第16話 秘密裏の魔術研究
ぱち、と油のはぜる音がした。
王宮の端にある小さな作業部屋。結界調整用と名目だけは立派なその部屋で、私は机いっぱいに広げた羊皮紙と魔方陣のあいだに埋もれていた。
窓の外はもうとっくに真夜中だ。
けれど、大結界の式を書き換える作業に、日付という概念はあまり関係がない。
「……ここを、この配列に差し替えて……緩衝層の容量を一段増やして……」
羽ペンの先で、既存の陣をなぞりながら、頭の中では国全土の地図を広げる。
アストリアの大結界は、ざっくり言えば国を覆う巨大な膜だ。
最外殻で瘴気と魔物を弾き、その内側の層で衝撃を分散し、さらに内側で人々の暮らしを守る。
その全部を、王都地下の中枢核から、レイン家が代々魔力を送り続けて維持してきた。
……つまり、ほぼ私ひとりで。
今さらながら、とんでもない仕組みだと思う。
「文句を言っても、仕方ありませんけれど」
小さくつぶやいて、苦笑する。
私がここでやっているのは、そのとんでもない仕組みに、もう一つとんでもない細工を足すことだ。
私が王都の結界から手を離しても、すぐには崩壊しないように。
数年は、もつように。
それが今日の、そして最近ずっと続いている「秘密の残業」の内容だった。
机の隅には、小さな模型が置いてある。
アストリア全土の断面図を模した、簡易版の結界装置。魔力を流し込むと、層ごとに違う色で光る、私の自作だ。
「よし……試してみましょうか」
深呼吸をひとつ。
私は右手を模型の上にかざし、意識を集中させる。
器から回路へ、回路から陣へ、陣から結界へ。
慣れきった流れを、今回はわざと別ルートに振り分ける。
いままでは、私の魔力がそのまま国中へ流れ出していた。
風呂場に蛇口をひとつだけつけて、そこから延々と水を出し続けているようなものだ。
それを、途中で一度「貯める」形に変える。
貯水槽を作り、そこに詰めた水を、少しずつ配っていくように。
「最外殻と緩衝層の間に、貯蔵用の層を……ここですね」
模型の中で、淡い光が、ひときわ濃く集まる部分ができた。
そこが、新しく作った魔力の貯蔵層。私がこの先、せっせと詰め込んでおけば、私がいなくなったあとも、しばらくは結界が持ちこたえるはずの場所。
問題は、そんな大工事を王宮の誰にも気づかれずにやる必要がある、ということだ。
「……まあ、『定期調整です』と言っておけば、だいたい通りますけれど」
何年も「便利屋令嬢」として働いてきた結果、私が結界に何をしているのか、正確に理解している人はほとんどいない。
王宮魔導師長でさえ、「レイン家のやり方は難しくてね」と苦笑していたくらいだ。
ありがたいのか、悲しいのか。
視線を、机の左端へと移す。
そこには、何通もの封筒が積み重ねられていた。
宛名は、どれも同じ。
ガルディア王国 宮廷魔導師団長 セイジュ・アルバート様
そして、そのうちの一通はまだ開封されたばかりで、紙の端が少しだけ丸まっている。
私はペンを置き、その手紙を取り上げた。
『長期維持を前提とするなら、魔力を詰め込みすぎるな。
器をいっぱいにすると、わずかな揺らぎでヒビが入る。
おまえはつい、限界まで注ぎたがるからな』
「……図星ですけれど」
思わず、眉をひそめる。
そうだ。私はつい、限界ギリギリまで魔力を注ぎ込んでしまう癖がある。
国の安全のことを考えると、「余裕を残す」という発想が抜け落ちてしまうのだ。
セイジュの手紙は、その悪癖を容赦なく指摘してくる。
『貯蔵層の役割は、満タンにして安心することではない。
日々の揺れを吸収するための余白だ。
水路の途中に広い池を挟むようなものだと考えろ』
「余白、ですか……」
私は視線を模型へ戻す。
さきほど光が集まった貯蔵層は、たしかに少し詰め込みすぎているように見えた。
限界いっぱいに光が揺れていて、少しでも負荷がかかればあふれてしまいそうなほどに。
「これでは、駄目ですわね」
ため息をつき、指先で陣の一部を書き換える。
貯蔵層から、外殻と緩衝層へ流れ出すルートを増やし、魔力が滞らないように。
少しだけ、外殻そのものを強化する式も足す。
こういう「ちょっとした最適化」は、私の得意分野だ。
誰も見ていないのが、もったいないくらいに。
書き換えを終えて、もう一度魔力を流し込む。
今度は、貯蔵層の光がほどよく膨らみ、呼吸をするようにゆるやかに明滅した。
最外殻と緩衝層も、それに合わせて穏やかに光っている。
「……いい感じ、でしょうか」
ひとりごとのように呟いてから、私は再び手紙へ視線を落とした。
『それから、忘れるな。
おまえがいなくなったあと、この結界に守られて暮らすのは、王宮だけではない。
国境の村や、海沿いの街や、おまえが名前も知らない子どもだ』
そこまで読んだところで、胸の奥が少しきゅっとなる。
そうだ。
私は、王家のために結界を維持していたわけではない。
少なくとも、今はもう。
この国に暮らす人々を、いきなり危険のど真ん中に放り出すような真似は、したくなかった。
たとえ、その国が、近々私を捨てることになっているのだとしても。
「……ほんと、私って損な性格ですよね」
