第18話 公開婚約破棄の前日
婚約破棄の前夜の王宮は、やけにきらきらしていた。
廊下には、明日の式典用の花飾りが増えている。侍女たちが行き交いながら、ひそひそと声を潜めては、それでも隠しきれない浮ついた気配を振りまいていた。
「明日、殿下から重大なご発表があるんですって」
「やっぱり、新しい婚約者のお披露目かしら。ほら、あの男爵令嬢……」
わざわざ耳を澄まさなくても、噂は勝手にこちらへ届く。
私は、王宮の長い廊下を歩きながら、軽く魔力で聴覚を調整した。
大結界を一部支える日常業務に比べれば、こんな調整は息をするより簡単だ。
「でも、レイン伯爵家の娘さんはどうなるのかしら」
「さあ……でも殿下が決められたことですもの。きっと、国のためになるご決断よ」
ふむ。
計画通り、と言っていいだろう。
「庶民の出でも清らかならば」「優しい王妃こそ民の支え」
そんなフレーズが、侍女から騎士へ、騎士から貴族へと伝わっていくうちに、「レオン様が、身分にとらわれない新しい婚約者を選ぶらしい」という話に書き換わる。
私は、その種をまいたに過ぎない。
水をやったのも、日当たりのいい場所に置いたのも、この王宮に住まう人々だ。
……ここまでくれば、あとは明日、きちんと「捨てられる」だけ。
自分の部屋に戻り、扉を閉める。
外の賑やかさが、ふっと一枚膜の向こうに遠ざかった。
机の上には、数枚の紙が広げてある。
大結界の簡略図。地脈の流路を書き込んだメモ。王城地下の中枢と、そこから伸びる魔力の「水路」。
何度も見直した、私の作業跡。
「……これで、数年は持つはず」
誰もいない部屋で、ぽつりと呟く。
私が明日、この城から完全に切り離されても。
王都の空を覆う膜は、すぐには崩れない。
効率化した魔力配分。
薄く伸ばした予備回路。
他の供給源から少しずつ負担を回せるように組み直した基底式。
この国の誰も知らない「猶予」が、そこにある。
その猶予が、いつか誰かの命を救うかどうかは、もう私の手の届かないところの話だ。
少なくとも、捨てられたからといって、すぐに国が滅びるような設計だけは、性分が許さなかった。
ノックの音がしたのは、そんな思考をひとまず区切った直後だった。
「アリア様。レオン殿下がお呼びです」
侍女の遠慮がちな声。
……来ましたね。
「分かりました。すぐ参ります、とお伝えください」
私は書類を重ねて端に寄せ、身なりを整えた。
明日、玉座の間で公に終わりを告げる前の、「最後の個人的な話し合い」。
呼び出しの意味は、聞かなくても察せられる。
レオン様は優しい人だから、きっと「前もって説明しておこう」と考えたのだろう。
自分が主役の物語の中で、なるべく誰も傷つかないように、と。
……残念ながら、もうとっくに傷はついているのだけれど。
◇
案内されたのは、王城の塔の一角にある、小さなテラスだった。
昼間は客人とのお茶会に使われる場所だが、今は夜気と星の光だけが支配している。
石造りの欄干越しに見下ろせば、王都の灯りが散らばり、遠くには大結界の膜がうっすらと揺らめいているのが、私には分かった。
テラスの中央に、レオン様が立っていた。
「アリア」
振り返った彼は、いつものようにきちんと整えられた王太子の顔をしていた。
それでも、眉の端や指先に、緊張が滲んでいる。
「お呼びでしょうか、殿下」
礼を取ると、レオン様は「そんな他人行儀に」と苦笑した。
「ここには、誰もいない。昔みたいに、名前で呼んでくれていい」
「王太子殿下を昔のままに呼ぶのは、さすがに不敬でしょう」
あくまで、形式は守る。
それが、明日までの私の役割だ。
レオン様は、少しだけ寂しそうに視線をそらした。
「……そうか。君は、いつも真面目だな」
それは褒め言葉なのか、ただの感想なのか。
本人にもきっと、分かっていないだろう。
しばしの沈黙のあと、彼はテラスの端の椅子を勧め、自分は欄干に背を預けた。
「明日のことだが」
やはり、その話だ。
「君にも、きちんと話しておきたかった」
「はい」
視線だけで続きを促すと、レオン様は一度だけ深く息を吸い込んだ。
「……君との婚約を、解消しようと思う」
分かりやすいくらい、ストレートな言い方。
明日、玉座の間で高らかに宣言される台詞を、少しだけ柔らかくしただけ。
「理由は、もうお分かりだと思う」
そう言って、彼は自分の胸に手を当てた。
「リリアナのことだ」
聞き慣れた名前。
ここ最近、王宮中で一番よく耳にする音の並び。
「彼女は……君も見ているだろう? 民のことを思い、誰にでも優しくて、身分を鼻にかけない」
はい、それは事実だ。
少し不器用で、少し空回りして、少し罪悪感に押しつぶされかけているけれど。
「庶民の出でありながら、その清らかな心で、人々のそばに立とうとしている。そんな王妃がいてこそ、民は王家を身近に感じてくれるはずだ」
……出た。
「庶民の出でも清らかならば」理想論。
自分で刷り込んでおきながら、実際に口から出ると、なかなかの破壊力だ。
「アリア。君なら分かってくれるだろう?」
そこで、ようやく私の名前が主語になった。
「君は、誰よりもこの国のことを考えてくれている。結界のことも、魔導師としての責務も、全て背負ってきてくれた。それは、本当に感謝している」
それは、珍しく真っ直ぐな言葉だった。
