第17話 抜け道と逃げ道
王宮の資料室にこもったまま、何枚目かの地図に赤い印をつけたところで、私は一度ペンを置いた。
「……ここから、ここまでが限界ですね」
王都ルクスリア。その中心に白い円で描かれた王城と、その地下に広がる大結界の中枢。
そこから伸びる見えない魔力の流路を、私は頭の中でなぞり直す。
どこまでなら、気づかれずに「道」を仕込めるか。
どこから先なら、私ひとりの責任になるか。
考えることは、山ほどある。
机の端には、別の地図も広げられていた。
一枚はアストリアとガルディアの国境線を描いた軍用地図。
もう一枚は、見慣れない細かな記号がびっしり書き込まれた、ガルディア側の地形図だ。
紙の端には、黒いインクでさらりとした筆致のメモ。
『ここ。転移陣の座標候補。
標高差少なめ、魔力の流れ安定。
おまえの国からも、ぎりぎり視線が届かない位置だ』
セイジュ様の字だ。
思わず、口元が緩む。
◇
「抜け道、か」
数日後。
国境の臨時陣地のテントの中で、セイジュ様は低く繰り返した。
今日は国境付近での結界補修という名目で、数人の王宮魔導師とともに派遣されている。
表向きはアストリアとガルディアの共同調査隊。
実際のところは、便利屋令嬢の残業と、隣国最強魔導師との秘密会議だ。
テーブルの上には、両国の国境線を挟むように地図が何枚も重ねられている。
私は指先で線をなぞりながら、説明を続けた。
「はい。王都からここまでは、今まで通りの大結界の流路に、少しだけ余裕を持たせる形で調整します」
「今のおまえの設計では、レイン家からの魔力供給を切っても、数年は自動運転で持つ」
「ええ。そこまでは第16の式で終わっています。問題は、その先です」
私は、国境付近に赤丸のついた一点をとん、と叩いた。
「ここ。アストリア側の前線砦の真下。古い補強陣が眠っています」
「前におまえが愚痴っていたやつか。初代の結界師が刻んだ式が、そのまま土に埋もれている、と」
「愚痴というより、勿体ない、ですね。あそこは、もともと外の瘴気を逃がすための排気口として設計されています」
大結界は、外の瘴気を遮断する殻であると同時に、内側に溜まりすぎた魔力や歪みを逃がすための管でもある。
しかし今の王宮は、その機能をほとんど把握していない。
「そこを、少しだけ構造を戻してやる。外へ少しだけ繋がる細い管を残したまま、普段は閉じておく。何かあった時に、内側から外へ魔力を抜ける道……それが、王家のための抜け道です」
セイジュ様は顎に手を当て、地図を覗き込んだ。
銀の瞳が、赤丸の一点を射抜く。
「平時には使わない。だが、いざとなれば、そこから外に向かって手を伸ばせる」
「はい。たとえば、アストリアだけでは支えきれなくなった時に、どこか別の国の結界と一瞬だけ繋いで、負荷を逃がすとか」
「……ずいぶんと親切だな」
淡々とした声に、ほんの少しだけ皮肉が混じる。
私は苦笑した。
「仕事ですから。国の盾としての、最後の責任です」
本当は、何もかも放り出してしまったっていいのかもしれない。
でも、私が抜けることでいきなり国が崩れるのは、さすがに後味が悪い。
だから私は、ちゃんと抜け道を用意しておく。
気づくかどうかは、彼ら次第だけれど。
「ただし」
私も、赤のインクを取り、今度は地図の端――国境を越えた先のガルディア側に小さな印をつけた。
「ここから先は、私のための逃げ道です」
「ふむ」
セイジュ様の視線が動く。
ガルディア側の山裾に、ぽつんと記された小さな三角形の記号。
「この谷、以前の討伐の時に見に行きましたが、地脈がとても素直で、魔力の流れも安定していました。大規模な転移陣を固定するには、悪くない場所です」
「おまえの観測でもそうか。俺の部下の測定と一致している。やはりここだな」
セイジュ様は、無言で別のメモを地図の上に重ねた。
『候補地点B
岩盤安定、瘴気薄め。
大陸西方への転移ルートにも応用可』
隣国最強魔導師は、こういうところだけやけに仕事が早い。
「ここに、ガルディア式の転移陣を設置します。座標は、アストリア王都の大結界中枢と、この排気口の位置を基準にして……」
私はさらさらと紙に式を書きながら、口で説明を続けた。
「まず、私の魔力と大結界を結ぶ鎖を、一度だけ一段階目まで緩めます。その状態で、こちらに向けて細い糸を投げるイメージで。大陸の魔力地図上で言えば……この辺りの座標ですね」
「転移陣の『送信側』をおまえが握り、俺たちが『受信側』を固定する」
「はい。普段は完全に遮断しておきますが、婚約破棄当日だけ、その糸を辿って一気に座標を確定させる。外庭に私が出るタイミングで、ガルディア側の陣を起動していただければ……」
