第21話 恋人宣言と王子の狼狽
噴水の水音が、玉座の間の喧騒とは無関係に、淡々と耳に届いていた。
王城の外庭。磨かれた石畳と整えられた花壇。何度も歩いたはずの道なのに、今日は足元が少し軽い。
胸の奥のどこかがまだじんと痛むけれど、さっきまで全身を締め付けていた重さは、ほとんど消えていた。
私と大結界を繋いでいた鎖が、一段階、外れた。
完全に切り離したわけではない。そんなことをすれば、この国は数日のうちに悲鳴を上げる。だからこそ負荷を減らし、いざという時に解けるよう細工を重ねてきたのだ。
王族の前で交わされた「文書で婚約を解消する」という約束が、その鎖を外す最後の一押しになった。
「……ふう」
深く息を吐く。肺の隅々まで、新しい空気が入り込んでくる。
重い扉の向こうには、まだざわめきが残っている。けれど、もうあの舞台に戻るつもりはなかった。
「……あとは、迎えに来てくださるのを待つだけですね」
ぽつりと零した言葉は、噴水の音に紛れて消える。
便利屋魔導師でも、王太子妃候補でもない。ただの「アリア・レイン」としてここに立つのは、少しくすぐったくて、少しだけ怖い。
そのとき、水音の向こうから規則正しい靴音が近づいてきた。
早すぎも遅すぎもしない、迷いのない足取り。何度も手紙の行間から思い描いてきた、あの歩き方だ。
木立の影から、黒いローブの人影が現れる。
「……予定より、少し早いですね」
自分でも驚くほど自然に、声が出た。
黒髪に銀の瞳。ガルディア王国宮廷魔導師団長、セイジュ・アルバート。
彼は庭の明るさに目を細めながら、真っすぐこちらへ歩み寄ってくる。
「王都の空気が、朝から妙に軽かったからな」
「……空気で判断なさったんですか」
「正確には、おまえの魔力だ」
足を止めた彼は、いつもの無表情のまま淡々と告げた。
「毎日のように手紙で、おまえの魔力の状態を聞かされているからな。今朝方から、鎖が外れかけている感覚があった。そろそろだろうと思った」
「……そんな遠くから、よく分かりますね」
苦笑しながらも、胸の奥がじんわりと温かくなる。
私がどれだけ大結界へ魔力を流し込み、どこが軋み、どこを補強したがっているか。誰よりも具体的に気にしてくれていたのは、この人だった。
「それで?」
セイジュ様は、わずかに顎を傾ける。
「予定通り、婚約破棄は済んだか」
「……はい。無事に捨てられました」
口にしてみると、思ったよりさっぱりしていた。
玉座の間で浴びた好奇と侮蔑と同情の視線。
レオン殿下の、勝ち誇った宣言。
リリアナの、練習の成果がよく出た涙の演技。
全部ひっくるめて、計画通りの結末だ。
「それは何よりだ」
「人が捨てられた直後に聞く台詞ではないと思いますけれど」
「アストリア王家が不要と判断したのだろう。ならば喜んで拾いに来るのが、次の持ち主の礼儀だ」
さらりと物騒なことを言いながら、彼はゆっくり距離を詰めてくる。
近づくにつれ、肌を刺すような魔力の密度がはっきりしてきた。荒々しいわけではない。ただ、研ぎ澄まされた刃物のように整っている。
そのあと、私の結界の前に立った彼が放った一言。
――埋もれているには惜しい。
あのときから、私の中の何かが変わり始めていた。
「セイジュ様」
名前を呼ぶと、銀の瞳がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
「本当に、来てくださったんですね」
「当たり前だ」
短く言い切ってから、彼はわずかに口角を上げる。
「貴重な魔導師を受け取りに来た。約束しただろう」
「その言い方、そろそろやめていただけませんか。私、荷物ではありませんよ」
「荷物なら、こんな面倒な手続きを踏まずに済んだ」
「それは、そうかもしれませんけど」
思わず笑いがこぼれる。
国境からの正式な招聘状。王宮魔導師長への事前通達。「ガルディア宮廷魔導師団長」という肩書きが持つ政治的意味。
全部ひっくるめて、彼は本気で私を「引き取りに」来てくれた。
「……後悔しませんか?」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「大結界に繋がれた、面倒な魔導師ですよ。整備にも改修にも手がかかります」
「面倒な式ほど弄りがいがある」
即答だった。
