第20話 鎖が外れる音
国王陛下の「……よかろう」という声は、もうとうに背後へ遠ざかったはずなのに、耳の奥ではまだ薄く反響していた。
重ねてきた年月そのもののような、重い判子の音。
それと同時に、胸の内側で鳴った別の音。
――重たい鎖が、一つ外れる音。
長く付き合ってきた痛みが、じわりと痺れに変わっていく。
感傷に浸る暇があるなら、とっとと歩け、と仕事人としての自分が背中を押した。
玉座の間の中央から、扉へ向かって歩き出す。
一歩。
二歩。
絨毯を踏みしめるたび、ざわめきが少しずつ遠のいていく。
誰かが何かを言いかけて、呑み込む気配。
父が、こちらを見ようとして、それでも視線を床に落としたことも、全部、背中に刺さるようにはっきりと分かる。
けれど、もう振り返らない。
これ以上ここで立ち止まれば、「やっぱり手放すのをやめよう」と誰かが言い出すかもしれない。
それは、今日いちばん困る展開だ。
重い扉の前で、近衛騎士が慌てて膝を折った。
「アリア様、扉をお開けします」
「お願いします」
礼を言う私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
ぎぃ、と金属と木がこすれる音がして、扉が押し開かれていく。
玉座の間に満ちていた魔力の圧が、吐き出される空気と一緒にどっと流れ出した。
その境目を、私は迷わず跨ぐ。
ぱたん、と背後で扉が閉じた。
乾いたその音が、玉座の間の喧騒と私との間に、はっきりとした境界線を引く。
次の瞬間。
胸の奥を締めつけていた何かが、ふいにほどけた。
「……っ」
思わず、胸元を押さえる。
痛いわけではない。
けれど、あまりにも急に軽くなって、身体の重心がずれたみたいだった。
皮膚の下を巡っていた魔力の流れが、ゆっくりと組み替えられていく。
今まで当たり前のように王都の上空へと伸びていた力の糸が、いくつか切り替えスイッチを押されたように、別の経路へと回り始めた。
見えない配線図が、頭の中に浮かび上がる。
国全土を覆う大結界。
その一部を担うレイン家の魔力水路。
さらにその端に、私自身をつなぎ止めていた「鎖」。
婚約破棄の宣言と、国王陛下の承認。
さっきの一連のやり取りは、政治的な儀式であると同時に、魔術的にも意味を持っていた。
――「王太子妃候補」としての私から、「王家の公式な管理対象」としての私を切り離す。
そう決定された瞬間、王城の最奥にある中枢陣が、静かに配線を切り替える。
その「カチリ」という音が、さっき胸の内側で鳴った鎖の音の正体だ。
もちろん、この国の誰も、そんな仕組みを口に出してはくれなかった。
私が自分で図面を引き、結び目を増設し、冗長化した回路の一つを、自分自身で解除しただけだ。
「……まあ、予定通りですね」
小さく呟いて、息を吐く。
王都の上空を覆う魔力の膜が、ほんのわずかに薄くなる。
いつもなら、すぐさま補修に意識を向けていたはずの揺らぎを、今日は見て見ぬふりをした。
代わりに動き始めたのは、数年前から少しずつ魔力を流し込んでおいた貯蔵層だ。
城下の地下や各地の祭壇に埋め込んだ「蓄え」が、ゆっくりと蛇口を開かれた水のように、既存の水路へと流れ込んでいく。
私がここから消えても、いきなり空になることのないように。
この国が、一晩で丸裸にならないように。
そのために、私は自分の人生の数年分を、黙って積み立ててきた。
……本当に、優しすぎると思う。自分でも。
鼻で笑いそうになるのをこらえて、代わりに深呼吸をする。
さっきまで肺の奥まで入り込んでいた「重さ」が、一枚薄皮を剥がしたみたいに遠のいていた。
石畳に落ちる自分の足音が、やけに軽く響く。
――さあ、本当に、終わった。
これで私は、王家の鎖から一段階はずれた。
とはいえ。
鎖というのはたいてい、一本では済まない。
大結界そのものは、まだ私の魔力を土台にしたままだ。
遠く離れても、完全に切り離されるまでは、だらだらと細い糸が繋がり続ける。
そこに、貯蓄しておいた魔力を少しずつ流し込みながら、数年分の時間稼ぎをする。
それが、私がこの国に残した「最後の仕事」であり、「最後の情け」でもあった。
いっそ、今日この瞬間に全部崩してしまう選択肢だって、理屈の上ではあった。
そのほうが、ここにいる誰かが現実を直視するのは早かったかもしれない。
でも、私にはそこまでの覚悟はなかった。
この城にも、この街にも、守りたいものはたくさんある。
父と母と弟。
毎日のように顔を合わせた同僚たち。
名前も知らない、市場の子どもたち。
彼らまで巻き込んで「ざまあ」を決行するほど、私は壊れてはいない。
それに――。
「数年後に気づいてくれたほうが、きっと効きますしね」
ぽつりと呟いてしまってから、苦笑が漏れた。
何をするにも、性格はそう簡単には変わらない。