苦笑混じりにぼやくと、机の上の紙束の中から、べつの手紙がひょいと顔を出した。
封筒の端に、小さく「追伸」の印。
それだけで、誰からの手紙か分かってしまう。
セイジュは、技術的な話と、そうでない話を、わざわざ別の紙に分けて送ってくるのだ。
真面目なのか、不器用なのか。
たぶん、その両方だ。
『追伸。
王太子との婚約がある身で、夜更けまでひとりで作業部屋に籠もるな。
体を壊されたら、こちらとしても困る』
「そこですか」
思わず、机に突っ伏しそうになる。
いや、体調を心配してくれるのはありがたいのだけれど。
『我が国へ来るまで、壊れるな。
壊すのは得意だが、直すのは少し苦手だ』
最後の一文が決定的だった。
顔が熱くなるのを自覚しながら、私は手紙をそっと伏せる。
「……ほんとうに、あの人は」
自分の破壊魔法のことを、そんな風にさらりと書ける神経もどうかと思う。
けれど。
「壊す」の主語に、私が含まれていないのだけは、きちんと伝わってきた。
私を壊す気がないからこそ、こうして遠い国から、何度も何度も手紙を送ってくるのだろう。
研究の話と、一言だけの心配と、それから時々、拙い甘さを混ぜて。
「さて」
私は少しだけ背筋を伸ばし、新しい羊皮紙を引き寄せた。
今度は、返事を書く番だ。
『セイジュ様へ。
ご指摘の通り、貯蔵層には余白を持たせる設計に変更しました。
実験模型の結果も安定しており、現在のところ暴発の兆候はありません』
ここまでは、技術報告。
さすがに「図星でした」とは書かない。
代わりに、少しだけ、本音を混ぜる。
『それから。
ご心配、ありがとうございます。
王太子殿下は、最近はほとんどリリアナ様のそばにいらっしゃいますので、夜更けまで私を探しに来られる心配はありません』
皮肉半分、安堵半分。
まさか、こんな形で自由時間が生まれるとは、昔の私には想像もできなかっただろう。
リリアナのやらかしの後始末で仕事が増える一方、その彼女のおかげで、私はこうして結界の改良に集中できている。
世の中、何がどう転ぶか分からない。
『おかげさまで、「捨てられたあと」の備えは順調に進んでおります。
この改良が、いずれ誰かの役に立つといいのですが』
そう書いて、ペンの先をしばらく宙に止める。
この改良が役に立つ相手が、誰になるのか。
今は、まだ分からない。
数年後のこの国なのか。
国境の別の誰かなのか。
それとも、もっと遠い誰かなのか。
考えても、答えは出ない。
ただ一つだけ、分かっていることがある。
私自身は、その「数年後の誰か」ではない、ということだ。
数年後、私はこの国にはいない。
セイジュの隣で、ガルディアの空の下にいる。
そう決めたからこそ、今こうして「自分のいなくなったあと」の準備をしているのだ。
「……変な話ですね」
自分で自分の居場所を手放す準備をしながら、その居場所がすぐには崩れないように支えるなんて。
それでも。
私にはそれしか、選べなかった。
全部を壊して去るほど、私は強くないし、冷たくもない。
だからせめて、きちんと捨ててもらって、そのあとも数年は、国が持つように。
その間に、誰かがこの結界のツケに気づいてくれればいい。
レイン家に、ひとりの魔導師に、国の盾を任せきりにしてきた愚かさに。
「……よし」
返事を書き終えて封をし、私は最後にもう一度、模型を起動した。
貯蔵層が静かに光り、外殻と緩衝層が穏やかに脈打つ。
ほんの少しだけ、王都の地下にある本物の中枢核の気配が、遠くに重なって感じられた気がした。
そこへ流れ込む魔力の一部を、私はこれからしばらく、貯蔵層へ回すことになる。
いつか完全に手を離す、その日のために。
「これで……いいはず、です」
椅子の背にもたれかかりながら、ぽつりとつぶやく。
まだ細かい調整は必要だろう。
王宮の仕事の合間を縫って、少しずつ、少しずつ書き換えていく。
それでも、大枠はできた。
「捨てられたあとでも、この国はすぐには死なない」という保証を。
だからあとは――
「私が、きちんと捨てられるだけですね」
自嘲気味に笑って、立ち上がる。
窓の外には、ほんの少しだけ白んだ空がのぞいていた。
長い夜だった。
けれど、きっとこの夜のことは、誰も知らない。
王も、王子も、リリアナも。
この国の誰も、私がこっそり積み上げた数年分の猶予のことを、知らないまま生きていく。
その猶予が、数年後の誰かの命運を決めることになるとは、今の私も、まだ知らないのだけれど。
それでも、私はペンを取り、次の調整案を書き始めた。
捨てられる日までに、やるべきことは、まだ山ほど残っているのだから。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
捨てられる準備をしながら誰より国を守ろうとするアメリアの、少しねじれた優しさが伝わっていれば嬉しいです。
セイジュとの文通や結界改良の感想など、ひと言でも頂けると今後の展開づくりの大きな励みになります。面白かったら評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




