第23話 それでも手放す選択
大結界のことを口にしたあと、外庭を満たしていたざわめきが、嘘みたいに静まり返った。
誰もが息を飲む音さえ、聞こえてきそうだった。
「……おまえが」
沈黙を最初に破ったのは、レオン様だった。
さっきまで勝ち誇っていた顔から血の気が引き、震える声が空気を震わせる。
「国の結界がどうとか、今の話は……冗談だろう、アリア」
「冗談なら、どれほどよかったでしょうね」
私は、静かに答えた。
「先ほど申し上げた通り、アストリア全土を覆う大結界の魔力供給は、ここ数年ほど、主に私ひとりが担っていました。レイン伯爵家の役目として」
騎士の誰かが、短く息を呑む。
文官らしき男が膝をつきそうになって、隣の男に支えられていた。
「な、何を言っている。大結界は、王家の儀式と、王宮魔導師たちで維持されているはずだ」
「そう見えるように、式は組んであります。表向きの構造は、たしかにその通りですから」
淡々と説明しながら、自分でも驚くほど心が冷えているのを感じていた。
怖くないわけではない。ただ、ここまで来てしまった以上、引き返すという選択肢が、最初から存在しないだけだ。
「ですが、その裏側で実際に流していた魔力の大部分は、レイン家の制御陣を通っていました。私と、父と、少しだけ母も。……けれどここ数年は、父の負担を減らすために、ほとんど私が」
「そんな話、聞いていない!」
レオン様が叫んだ。
声が裏返っている。驚きと怒りと、そして――わずかな恐怖。
私はその全てを、ただ淡々と観察していた。
「そうでしょうね。お話ししたことは、一度もありませんもの」
「なぜ黙っていた! そんなに重要な役目なら、最初からそう言えばよかっただろう!」
「最初から、でしょうか」
胸の奥に、ひやりとした笑いが浮かびかけて、私はそれを押し込めた。
「子どものころから、私は『王太子の婚約者として、静かに支えるのが役目だ』と教えられてきました。目立ってはいけない、口を挟んではいけない、余計な心配をかけてはいけないと」
ゆっくりと言葉を紡ぎながら、過去の自分と向き合うように息を整える。
「それに……」
そこまで言いかけて、私は一度言葉を飲み込んだ。
レオン様の顔が、ぐしゃりと歪んでいる。
信じたくない現実を前にした子どものような表情だった。
「それに?」
「……いえ。今さら、ですね」
あえてそこには触れないことにする。
今ここで責めたいわけではない。ただ、事実だけを並べて、選んでもらうために来たのだから。
「勘違いしていただきたくないのは、一つ。今すぐ結界が崩れることはありません」
私は視線を少しだけ空へ向けた。
王都の上空に張り巡らされた魔力の網の感触は、さっき扉を出たときに比べて、わずかに薄く、しかしまだ形を保っている。
「事前に式を改修し、私の魔力をいくらか蓄えてきました。しばらくのあいだは、それで持つでしょう。王宮魔導師長とも、最低限の情報共有は済ませてあります」
「しばらく……」
国王陛下の低い声が、背後から落ちてきた。
振り返らずとも、今どんな顔をしているのかは想像できた。
「それは、どれほどの期間と見積もっている」
「状況にもよりますが。瘴気の濃さや、魔物の発生頻度が現状と大きく変わらなければ……数年、というところでしょうか」
「数年……」
文官たちの間で、ざわめきが再び生まれる。
数日でもなく、数か月でもなく。
けれど、永遠でもない。
そういう数字だ。
レオン様が、ぎゅっと拳を握り締めた。
白い指先が震えている。
「だったら、なおさらだろう!」
叫びが、外庭に響いた。
「なおさら、おまえは王宮に留まるべきだった! 国の結界がどうとか、そんな重大なことを、どうして勝手に……!」
「勝手に、ですか」
胸のどこかが、かすかに痛んだ。
けれど、その痛みすらも、私は分析する対象として横に置く。
「勝手に決めてよいと、誰かがおっしゃいましたか?」
「なに……?」
「私は、殿下の婚約者でした。そして、王家のために働く魔導師でもありました。どちらの立場から見ても、私が自分ひとりの判断で動いてはいけないと、ずっと言われてきました」
だからこそ。
自分から去るのではなく、「捨てさせる」必要があった。
本当に手放すつもりがないなら、そんな暴挙には出ないはずだと、信じていたからだ。
「けれど殿下は、さきほど大勢の前でおっしゃいました」
私は視線をレオン様に向けた。
「『アリア・レイン。おまえとの婚約を、ここで破棄する』と」
レオン様の唇が、わずかに震える。
さっきの宣言が、今になって自分に跳ね返っているのだと、ようやく気づき始めたのかもしれない。
「それは、王家の正式なご決定なのですよね?」
「そ、それは……」
言葉に詰まる。
その横で、リリアナが小さくレオン様の袖をつまんだ。
「レオン様……?」
不安そうな声。潤んだ瞳。
その姿に、レオン様の表情が一瞬揺らぐ。
責任と、プライドと、恋心と。
いくつもの感情が、ぐちゃぐちゃに絡まり合っているのが、こちらからでも分かった。
「今さら『やっぱりなし』とおっしゃるおつもりなら、それも結構です」
だから、私はあえて言葉にする。
逃げ道と、選択肢を、きちんと差し出したうえで。
「ただ、その場合は――私は二度と、ここまで素直にお話しすることはできません」
「どういう意味だ」
「今日ここで明かしたことの多くは、王家の外には出していない情報です。私がガルディアへ渡れば、そのまま向こうの国家機密になるでしょう」
セイジュが隣で、少しだけ目を細めた。