「それに、後悔するような選択なら、ここまで根回しはしない」
「……ずいぶん手間をかけさせてしまいましたね」
「かけさせたのは、あの王家だ」
セイジュ様は、ちらりと王城の塔を見上げる。
「不要になったら引き取る、と言ったのは確かに俺だが。ここまで『不要』を言い切るとは思わなかった」
「その点については、想定通りです」
苦くも、どこかすっきりした感情を抱えながら、私は胸に手を当てる。
「セイジュ様。あなたに言われたんですよ」
「俺が?」
「『この国に埋もれているには惜しい』と」
あの一言がなければ、私はきっとまだ王宮のどこかで、便利屋として鎖に繋がれたままだった。
セイジュ様は小さく咳払いをして、視線を逸らした。
「あれは研究の話だ」
「研究と、私の人生は切り離せませんから」
「……理屈としては分かるが、言い方に棘があるな」
そうぼやきながらも、彼は観念したように片手を差し出してくる。
「では改めて」
指先が、私の方へ向けられる。
「アリア・レイン。アストリア王国が手放した魔導師を、ガルディア王国宮廷魔導師団長として迎えに来た。俺の国で、おまえの結界術を好きに振り回すといい」
「また物騒な言い回しを……」
呆れたふりをしながら、その手を取る。
触れた瞬間、指先の体温に、胸の奥の緊張がほどけていく。
王城の大理石よりも、玉座の間の視線よりも。この手の温度の方が、ずっと現実だ。
「……それに」
セイジュ様は、少しだけ迷うように言葉を切り、それから低く続けた。
「貴重な魔導師であり、俺の――」
そこまで言いかけたところで。
カツ、カツ、と石畳を叩く足音が、外庭の入口から一斉に響いた。
複数人分の早足の気配。鎧の擦れる音。慌てた呼吸。
セイジュ様は、私の手を離さないまま、視線だけをそちらへ向ける。
「来たな」
短く呟き、私の少し前へ出た。
「アストリア王国第一王子殿下に、ご挨拶をする機会を頂けるようだ」
外庭のアーチをくぐって飛び込んできたのは、見慣れた金髪と蒼い瞳だった。
「アリア!」
レオン殿下。その後ろには数人の騎士と、ピンク色のドレスを翻したリリアナの姿。
殿下は私とセイジュ様を見て一瞬足を止め、次の瞬間、露骨に顔を険しくした。
「おまえは……何者だ」
睨みつける視線が、セイジュ様に注がれる。
「王城の者ではないな。無断で外庭に立ち入ることは許されていないはずだが」
「ガルディア王国宮廷魔導師団長、セイジュ・アルバートだ」
セイジュ様は、軽く一礼しながら名乗った。
「正式な入城手続きは済ませてある。王宮魔導師長殿にも挨拶をした。こちらの国とは、今のところ交戦状態ではないと認識しているが、違うか?」
「宮廷……魔導師団長……?」
レオン殿下がうろたえた声を漏らす。背後で、騎士たちがざわっとどよめいた。
「まさか、ガルディアの……」
「災厄の魔導師……?」
小さな囁きが、風に乗って広がる。
そう。災厄の魔導師。
国境の前線で、山ひとつ分の魔物の群れを塵に変えた広域殲滅魔法を使ったと噂される男。
ガルディアの災厄の魔導師。
そして、私の恋人。
「災厄の、魔導師……」
レオン殿下の喉が、ごくりと鳴る。
「そんな者を、王城に入れた覚えはないぞ」
「だから先ほど、手続きを済ませたと言った」
セイジュ様は淡々と返す。
「それに」
銀の瞳が、ちらりと私に落ち、それから再び殿下を射抜いた。
「そちらが先ほど、『アリア・レインとの婚約を、ここで破棄する』と高らかに宣言していたのを、この耳で確かに聞いた。違うか」
「そ、それは……!」
殿下の顔が、みるみるうちに赤くなったり青くなったりする。騎士たちの視線が、殿下と私とを行ったり来たりした。
玉座の間では舞台の主役だった王太子も、ここではただの一人の青年だ。
「アリアは、我が婚約者だ!」
それでもなお、殿下は声を張り上げる。
「幼いころから共に育ち、この国の未来を支えるはずだった! 一時の感情で婚約を解消すると言ったとしても、それは……!」
「一時の感情、でしたか」
思わず、口が動いていた。
「殿下は、かなり前から準備を進めていらっしゃいましたよ。王妃教育の講師の選定、リリアナ様の受け入れ、侍女たちへの根回し……。昨日今日で決めた話ではありません」
「アリア!」
叱責の響きを含んだ声。けれど、今さらその声に怯える理由はない。
