第14話 リリアナ観察日記
翌日も、王城の朝は容赦なくやってくる。
「レイン伯爵令嬢、本日のご日程でございます」
侍女が差し出した予定表には、いつも通りの文字が並んでいた。
大結界の微調整、魔道具庫の点検、魔力水路の再検査、王太子殿下執務の補佐、そして――
「……“リリアナ様の魔力訓練補佐”」
最後の一行を見て、私は小さく息を吐いた。
それは、ため息というより、肩慣らしみたいなものだ。
今日からしばらく、私は意図的に、王宮での「リリアナ様の一挙手一投足」を観察するつもりでいる。
題して、リリアナ観察日記。
紙の上ではなく、私の頭の中にだけ記される、非公開の記録。
……ええ、自分で言っておきながら、なかなか物騒な響きだとは思う。
◇
午前中。最初の観察対象は、王宮の小さな応接室だった。
「ひっ、ひゃっ……あっつ!」
ぱしゃん、と音がする。
目の前で、真新しいテーブルクロスに、琥珀色の液体が勢いよく広がった。
手にしていたポットを慌てて戻しながら、リリアナ様が真っ青になる。
「も、申し訳ありませんっ……! アリア様、殿下のお茶が……!」
彼女の細い指先は、小刻みに震えていた。
私は立ち上がり、こぼれた茶がカップの縁を越えないよう、テーブルの端にそっと手を置く。
「大丈夫です。ちょっと失礼」
指先から、薄い膜のような魔力を広げた。
液体の下に即席の“受け皿”を敷くように魔力を滑り込ませると、紅茶はそれ以上テーブルに染み込まず、ぷるんと揺れて止まる。
「……わあ」
近くにいた侍女が、小さく声を漏らした。
「布を替えましょう。このまま運べば、跡は残りません」
魔力の皿ごと、紅茶を持ち上げる。侍女が慌てて別の盆を差し出し、それを受け止めた。
「す、すみません、本当に……! 私、いつもこうで……」
リリアナ様は今にも泣きそうな顔で、私とテーブルクロスを交互に見ている。
紅茶のポットを持つ手は、明らかに慣れていない。
今日が初めてではないのだろう。ポットの蓋には、何度も拭いた跡がついていた。
「たまたまですよ」
私は柔らかく笑ってみせる。
「王宮の食器は重いですから。慣れるまで時間がかかります」
「で、でも、アリア様は一度もこぼされたことなんて……」
「私が初めて持ったときは、蓋を落としましたよ。あのときも、給仕長さんに怒られて大変でした」
事実だ。
あのときは、蓋の金具までもが派手な音を立てて床を転がり、近くにいた騎士たちが一斉に振り返った。
「……本当ですか?」
「本当です」
嘘をつく必要はない。
私は椅子を引き、こぼれた紅茶がかかった場所を魔力で軽く乾かしながら、さりげなくリリアナ様の魔力の揺れ方を観察した。
魔力総量は、中の上といったところだろうか。
ただ、手先に魔力を流すときの制御が甘い。緊張するたびに、魔力が一気に跳ね上がっているのが分かる。
――ここに、「優しい王妃候補」として持ち上げられればどうなるか。
期待と不安で振り回されて、今以上に不安定になるのは目に見えている。
「アリア様は、怒らないんですね……」
ぽつりとこぼれた声に、私は瞬きをした。
「怒る理由がありませんから」
「でも……私が失敗するたびに、侍女の人たちが、アリア様に申し訳なさそうにしてて……。きっと、ご迷惑を……」
リリアナ様の視線が、卓上のティーセットから、そっと私の顔へと移る。
その目は、本気で怯えているというより、罪悪感に押し潰されそうな色をしていた。
――根っこは、素直な子なのだろう。
「迷惑だと感じたことはありませんよ」
これは、半分は本音だ。
「ただ、王宮は“失敗した人”よりも、“それによって困る人”を数える場所ですから。私の仕事が増えるのは事実ですね」
「っ、ご、ごめんなさい……!」
きゅっと肩がすぼまる。
……うん。かわいそうになる。
けれど同時に、私は心の中でひとつ、ページをめくる。
今日の観察記録、項目その1。
リリアナ・○○(正式な姓は後で確認するとして)、紅茶をこぼす。自己評価は低く、他人の迷惑を過剰に気にする。
そして、周囲の目は――
「アリア様、さすがでございます」
「本当に頼りになりますわ……」
部屋の隅で控えている侍女たちから、ため息とも感嘆ともつかないささやき声が聞こえた。
「リリアナ様も、お優しいのですけれど……」
「少し、こう……不器用でいらして」
その言葉の端々には、「完璧なアリア様」と「守ってあげたいリリアナ様」という構図が、じわじわと形作られつつある。
――いいえ、違いますね。
私は、そういう構図が作られるように、すでに少しずつ手を加えているのだ。
◇
午後からは、魔力訓練場。
「れ、了解しましたっ……!」
リリアナ様が、張り切った声で返事をする。
目の前には、的代わりの木製ダミーが複数並んでいた。
「では、指示した通りに魔法陣を展開してみてください。今日は、“支援魔法の基礎”ですよ」
攻撃魔法ではない。
あえて補助系を選んだのは、彼女の適性を確かめる意味もあるが、何より暴走時の被害を最小限に抑えるためだ。
「は、はい……!」
リリアナ様が両手を前に差し出す。
薄桃色の魔力がじわりと広がり、空中に簡易陣が描かれていく。
――悪くはない。線は少し震えているが、形は合っている。
問題は、最後のひと押しだ。
「そこから、一気に魔力を流し込まずに、細く細く“糸を通すように”……」
「え、糸……あ、あの、針に……」
彼女の顔から、すっと血の気が引いた。
針。
どうやら苦手なものを連想させてしまったらしい。
「あの、やっぱり、“どーん”とやったほうが……!」
