第25話 転移陣と新しい空
レオン様の「二度と、この国の土を踏むな!」という叫びが、まだ耳の奥に残っていた。
静まり返った外庭に、噴水の水音だけが規則正しく響いている。
さっきまで玉座の間で渦巻いていた熱気は、分厚い扉の向こうへ置き去りにしてきたはずだ。それでも、王城の白い石壁には、まだじわじわと余熱のようなものが貼りついている気がする。
「……承知いたしました、殿下」
さっき、私はそう答えた。
この国の土を二度と踏まないつもりでいるのは、最初からこっちの予定でもあったのだけれど。
それでも、言葉にされると、胸のどこかが少しだけきしむ。
国の大結界と結ばれた鎖が、一段、また一段と外れていく音。
それは、さっきまで確かにここにあったはずの「居場所」が、音もなく遠ざかっていく気配でもあった。
「アリア……!」
息を切らした声が、背後から追いかけてくる。
振り返れば、レオン様が手を伸ばしたまま立ち尽くしていた。隣にはリリアナ様。その後ろには、騎士たちと侍女たちと、もはや野次馬と呼んだほうが早い人々の群れ。
あれだけ鮮やかに私を捨てておきながら、今さらその手を取るつもりはない。
「レオン様」
私はゆっくりと頭を下げた。
「先ほども申し上げましたが、どうか、わたくし以外のどなたかと末永くお幸せに」
「待てと言っている!」
かすれた怒鳴り声。
彼の中で何と何がぶつかり合っているのかは、大体察しがつく。
王太子としてのプライド。
「身分ではなく心で選ぶ」と言ってしまった手前の、物語の主役としての顔。
そして今ようやく気づき始めたらしい、「国の盾」を手放そうとしている現実。
どれも、これも。
もう、私の責任ではない。
「レオン王太子殿下」
私の横で、低い声が響いた。
黒いローブの裾が、風に揺れる。
隣国ガルディア王国宮廷魔導師団長、セイジュ・アルバート様。王都の真上を走る結界の揺らぎに気づき、わざわざ受け取りに来てくれた、厄介なほど優秀で、少しだけ不器用な人。
「先ほど殿下ご自身が、『アリア・レインとの婚約を、ここで破棄する』と宣言されたはずだが」
淡々とした確認に、周囲がどよめく。
「そ、それは……!」
「そのうえで、『二度とこの国の土を踏むな』とも仰った」
セイジュ様は、何かをただなぞるように言葉を重ねていく。
「では、彼女がこの国から去ることに、何の問題もないはずだ。違うか」
逃げ道を塞ぐのが上手い人だなと、他人事のように思う。
もっとも、今この瞬間だけは、そのやり方に全力で甘えるつもりでいるのだけれど。
「ま、待て! 話はまだ――」
「十分だ」
短く切り捨てるような声。
レオン様の顔が、悔しさと困惑とでぐしゃぐしゃに揺れた。
けれど、その表情に胸を痛めてしまうほど、私は優しくない。
優しくあり続けていたら、きっと一生、この国から出られなかっただろうから。
「アリア」
セイジュ様が、私の名を呼ぶ。
その視線が、「行くか」と問いかけていた。
答えは、決まっている。
「……お願いします。セイジュ様」
私は一歩、彼の側へと踏み出した。
その瞬間、胸の奥で、最後の鎖の音がした気がした。
大結界と私とを結んでいた見えない鎖が、ぎり、と軋んで、静かに外れていく音。
国の盾としての私が、ここで役目を終える音だ。
「転移陣を起動する」
セイジュ様はそう告げると、外庭の中央へ歩み出た。
噴水を中心として、きっちり計算された歩幅で何歩か進み、振り返る。
「おまえは、そこから一歩も動くな」
「……荷物扱いですね」
「貴重な荷物だ。乱暴には扱わない」
さらりと返しながら、彼は地面に片膝をついた。
チョークも刻印棒も使わない。ただ、指先で空をなぞるような動きが続く。
空気が、わずかに震えた。
王城の石畳の上に、見慣れない紋様が光を帯びて浮かび上がる。
アストリア式の輸送陣よりも、もっと複雑で、もっと滑らかな線。古い円環構造の上に、幾何学的な三角形と菱形が幾重にも重なっている。
魔力の流れ方も、聞き慣れたリズムとは違っていた。
私の中を通ってきたアストリアの魔術は、どこかで必ず「蓄えてから放つ」という脈動を伴う。けれど今、足元から伝わってくるのは、もっと一定で、無駄のない循環だ。
「……これが、ガルディア式」
思わず、息が漏れる。
足元の転移陣は、私と大結界とを結んでいた鎖の名残を、慎重に切り分けながら拾い上げていく。
アストリア王都地下の中枢核から伸びる魔力の糸と、国境の谷に設置してある受信陣。そしてその先にある、ガルディア王都の座標。
頭の中で魔力地図を描きながら、私はそっと目を閉じた。
「な、なにをしている……! その陣を止めろ!」
背後で、誰かが怒鳴る声がした。王宮魔導師長だろうか。あるいは、さっきまで玉座の間にいた重臣の一人かもしれない。
「矢を構えろ!」
「魔導師隊、陣の破壊準備!」
兵たちのざわめきが、波のように広がる。
けれど、遅い。
ここに陣を展開するために必要な準備は、ずっと前から整えてある。
国境の谷に刻まれた巨大な受信陣。ガルディア王都の転移室に設けられた固定陣。どちらも、セイジュ様と私とで、何度も何度も式を擦り合わせてきた。
今日、この瞬間。
王城の外庭に、私が立つことも。
王太子殿下が、「二度とこの国の土を踏むな」と私に告げることも。
全部、計算に入れてある。
「この陣に無理やり干渉すれば、王都中枢に負荷が跳ね返る」
セイジュ様が、顔も上げずに告げた。
