのは、隣国での新しい立場と、この人の差し出した手。
胸の内側で、重いものと軽いものが、まだうまく混ざり合わないまま揺れている。
けれど、不思議だ。
恐怖よりも先に、じわりとわくわくが湧き上がってくる。
「ここが……」
私は、そっと周囲を見回した。
転移陣が刻まれた石床。壁には淡く光る魔方陣が何重にも重ねて描かれている。その光は眩しすぎず、優しい明るさで部屋全体を照らしていた。
視線を上げれば、高い天井にも、幾何学模様の魔術式が細かく刻まれている。そこから落ちてくる魔力の粒が、空気の中でさらさらとほどけて、床へと流れていくのが分かった。
魔力炉から研究塔全体へと魔力を配っているのだろう。
アストリアの大結界中枢室とは、仕組みも雰囲気もまるで違う。あちらが「古くて重い儀式場」だとしたら、ここは「新しくてしなやかな装置」という感じだ。
思わず、指先がむずむずする。
構造を知りたい。どういう流路設計をしているのか、どこに制御の要があるのか。頭の中で、見えない回路図が勝手に組み上がっていく。
「気になる顔をしているな」
隣に歩み寄ってきたセイジュ様が、小さく笑った。
「え、そんな顔をしていましたか」
「していた。あれを全部分解して中身を見たい、という顔だ」
「分解はしません。見たいとは思いますけれど」
自分でも苦笑してしまう。
「塔の詳細な構造は、いずれ全部見せる。今日はまず、外を見ておけ」
そう言って、セイジュ様は窓の方へと歩き出した。
転移室の壁の一部が、アーチ状の窓になっている。そこに近づくにつれて、外から流れ込んでくる風の匂いが変わった。少しひんやりしていて、乾いた石と鉄、それから遠くで焚かれている魔導炉の熱の匂い。
窓辺に立った瞬間、私は息を呑んだ。
見知らぬ街並みが、視界いっぱいに広がっていた。
アストリアのルクスリアが宝石箱だとしたら、こちらは重厚な城塞都市だ。
分厚い城壁が幾重にも走り、その内側に、灰色の石造りの建物がぎっしりと立ち並んでいる。屋根の色も高さも統一され、華やかな装飾こそ少ないが、隙のない美しさがあった。
遠くに見える王城ヴァル城は、防御と監視に必要な構造だけを積み上げた実用本位の城だ。そのすぐ傍らには、黒い制服の点が行き交う魔導師団の駐屯区が見える。
そして――今、私たちがいる塔は、その城塞地区から少し離れた小高い丘の上にそびえていた。
灰色の石と魔力を通す素材で組まれた細長い塔。窓には魔方陣の模様が入ったステンドグラスがはめ込まれ、昼間でも淡く光っている。夜になれば、きっと灯台のように王都を照らすのだろう。
私は、胸の前でそっと手を握りしめる。
ここが、ガルディアの心臓部。結界と魔術研究の最前線。
そこに、私がいる。
「……本当に、来てしまったんですね」
ぽつりと零した言葉に、自分で少し驚く。
さっきまでの婚約破棄は、どこか舞台の上の芝居のようで、現実感が薄かった。けれど、こうして見知らぬ空と街を目の前にすると、戻れない場所に来たのだと実感が押し寄せてくる。
「嫌か」
隣から落ちてきた声は、いつもよりわずかに低い。
「まさか。……少し、怖いだけです」
正直に言うと、セイジュ様は静かに息を吐いた。
「それくらいは、普通だ。国を一つ離れてきたんだぞ」
「そうですね」
「だが、怖さよりもわくわくの方が大きい顔をしている」
「それは否定しません」
私は思わず笑ってしまう。
怖い。けれど、その何倍も、この街の結界や魔導師団の仕組みを、この目で見てみたい。自分の知識と組み合わせれば、どんなものが作れるのか。
考えるだけで、指先から魔力がじんと熱を帯びてくる。
「ここが、おまえの新しい拠点だ」
ふいに、セイジュ様が言った。
その横顔は、いつもの無表情に近いのに、声の奥にだけ、ごく小さな熱が混ざっている気がした。
「研究塔の権限は、おまえと共有する。設備も人も、必要なものは言え」
「そんな簡単に言わないでください」
「事実だ。おまえの結界は、国境防衛の要になる。その価値を分かっているからこそ、彼らはおまえを招いた」
「……はい」
不要だと捨てられた国と、必要だと言って迎えてくれた国。
その落差に、まだ心が追いついていないけれど、それでも。
窓の外の空は、アストリアより少しだけ濃い青色をしていた。遠くの地平線の向こうには、魔物の出る北方の山脈が淡く影になっている。
あの向こうから来る瘴気と魔物を、この国は、結界と魔導師団で押し返しているのだ。
「行こう。塔の外も見ておけ」
セイジュ様に促され、私は転移室を後にした。
◇ ◇ ◇
研究塔の入口は、小高い丘の斜面に作られていた。
塔の内側から石段を降り、重厚な扉を抜けると、風が真正面から吹き込んでくる。王都のざわめきと、遠くで響く訓練の掛け声。それらが一気に耳に飛び込んできて、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
振り返れば、塔の全景が見えた。
外から改めて見上げると、その高さに圧倒される。上の方は、霧に溶けてしまいそうなくらい遠かった。
「随分と……大きいですね」
「王都の結界と魔導師団の全データをここで扱うからな。中身も詰まっている」
「中身、楽しみです」
本音がぽろりと漏れてしまい、セイジュ様が小さく笑う。
「その顔を見ると、連れてきて正解だったと確信する」
「そんな大げさな」
でも、胸の奥が少し温かくなる。
塔の周囲には、魔力を通すための石畳が円形に敷かれ、その外側をぐるりと柵が囲っている。柵の向こうには、王城地区へと続く道が伸びていた。行き交う人々の多くは、黒いローブか軍服を着ている。魔導師と兵士だろう。