「先ほどの宣言は、殿下が選ばれた道の結果です。私は、その道をきちんと最後まで歩き切るお手伝いをしただけ」
そう告げると、レオン殿下の唇が震えた。
「だが、それでも、おまえは……!」
彼の視線が、セイジュ様と、繋いだままの手へ落ちる。
「まさか……最初から、そいつと……!」
絞り出すような声だった。
「だからおまえは、俺に対して……。最近の冷たい態度も、全部……!」
「最初から、ではありませんよ」
きっぱりと言い切ると、殿下の言葉が止まる。
「私がセイジュ様と出会ったのは、二年前の国境任務です。そのときはまだ、ただの他国の魔導師でした」
「そのあと、研究の相談のために手紙のやり取りを始めました。大結界の歪みをどうにかするために。殿下が、私の話を聞いてくださらなかった部分を埋めるために」
「……俺が、聞かなかった?」
「はい。何度かお話ししましたが、『難しい話は魔導師長に任せる』と」
それは、責めるためではなく、ただの事実だ。
「だから私は、別の相談相手を探しました。それがセイジュ様です」
セイジュ様が、小さく肩をすくめる。
「俺はただ、届いた図面に赤を入れて返していただけだ」
「ついでに、『この国に埋もれているには惜しい』とも仰いましたけれど」
「余計なことまで覚えているな」
ほんのわずかな照れが混ざった声音に、口元が緩む。
「恋人になったのは、そのずっと後です」
はっきりと言葉にする。
「殿下がリリアナ様を選び、私との婚約を解消すると決められたあと。私がこの国を出る段取りを整え終えてから。それまでは線を越えないと、二人で決めていました」
レオン殿下の瞳から、色がすっと引いていく。
「そ、そんなこと……信じろと言うのか」
「信じるかどうかは、殿下の自由です」
私は、セイジュ様の手にわずかに力を込めた。
「ただ一つ、はっきりしているのは」
ゆっくりと言葉を区切る。
「先に、私を手放す道を選ばれたのは、殿下だということです」
沈黙が、外庭を満たした。
レオン殿下は、何かを言いかけて、うまく言葉にできないようだった。
セイジュ様が、その隙を逃さず一歩前へ出る。
「王太子殿下」
低い声が、静かに響く。
「俺とアリアの関係について、曖昧なままにしておくつもりはない」
銀の瞳が、まっすぐに殿下を捉える。
「アリア・レインは、ガルディア王国が正式に迎え入れる魔導師であり――」
一拍。
「俺の恋人だ」
その一言が放たれた瞬間、外庭の空気がはじけた。
「こ、恋人……!?」
「敵国の団長と……?」
「いつの間に……」
ざわめきが、波紋のように広がる。
レオン殿下の顔色は、もはや青いのか赤いのか分からない。
「やはり……最初から……!」
「だから、最初からではありませんと申し上げたでしょう」
私は深く息を吸い、殿下を真正面から見据えた。
「殿下が『身分ではなく心で選ぶ』と仰って、リリアナ様を選ばれたように。私も、自分の心で選びました」
「研究の話を聞いてくれて、私を『便利屋』ではなく、一人の魔導師として扱ってくれる人を」
「殿下が掴まれた手を、私は否定しません。どうか、そちらをきちんと守ってください」
リリアナが、小さく息を呑む。
「その代わり」
私は、繋いだままの手を少し持ち上げた。
「私が選んだこの手を、殿下に否定される筋合いはありません」
ぱきん、と、どこかで何かが割れる音がした気がした。
それがレオン殿下の中の「物語」なのか、王城に満ちていた都合のいい幻想なのかは分からない。
ただ一つ確かなのは。
この瞬間を境に、私とこの国との関係が、もう二度と元には戻らないということだ。
私は静かに視線を落とし、深く一礼した。
「以上が、アリア・レインの現状でございます、殿下」
顔を上げたとき、レオン殿下は、何かを必死に飲み込むように唇を噛んでいた。
その答えを聞くのは、きっと次の一瞬。
ここから先は、もう、私の領分ではない。
ここまでお付き合いありがとうございます!
ついにセイジュの「恋人」宣言で、アリアの人生が王城から世界へと動き出しました。
殿下の狼狽も含め、誰もが自分で選んだ手を離さない物語にしていきたいです。
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