「今、王都の結界は、おまえたちの想像よりも脆い。余計な揺さぶりをかければ、数日と保たないだろう」
淡々とした声に、兵たちの気配が一瞬すくむ。
彼が誇張を言わないことは、私が一番よく知っている。
あの国境戦で、最悪の一手を避けるために、どれだけ綿密に式を組み替えていたかも。
だからこそ、今の忠告は、ほとんど脅しではなく事実だ。
「アリア!」
レオン様の声が、もう一度私を呼ぶ。
振り返りはしない。ただ、耳だけが、癖のようにその声を拾う。
「本当に、行くのか……? 国を……大結界を捨てて……」
「捨てませんよ」
私は真正面を向いたまま、答えた。
「大結界は、捨てていません。私がいなくても数年は持つように、もう細工してありますから」
その猶予が、どれくらい貴重なものなのか。
今ここにいる誰も、まだ理解していない。
理解されないままでもいい。
そう決めて、私は準備を重ねてきたのだから。
「国の盾を手放したことに気づくのは、きっと、ずっと先です」
口に出してみると、その言葉は驚くほど静かだった。
「今はまだ、大結界が『当たり前にそこにあるもの』だと、思っていたほうが幸せでしょうから」
兵たちのざわめきが、ざらりと揺れる。
誰かが息を呑み、誰かが「そんな……」と呟いた。
「アリア……」
レオン様の声には、遅れてきた後悔と、どうしようもない幼さが混ざっていた。
その幼さを、昔の私は愛おしいと思っていた。
守ってあげたい、とさえ思っていた時期もあった。
けれど、もう違う。
「レオン様」
私は、ほんのわずかだけ振り返った。
「どうか、王太子としてではなく、一人の人として。ご自分で選んだ道の先を、最後まで見届けてください」
それが、私から贈れる最後の願いだ。
王都を覆う結界の外側で、どんな未来が待っているのか。
その頃私は、きっと隣国の空の下で、別の結界と、別の人々の命を支えているはずだから。
「……アリア。時間だ」
セイジュ様の声が、すぐそばから聞こえた。
足元の魔方陣が、いっそう強く光り始める。
幾何学模様の一つ一つが脈動し、私の魔力と、大陸を走る地脈と、遠く離れたガルディア王都の座標とが、一気につながっていく感覚。
眩い光が、外庭を満たしていった。
誰かが悲鳴を上げる。
誰かが私の名を呼ぶ。
誰かが「止めろ!」と叫ぶ。
全部、光の向こう側に遠ざかっていく。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
肺の奥まで、新しい空気を吸い込むイメージを描く。
この国で生きた日々のこと。大結界の軋み。レオン様の笑顔と、リリアナ様の涙。王宮の書類の山と、レイン家の食卓のスープの香り。
そして、国境の荒れた山肌と、あの日聞いた一言。
――埋もれているには、惜しいな。
あの言葉に背中を押されて、ここまで来た。
「その頃、私は隣国で」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で、私は呟く。
「国際会議の準備でも、しているといいですね。……セイジュ様が、書類仕事から逃げなければ、ですけど」
自分で言って、自分で少し笑ってしまった。
光の中で浮かぶ、ぶっきらぼうな魔導師団長の顔を思い浮かべる。
彼の隣で結界の図を広げている自分の姿が、意外なくらい自然に想像できた。
光が、最高潮に達する。
重力が一瞬だけ消えたような感覚がして。
次の瞬間、足元がしっかりとした石の感触を取り戻した。
外庭の噴水の音は、もう聞こえない。
ゆっくりと、まぶたを開く。
高い天井があった。
白ではなく、淡い灰青色の石で組まれた、半円形のアーチ。
天井一面に刻まれた光の筋が、まだ微かに脈打ちながら、私たちを包む巨大な転移陣の残滓を照らしている。
冷たい空気の中に、見慣れない香りが混じっていた。
海に近い街特有の、少し湿った風の匂い。遠くから聞こえる鐘の音。人々のざわめき。
視線を落とすと、広い石の床の先に、開け放たれた大きなアーチ窓がいくつも並んでいた。
そこから見えるのは、白と灰色と赤茶色の屋根が折り重なる、見知らぬ街並み。
塔のように高い建物が、王都ルクスリアとは違うリズムで空を切り取っている。
そのさらに向こう。かすかに揺らめく薄い膜の感触が、私の肌を撫でた。
ガルディア王都を覆う結界の、外殻だ。
「……着いたな」
横で、セイジュ様が小さく息を吐いた。
振り向けば、いつもの無表情の奥に、ほんの少しだけ安堵と高揚が混ざった顔があった。
「ここが、ガルディア王都。大結界研究棟の転移室だ」
淡々と告げられた言葉に、胸の奥がふっと軽くなる。
この国の便利屋令嬢でもなく。
王太子妃候補でもなく。
ただの「アリア・レイン」という一人の魔導師として立つ場所が、ようやく目の前に現れたのだと、実感した。
「ようこそ、こちら側へ」
セイジュ様が、少しだけ口角を上げる。
新しい空の下で、その言葉を迎える。
こうして私は、アストリア王国の「国の盾」から、
ガルディア王国の「客人」に、そしていつかは「対等な研究者」になるための、一歩目を踏み出したのだ。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
ついにアリアが国を出て、新しい空の下で物語が動き出しました。
無愛想団長との共同研究や、元婚約者との再会など、これからも波乱予定です。
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