何も言わないが、その沈黙が肯定であることは分かる。
「けれど殿下が『やはり手放さない』とおっしゃるなら、私はまだ、アストリアの魔導師としてここに残る道を選ぶこともできる。……そういう意味です」
本心かと問われれば、いいえ、と即答するだろう。
もう戻りたくはない。この空気にも、この扱いにも。
それでも、最後くらいはフェアでいたかった。
私が一方的に背を向けたのではなく、殿下が選んだ結果なのだと、はっきりさせるために。
「アリア」
低い声が、肩を震わせた。
セイジュの銀の瞳が、横顔を射抜く。
「無理をするな」
「していませんよ」
小さく微笑んでみせる。
「むしろ、最終確認です。……ずっと、してほしかった確認を」
レオン様は、何度も口を開いては閉じていた。
喉元まで出かかった言葉が、形になる前に消えていく。
『戻ってこい』と、言えばいい。
それだけのことが、きっと誰よりも分かっているはずなのに。
彼の視線が、ちらりと周囲を泳いだ。
整列した騎士たち。王宮の使用人たち。外庭の茂みの影から覗く貴族たちの影。
そして、自分の腕にすがるリリアナ。
誰も、彼の代わりに決めてはくれない。
けれど、誰もが彼の言葉を待っている。
その重さに耐えきれないのか、レオン様の表情が次第に険しく、歪んでいくのが分かった。
「お、俺は……」
かすれた声が漏れる。
「俺は、民に愛される王になると誓った。アリア、おまえだって、それは知っているだろう」
「ええ。何度も聞きました」
だからこそ、レオン様はリリアナを選んだのだ。
涙を浮かべながら民のことを語る、分かりやすい「善人」。
分かりやすい物語のヒロイン。
「俺は、民の前で宣言したんだ。おまえとの婚約を解き、リリアナを新たな婚約者にすると。……今さら、それを翻せると思うか?」
「翻す気がおありなら、お止めはしませんよ」
事実を淡々と返す。
「ですが、その場合は、私もまた、自分の判断で行動することになるでしょう」
「どういう……」
「殿下が私を王宮に縛り付けるなら、今後は私も、国を守るために必要と判断したことを、勝手にさせていただきます。殿下のご機嫌よりも、結界の安定を優先して」
それは、つまり。
アリア・レインという魔導師を、完全に「国の道具」として扱うのか、それとも。
ひとりの人間として手放すのか。
その二択だ。
「……ふざけるな」
レオン様が、吐き捨てるように言った。
「おまえは、俺の婚約者だったんだぞ。俺の、将来の王妃になるはずだった女だ。それが、隣国の男の隣に並んで、そんな勝手なことを……!」
「はい。元、婚約者です」
私は静かに言葉を重ねる。
「殿下ご自身の口から、そう宣言されました。私はそれを受け入れました。それが事実です」
「だが――!」
「ですから、伺っているのです」
彼の言葉を、あえて遮った。
もう、曖昧なままにはしておけない。
「レオン・アストリア殿下」
わずかに姿勢を正す。
これは、ひとりの令嬢としての問いではない。
これまで国の盾として魔力を注ぎ続けてきた魔導師として、最後に求める確認だ。
「アリア・レインという魔導師を。レイン伯爵家の娘を。これまで王都を支えてきた結界の担い手を――あなたは、ここで手放すのか。それとも、なお必要だと仰るのか」
答えは、二つに一つ。
沈黙が、外庭を満たした。
鳥のさえずりさえ、今は聞こえない。
```
レオン様の喉が、ごくりと動いた。
```
長い、長い数秒のあと。
「……勝手にしろ」
かすれた声が、こぼれた。
自分でも、その言葉の意味を理解しきれていないような、投げやりな声音だった。
「好きにしろ。おまえのことなんか、もう知らない。俺の前から消えたければ、勝手に消えればいい」
ああ、と私は心の中で目を閉じる。
やっぱり、この人は。
最後まで、自分のプライドを優先したのだ。
大結界のことも。国の未来も。私というひとりの魔導師も。
全部まとめて、「知らない」と。
「承知しました」
私は、小さく一礼した。
「では、そのお言葉どおりに」
胸の奥で、何かが静かに切り離されていく。
長年つながっていた鎖が、ひとつ、またひとつと外れていく感覚。
それは恐怖ではなく、むしろ、ほのかな解放感を伴っていた。
「レオン様。今のお言葉を、アリア・レインを手放すというご決断として、受け取らせていただきます」
もう一度だけ、まっすぐに彼を見つめる。
レオン様は、悔しげに歯を食いしばり、何も言わなかった。
その沈黙こそが、彼の答えなのだろう。
「――ありがとうございます」
口からこぼれた言葉は、自分でも少し場違いだと思った。
けれど、感謝しているのは事実だ。
これで、ようやく。
私は、自分で選んだ未来へと歩き出せる。
王子の婚約者でもなく。
国の便利な魔力タンクでもなく。
ひとりの魔導師として。
そして、隣で静かに私の手を待っている人の恋人として。
「アリア」
名を呼ぶ声に振り返ると、セイジュがほんのわずかに手を差し出していた。
何も言わないその仕草が、今はただ、心強い。
「……ええ。もう、迷いません」
自分の中で静かにそう呟き、私はその手に、自分の手を重ねた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ついにアリアが自分の意思で「手放される」道を選びました。
ここからは隣国での新しい関係と、大結界の代償が本格的に動き出します。
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