私はきっと、最後の最後まで、効率と長期的な影響を計算してしまう。
そんなことを考えながら、王城の長い廊下を進んでいく。
◇
同じころ。
王城の地下深く、厚い石壁に囲まれた一室で、老いた男が眉をひそめた。
壁一面を覆う魔術盤。
国土を模した巨大な石板の上で、無数の魔力線が光の川となって流れている。
そのうちの一本が、わずかに色を変えた。
「……今の揺らぎは?」
王宮魔導師長は、杖の先で該当箇所を軽く叩く。
魔術盤の表面に、薄く文字が浮かび上がった。
〈王都上空・第七層・供給経路変更〉
「第七層……。レイン伯爵家の担当域か」
独り言のようにつぶやいた瞬間、背筋に冷たい汗が伝う。
先ほど玉座の間で見た、あの娘の背中が脳裏をよぎった。
アリア・レイン。
大結界の維持において、誰よりも頼りにしてきた存在。
その彼女を、今まさに手放したばかりだ。
魔導師長は、口の中に広がる苦味を飲み込んだ。
「……数値上は、まだ安全域だな」
魔力の流量を示す刻印は、許容範囲の中に収まっている。
むしろ、ひとつの経路に偏っていた負荷が、いくつかの貯蔵層に分散されているようにも見えた。
技術的には、理にかなっている。
誰かが、長い時間をかけて、この切り替えの準備をしていたのだろう。
彼には、それが誰か分かってしまう。
「……レイン嬢」
名を呼んだ声は、誰にも届かない。
玉座の間で、ただ沈黙を選んだ自分の喉が、今さら痛んだ。
あの場でたった一言、「その娘を手放すのは危険です」と言えたなら。
けれど、王宮魔導師長という立場は、技術のことならいくらでも口を出せても、政治の決定に反旗を翻す権限はない。
ただ一つできるのは、記録を残すことだけだ。
「第七層・供給源変更。安定化処理……」
魔導師長は、黙々と補助術式を書き足していった。
誰かが残していった「数年分の貯金」が、本当に数年分で済むことを祈りながら。
◇
地上の廊下には、柔らかな陽光が差し込んでいた。
さっきまでの玉座の間の空気が、夢だったかのように思える。
高い窓から射し込む光が、白い床に反射して、まぶしさのあまり目を細めた。
「はあ……」
誰にも聞かれないよう、小さく息を吐く。
王と貴族と噂話と視線。
そして、そのすべての下でうごめく、結界を通した王都全体の重さ。
それらが、一枚扉を隔てただけで、こんなにも遠くなる。
廊下の突き当たりを曲がると、外庭へ続く扉が見えてきた。
磨かれた取っ手に手をかける前に、私は一度だけ振り返る。
そこには、長く歩いてきた道しかない。
王太子妃候補として、レオン様の隣に立つための道。
王家の便利屋として、仕事と責任だけを積み上げてきた道。
その道の終点が、さっきの玉座の間だった。
「……ここまで、よく働きました」
誰にともなく、自分自身に労いを告げる。
そして、扉を押し開けた。
春の風が頬を撫でる。
光が、一気に視界へ流れ込んできた。
思わず目を細めながら一歩外へ出ると、王都の空が、さっきよりも少しだけ広く見えた。
白い石畳の先に、手入れの行き届いた芝生と、中央の噴水。
水音が、玉座の間のざわめきとは別の世界の音に思える。
王都を覆う結界の揺らぎが、空の高いところでかすかに波打っていた。
普段なら、反射的に魔力を伸ばして微調整してしまう。
けれど今は、その衝動を意識的に押しとどめる。
「もう、私の仕事ではありませんから」
口に出してみると、その言葉は想像以上に軽かった。
芝生の端に置かれた石のベンチに腰を下ろす。
背筋を伸ばしたまま、深く息を吸い込んだ。
胸の奥で、まだ細い糸がかすかに震えている。
大結界と私とを結ぶ、最後の名残。
それも、これから少しずつ薄れていく。
数年単位の、ゆっくりとした「さよなら」。
その先にあるのは、今と違う空と、今と違う仕事だ。
視線を落とせば、両手の中には何もない。
けれど、失ったものの重さよりも、これから掴むもののほうに、意識は自然と傾いていた。
国境の砦で聞いた、ぶっきらぼうな声。
――埋もれているには惜しいな。
その後に続いた、「不要になったらいつでも引き取る」という冗談めかした一文。
あのとき紙の上に書かれていた約束が、今日、ようやく現実になる。
「……あとは、迎えに来てくださるのを待つだけですね」
ぽつりと呟いて、空を見上げた。
鎖が外れた音は、もう聞こえない。
代わりに、かすかな水音と、遠くから近づいてくる足音。
予定通りか、少しだけ早いか。
その足音の主を思い浮かべて、私はほんの少しだけ、口元を緩めた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
アリアの鎖が外れた瞬間までお付き合いいただけて、とても嬉しいです。少しでも「続きが気になる」「応援したい」と感じていただけましたら、評価やブックマークをぽちっとして頂けると励みになります。