アストリアの王都では、魔導師は裏方に押し込められていたけれど、ここでは堂々と人目の中を歩いている。その光景だけで、この国の空気の違いがよく分かった。
「団員たちは、すぐ向こうの本部にいる。顔合わせは、少し落ち着いてからだ」
「はい。……その前に、ここでの生活のことを知っておいた方が良さそうですね」
「ああ。ちょうどいい」
セイジュ様が塔の扉の方へ視線を向けた。
私もつられて振り返る。
重厚な扉が、音も立てずに内側から開いた。
そこから現れたのは、栗色の髪をきっちりとまとめた女性だった。年の頃は、私より少し上だろうか。落ち着いた色のメイド服に白いエプロン。姿勢がまっすぐで、歩き方に一切の無駄がない。
彼女は私たちの前でぴたりと止まり、深く一礼した。
「お帰りなさいませ、団長。それと、ようこそお越しくださいました、アリア様」
丁寧な言葉遣いなのに、声にははっきりとした芯がある。
「塔の管理を任せているメイド長、マリアナだ」
セイジュ様が簡潔に紹介してくれる。
「メイド長のマリアナと申します。以後、よろしくお願いいたします」
「アリア・レインです。……ですが、こちらではレイン伯爵家の肩書きはあまり関係ありませんね。アリアとお呼びください」
私がそう答えると、マリアナは一瞬だけ目を瞬かせ、それからふっと表情を緩めた。
「かしこまりました、アリア様」
「様は、外してくださいとお願いした方がいいのでしょうか」
「いいえ。そのあたりは、少し様子を見させてくださいませ」
さらりと返されて、私は思わず目を瞬く。
有能だ。
「塔での生活に関しては、すべて私と、その配下のメイドたちが担当いたします。お部屋の準備はすでにできておりますので、ご安心ください」
「ありがとうございます」
「ただし」
マリアナは、ほんの少しだけ声の調子を変えた。
「いくら魔導師とはいえ、徹夜や無茶な長時間労働はお控えくださいませ。倒れられてからでは遅いので」
「……………………」
ぐさり、と胸に刺さる。
私が何も言えずにいると、隣からじとっとした視線を感じた。
「聞いたか、アリア。ここでは無茶は禁じらしい」
「セイジュ様が言うと説得力が半減します」
「俺は倒れない」
「そういう問題ではありません」
思わず突っ込んでしまうと、マリアナがくすっと喉の奥で笑った。表情はきっちり引き締めているのに、どこか楽しそうだ。
「団長も、研究に没頭されるとお食事を忘れがちですので。お二人まとめて、きちんと管理させていただきますね」
「まとめて、ですか」
「ええ。アリア様は本日より、この塔の主のお一人ですから」
塔の主。
さらりと口にされたその言葉に、心臓が一度だけ大きく跳ねた。
今日まで、私は誰かに使われる側だった。
王家のために、王太子のために。国のために。
自分の意思とは関係なく、ただ容量があるというだけで、大結界に魔力を注ぎ続けてきた。
けれど、ここでは違う。
私の研究のために、私の判断で、結界を設計していい。
そのための塔であり、そのための人員と予算が、すでに用意されている。
「……重い言葉ですね」
思わずそう呟くと、マリアナは首を横に振った。
「責任は重くても、権限も同じだけございます。どうか、お好きなように塔をお使いくださいませ」
その言い方は、決しておだてではなく、事実の確認だった。
視線を横に向ければ、セイジュ様がこちらを見ている。
銀の瞳の奥には、そういうことだ、とでも言いたげな静かな光が宿っていた。
「……分かりました」
私は、ゆっくりと息を吸い込む。
王太子の婚約者でも、国の便利屋でもない。
一人の魔導師として、研究塔の主として、この国で結界を作る。
「改めまして、よろしくお願いします。マリアナさん」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします、アリア様」
互いに軽く会釈を交わしたところで、マリアナが一歩引いて、塔の扉を手で示した。
「それでは、お部屋へご案内いたします。団長もご一緒に?」
「ああ。俺も、今日はまだ執務室に戻らない」
「……お仕事は大丈夫なのですか」
「大丈夫だ。急ぎの案件は、全部片づけてから来た」
きっぱりと言い切るその様子に、私は小さく笑ってしまう。
この人なりに、今日という日をちゃんと準備してくれていたのだと思うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
塔の中からは、先ほど感じた魔力の脈動が、規則正しく響いてくる。
この塔と、この王都と、この人たちと。
ここで、私は新しい結界を作る。
魔物と瘴気から国境を守るために。そして、自分のために。
塔の入口をくぐる直前、私は一度だけ振り返って、濃い青色の空を見上げた。
アストリアでは決して見られなかった、少しだけ厳しくて、それでも澄んだ空。
胸の中に、静かに線を引く。
過去と未来を分ける境界線。
そして、ゆっくりと前を向いた。
――ここからが、本当の始まりだ。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
第2部第26話、アリアのガルディアでの新生活の一歩を一緒に見届けていただけて嬉しいです。
少しでも続きが気になると思っていただけましたら、作品フォローやブックマーク、評価★をぽちっと押して応援してもらえると大きな力になります!
次話も全力で書きますので、これからもお付き合いいただけたら嬉しいです。