「どーん、はまだ早いです」
言い終わる前に、彼女の魔力がいきなり跳ね上がった。
「ちょ、ちょっと待って――」
言葉より早く、私は床に手をつく。
「展開、簡易防壁!」
透明な壁が、リリアナ様とダミーの間に走った瞬間。
ぱんっ、と乾いた破裂音が訓練場に響いた。
桃色の衝撃波がダミーをまとめて薙ぎ倒し、防壁にぶつかった光が蜘蛛の巣状に広がる。
防壁の向こう側で、空気が震えた。
――威力だけなら、中級攻撃魔法に匹敵しますね。
「わ、わわわ、わたし、またっ……!」
膝をつきかけたリリアナ様の肩を、私はそっと支える。
「大丈夫です。今のはちゃんと防ぎましたから」
「で、でも、また壊しちゃって……!」
ダミーの残骸を見て、彼女の目が潤む。
「訓練場の備品は、壊されるためにあります。……と、王宮の経理担当も言っていました」
実際には、経理担当は頭を抱えていたが、そこは言わないでおく。
彼女の魔力を感じ取る限り、暴走の原因は単純だ。
緊張すると、一気に出力を上げてしまう。制御の微調整が極端に苦手。
その一方で、魔力の質そのものは悪くない。
癒しや保護に向いた、柔らかい属性をしている。
――現場で避難誘導や回復を担当すれば、きっと役に立つ。
少なくとも、「王妃失格」と切り捨てられるような資質ではない。
「……あの」
リリアナ様が、遠慮がちに私を見上げた。
「私、やっぱり向いてないんでしょうか。王妃の勉強も、魔術も、礼儀作法も、全部……」
「“全部完璧にできる人”なんて、そうそういませんよ」
私は苦笑する。
「王妃になる人に必要なのは、完璧さよりも、周りの助けをきちんと受け取れることだと、私は思っています」
「助けを……?」
「はい。自分のできないことを認めて、できる人に頭を下げられること。……王妃だけでなく、王にも必要な資質ですが」
口にしてから、少しだけ、自分で自分に刺さった。
それが、この国でどれほど難しいことか、私はよく知っている。
「私は……アリア様みたいに、なんでもできないです」
「なら、“アリア様に助けてもらえばいい王妃様”でもいいのでは?」
冗談めかして言うと、リリアナ様はぱちぱちと瞬きをして、それから小さく笑った。
「そんな王妃、聞いたことないです……」
「これから作ればいいんですよ」
その笑顔は、驚くほど年相応だった。
王妃候補でも、王子に選ばれた“ヒロイン”でもない。ただの、一人の女の子の顔。
――やっぱり、この子は「悪役令嬢」にはなれそうもない。
そう確認しながら、私はまた一つ、頭の中の観察日記に線を引いた。
◇
「さっきの、見ました? アリア様の目つき」
訓練の後、片付けをしていると、少し離れた場所から侍女たちのひそひそ声が聞こえてきた。
「ええ……リリアナ様が失敗なさったとき、すごく冷たい目をしていらして」
「怒っていらっしゃるのかと思って、背筋が凍りましたわ」
私は、手にしていた壊れたダミーの肩を元の位置に戻しながら、耳だけをそちらに向ける。
――あれは、ただ単に、魔力の流れを見ていただけなのですが。
「でも、さすがですわよね。防壁を張っていなかったら、大怪我でしたもの」
「そうね……。アリア様は厳しくて、リリアナ様は守られる側、って感じで……」
言葉が、ひとりでに形を持ち始める。
「厳しい婚約者」と、「健気な新しい王妃候補」。
私が何かを言ったわけではない。
ただ、訓練中に何度か、魔力計算を頭の中でやり直しながらため息をついただけだ。
それが、彼女たちの目には「失敗した令嬢を睨みつける冷たい視線」に見えたのだろう。
「アリア様のご負担も大きいのよ。大結界に、王宮の雑務に……。それなのに、リリアナ様の面倒まで」
「だからこそ、あの、なんというか……“冷たい笑み”が」
冷たい笑み。
私は、ダミーの破片を運びながら、自分の頬に触れてみる。
そこにあるのは、いつもの、感情を押し殺した笑み。
王宮で生きていくために身につけた、無難な仮面。
――便利ですね。ここまで来ると、どんな形にでも解釈してもらえる。
胸の奥が、わずかに痛む。
リリアナ様の不器用さも、侍女たちの善意交じりのおしゃべりも、根っこはきっと悪意ではない。
ただ、それぞれの「物語」にとって都合のいい役割を、私に押し付けているだけだ。
優秀だけれど冷たい婚約者。
可憐で庇護されるべき新しい令嬢。
――そしていずれ、「可憐な令嬢をいじめる冷酷な婚約者」という構図に、ゆっくりと塗り替えられていく。
それは、私が望んで選んだルートでもある。
「……順調、ですね」
誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
リリアナ様は、頑張りたいのに空回りして、周囲から「守ってあげたい」と思われる。
私は、その後始末を淡々とこなしながら、ため息を一つ落とす。
それだけで、物語は勝手に進んでいく。
彼らが見たい「悪役」と「ヒロイン」の物語へと。
その結末が、数年後にどんな形で跳ね返るのか――
今はまだ、誰も知らない。
私を除いて。
ここまでお読みくださりありがとうございます!
第14話は、アリア視点から見た「リリアナ観察日記」でした。
周囲の何気ない一言や噂が、じわじわと役割と物語を固定していく空気を楽しんでいただけていたら嬉しいです。
今後、二人の立場の逆転や、殿下や周囲の認識がどう変わっていくのかを一緒に見守っていただければと思います。
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