レオン様の視線が、夜の中で揺れる。
「でも……王太子として、俺は民に示さなければならない。身分ではなく心を見る、と。古いしがらみに囚われない、と」
古いしがらみ。
レイン伯爵家と王家の結びつき。
代々大結界を支えてきた魔導師の血筋。
王太子妃としての「便利な婚約者」。
それを、彼は「古いしがらみ」と呼んだわけだ。
「君は、強い。俺よりずっと、現実が見えている。だから……君なら、理解してくれると思った」
それは、信頼と言ってしまえば聞こえはいい。
ただ実際には、「理解してくれる役」を私に押しつけているだけだ。
けれど、その役を私は、自分から選んだ。
「殿下」
私は、膝の上で組んだ手にそっと力を込めた。
「リリアナ様は、確かに優しい方です。民の声にも、侍女たちの細かな苦労にも、心を向けておられる」
それは、何度も観察してきた結論だ。
やらかしも多いけれど、根っこは素直で、誰かを傷つけたいわけではない。
「殿下がそのような方を選ばれるのなら、それはきっと、多くの方の希望になるでしょう」
「……そう思うか?」
レオン様の表情に、安堵が広がる。
「君がそう言ってくれるなら、間違ってはいないんだな」
ああ、この人は本当に。
自分の決断に自信を持ちたいとき、いつも私の言葉を確認に使ってきた。
子供のころから、何度も。
たとえば、初めて前線視察に行く前の夜。
たとえば、王都の増税案に悩んでいたとき。
そして今度は、自分の婚約破棄に。
「もちろん、君を傷つけたいわけじゃない」
レオン様は、慌てたように付け足した。
「君は、この国にとって必要な人だ。結界のこともある。婚約が解消されても、レイン家としての立場は変わらないよう、父上とも話をしている。君には、これまで通り……」
これまで通り。
王家の便利屋として。
「強いから大丈夫」と思われ続ける魔導師として。
……そこは、さすがに笑って済ませられない。
「殿下」
私は立ち上がり、ひとつ礼をした。
「ご心配には及びません」
レオン様が目を瞬かせる。
「私は、レイン伯爵家の娘としても、王都の魔導師としても、自分にできることを全てしてきたつもりです」
それは卑下でも自慢でもなく、事実の確認だ。
「明日、殿下がリリアナ様との婚約を公にされるのであれば、私の役目はそこで終わります」
「終わる、だと?」
「王太子妃候補としての役目、ですね」
少しだけ言葉を選び直す。
「結界については、引き継ぎが済んでおりますので。レイン家として必要であれば、父が適切に対応いたします」
本当は、「数年の猶予を確保してある」と付け足したくなる。
けれど、それを口にする義理は、もうない。
レオン様は、どこか心細そうに私を見る。
「……本当に、怒っていないのか」
ああ。
そこを気にするあたりは、やはり彼らしい。
「怒るべきなのかもしれませんが」
私は、苦笑を浮かべた。
「今さら怒っても、明日の予定は変わらないでしょう?」
「それは、そうだが……」
「でしたら、せめて殿下には、胸を張って選んでいただきたいのです」
彼が望んだ言葉を、きちんと贈ってやる。
「民に寄り添う王として、理想の王妃とともに歩む、と。そのご決断を、私が曖昧にしてしまっては、殿下が困られますから」
レオン様の顔が、じわじわと赤く染まっていく。
「アリア……。君は、本当に……」
何を言おうとしたのか。
その先を、彼自身が言葉にできなかった。
きっと、褒め言葉と感謝と、少しばかりの罪悪感が、喉の奥で絡まっているのだろう。
私はそれ以上、彼を助けてやるつもりはなかった。
「どうか、後悔なさいませんように」
「後悔?」
「殿下が選ばれた道を、です」
私を、ではない。
リリアナを、でもない。
国と民と、自分自身の理想のために選んだ道を。
「それが、私からの、最後のお願いです」
そう言って、私は頭を下げた。
しばらくの沈黙ののち、レオン様が小さく息を吐く気配がした。
「……分かった」
彼の声は、震えてはいなかった。
ほっとしたような、そしてどこか誇らしげな響き。
「君がそう言ってくれるなら、俺はこの選択を信じる。ありがとう、アリア」
礼を言う相手を、少しだけ間違えている気がする。
けれど、それを指摘するのも、もう私の仕事ではない。
テラスを後にして、夜の廊下を歩く。
窓の外には、王都の灯りと、大結界の淡い光。
明日、この城の最奥で。
磨き上げられた大理石の床と、過剰に飾られたシャンデリアの下で。
レオン様は、今日と同じ言葉を、もっと大きな声で、誇らしげに言うのだろう。
アリア・レイン。おまえとの婚約を、ここで破棄する。
その声を、私は真正面から受け止める。
心の中で、そっと答える準備をしながら。
ええ、分かっています。
だから安心して、私を捨ててください。
その一言を胸の奥にしまい込み、私は、明日の舞台へと歩みを進めた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
ついに「公開婚約破棄」の前夜まで来ました。アリアの静かな決意と、レオンの理想の選択、どのように映りましたか?
次回はいよいよ玉座の間。アリアの一言で物語がぐっと動き出します。
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