「アリアごと、まとめて引き上げるわけか」
言い方。
「そう言うと物騒に聞こえます」
「事実だ」
さらっと返ってくる。
苦笑しながらも、胸の奥が少しだけ熱くなった。
こんな綿密な逃走計画に付き合ってくれる隣国の団長がいる国と、
私を便利な魔力タンクとしか見ない今の国。
比べてしまうのは、仕方がないと思う。
◇
「受け入れの手続きについても、詰めておきたい」
セイジュ様が、別の書類の束を広げた。
そこには、ガルディア王国の紋章が押された文書の写しがいくつか。
「一応、表向きは『ガルディア王国国境防衛結界技術顧問としての招聘』という形にする。アストリアへの正式な通達も出す」
「客将扱い、ということですね」
「ああ。ただし、おまえ自身の身柄は、俺が責任を持って管理する」
最後の一文だけ、妙に強調された気がして、思わず咳払いでごまかす。
「アストリアからは、どう見えるでしょうか」
「『不要だと言った魔導師を隣国が引き取った』以上の意味にはならんさ」
その言い方に、微かな棘が混ざっている。
「問題になるとすれば、数年後だな」
「数年後」
「ああ。おまえがいなくなった大結界の負荷が、じわじわと表面化する頃だ」
淡々とした声。
けれどその奥にあるのは、単なる他人事ではない。
ガルディアにとっても、アストリアが崩れれば瘴気の波はそのまま西へと流れ込む。
決して、完全に無関係ではいられない。
「だからこそ、抜け道がいる」
セイジュ様は、アストリア側の地図を指先で軽く弾いた。
「おまえが用意する王家のための抜け道は、いずれ俺たちのための安全弁にもなる。
……そう考えると、少しだけ許せる気がしてきた」
「何を、ですか」
「おまえが、まだあの国のことを捨てきれていないところを」
唐突に核心を突かれ、言葉が詰まる。
そんな顔をしていたのだろうか。
「俺としては、あの国にはさっさと崩れてもらったほうが、ある意味楽だが」
「セイジュ様」
「冗談だ。半分だけな」
いつもの口癖。
本気と冗談が絶妙に混ざった一言に、肩の力が少し抜けた。
そう。私は、まだ完全には捨てきれていない。
生まれ育った家も、父と母も、あの温かい食卓も。
そして、あの国の空を守ってきた大結界そのものも。
だからこそ、抜け道を残す。
それは、王家のための逃げ道であり、
同時に、いつか誰かが「やり直す」ための細い糸でもある。
私自身の逃げ道は、もう決めてしまった。
婚約破棄の日に、外庭に立つ。
鎖を一段階外し、ガルディアへ通じる道を選ぶ。
それでも、どこかで、別の誰かが別の選択肢を掴めるように。
「……欲張りですね、私」
思わず漏れた独り言に、セイジュ様が片眉を上げた。
「そうか?」
「アストリアも、ガルディアも、自分の研究も。
ぜんぶ、少しずつ守ろうとしている気がして」
「何か問題があるか」
即答だった。
「おまえの魔力量なら、欲張ってちょうどいい。
それに」
一拍置いて、彼はわずかに視線を逸らす。
「自分の逃げ道ぐらい、きちんと確保しておけ。
今まで、他人のためにばかり魔力を使ってきたんだ」
胸の奥に、じんと何かが染みていく。
そうだ。
この「逃げ道」は、私が私のために用意するものだ。
王家のための抜け道も、国のための安全弁も、そのついででいい。
「……分かりました」
私はペンを取り、赤い丸で印をつけた。
王都の地下、大結界の中枢から外へ伸びる、細い排気の管。
そして、その先にある、ガルディアの山裾の谷。
紙の上で結ばれた点と点を、私は心の中でもう一度、そっと結ぶ。
「ここが、王家のための抜け道で」
指先で、アストリア側の赤丸をなぞる。
「ここが、私のための逃げ道です」
ガルディア側の印を、少しだけ強く押さえた。
インクが紙に染み込み、じわりと広がっていく。
その小さな赤が、未来へ続く線になることを願いながら。
私は、最後の「準備」の一つに、静かに取りかかった。
すべては、数か月後。
あの玉座の間で、王太子殿下が高らかに婚約破棄を宣言する、その日を迎えるために。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
アリアが「王家の抜け道」と自分だけの「逃げ道」を引き換えに、ようやく自分のために魔力を使おうと決めた回でした。
セイジュ様との共犯めいたやり取りにニヤリとしていただけていたら嬉しいです。
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