第13話 レイン伯爵家の食卓
王城の門をくぐり、王都の石畳を離れるころには、空はすっかり茜色に染まっていた。
馬車の窓から見える街並みが、少しずつ「仕事の景色」から「家の景色」に変わっていく。
城下の喧騒が遠ざかり、貴族街の静かな街路樹が増えてくると、胸の奥の糸がゆっくりほどけていくのが分かった。
「……ただいま、ですね」
誰にともなく小さく呟く。
王城での一日は、今日も例外なくぎっしり詰まっていた。大結界の調整に始まり、魔導師長の相談、魔導水路の逆流トラブルの対応、リリアナ様の魔力暴走の後始末、ついでに侍女たちへの“王妃業の洗い出し”。
便利屋とはよく言ったものだ。
「レイン伯爵家のお屋敷はこちらでございます」
御者の声に顔を上げる。
見慣れた鉄の門。その向こうに、深い青色の屋根を載せた石造りの邸が静かに佇んでいた。王城ほどの華やかさはないけれど、堅実で、きちんとした家。
私が、「アリア・レイン」である前に、ただの「娘」でいられる場所。
馬車が止まり、扉が開く。
「お嬢様がお戻りだ!」
門番の声が響いた次の瞬間。
「おねえさーん!」
玄関ホールの奥から、勢いよく影が飛び出してきた。
「わっ」
胸元に飛び込んできたのは、まだ成長途中の腕と体温。
年の離れたきょうだい――私の弟だ。
「ただいま、リオ」
私は苦笑しながら、その頭をぽんぽんと撫でた。
「国境から帰ってきたばっかりって聞いたのに、もう王城の仕事して、それからまたこっちに戻ってきたんだろ? 大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。おねえさんは丈夫に育ちましたから」
「そういう問題かな……?」
心底心配そうに眉を寄せるあたり、本当にいい子だと思う。
「リオ、廊下を走らないの」
穏やかな声がして、ふと顔を上げる。
階段の上から、母がこちらを見下ろしていた。
柔らかく結い上げた髪に、落ち着いた色のドレス。王都では珍しくもない伯爵夫人の装いなのに、私にとっては何より安心する「家」の象徴だ。
「おかえりなさい、アリア」
「ただいま戻りました、お母様」
裾をつまんで一礼すると、母はふっと目尻を緩める。
「顔色は……うん、思っていたよりはマシね」
「基準が厳しいですね?」
「あなたの“思っていたより”は、たいてい仕事のしすぎですもの」
軽口を交わすと、母は私の手を取って、そっと握った。
「お父様は?」
「書斎よ。今、支度をさせているわ。せっかく帰ってきたんだから、今夜はゆっくり食べながら話しましょう」
言外に、「王城ではゆっくり食べていないでしょう」と書いてある。図星だ。
私は苦笑して頷いた。
◇
レイン伯爵家の食堂は、王城の大広間のような豪華さはないけれど、どこか落ち着く温度がある。
長すぎないテーブル。ほどよい数の燭台。壁には、先代たちの肖像画ではなく、初代が刻んだ大結界の写し絵がかけられていた。
高価な絵画よりも、結界図の方が落ち着くあたり、うちの家らしい。
「アリア」
席につくと、真正面から低い声が飛んできた。
テーブルの上座。そこに座る男――私の父、レイン伯爵は、いつも通りの無表情でこちらを見ている。
石像のようだ、と人からはよく言われる。その評価に異論はない。
ただ、その石像は、たまにほんの少しだけ、ひび割れて中身が見えることがある。
「お父様。ただいま戻りました」
「……ご苦労だった」
短い言葉に、いろいろな感情が詰まっているのを知っている。
国境任務の報告も、王城でのやりとりも、公的な部分はすべて文書で彼のもとに届いているはずだ。それでも、目の前にいる娘の無事を、自分の目で確かめるまでは、落ち着かなかったに違いない。
「怪我はないな」
「はい。瘴気に少し当たりましたが、すぐに浄化しましたので」
「少し、か」
父の視線が、一瞬だけ鋭くなる。
「“少し”で済んだのならいい。……アストリアの前線は、瘴気に甘いからな」
「お父様」
母が苦笑交じりに制した。
「ご飯の前に愚痴はやめてちょうだい。アリアが戻ってきたんだから、もっとお祝いらしい話をしましょう?」
「愚痴ではない。事実だ」
ぶっきらぼうに言いながら、父はナプキンを整える。その仕草まで、妙に几帳面だ。
そんな父の隣で、リオがこっそり私の耳元に顔を寄せた。
「ねえ、また始まったよ。“大結界講義タイム”」
「シー。聞こえますよ」
「聞こえていいんだよ。お父様、話し出したら止まらないんだから」
小声で笑い合うと、ちょうど給仕がスープを運んできた。
湯気の立つ白い皿が並び、食卓がほのかに温まる。
王城の食事は、たしかに豪華だ。でも、ここのスープには、香辛料ではなく「ただいま」が溶けている。
「いただきます」
全員で手を合わせ、静かにスプーンを取る。
しばらくは、食器の触れ合う音だけが続いた。
やがて、スープをひと口飲み下ろした父が、ようやく口を開く。
「……中枢の揺れは、どうだ」
「お父様。せめて二皿目からにしましょうと言ったのに」
母のささやかな抵抗もむなしく、その話題はやってきた。
私は苦笑しつつ、スプーンを皿の縁に置く。
「大丈夫です。今のところ、致命的な歪みはありません。基底層の北東ブロックに負荷が偏りかけていましたが、緩衝層で散らすように式を組み替えてきました」
「緩衝層、か」
父の指が、テーブルクロスの端で見えない図形をなぞる。
「昔は、そんな贅沢な発想はなかったな。上から殴られたら、殴られた分だけこちらも力で押し返す、の繰り返しだった」
「お父様が中枢室に入っていた頃のお話ですか?」
「ああ」
父の視線が、遠くを見るように揺れた。
「若いころ、陛下に呼び出されてな。『レイン家の男なら、一度は中枢に立ってみよ』と」
「王城地下の……」
「そうだ。あの冷たい石の部屋だ」
父は、スープ皿の縁に目を落としながら続ける。
「天井一面の古い術式、足元の制御陣。中枢核から流れ込んでくる魔力を、ただひたすら各層に振り分け続ける。昼夜の感覚もなくなるまで、な」
それは、私も知っている光景だ。
王城の地下深く。円形の部屋の中央で淡く光る結界核。床いっぱいに刻まれた制御陣は、レイン家専用の「ポンプ」のようなものだ。
そこに立つ者は、国全土に巡る魔力の流れを、手で掬うように感じながら、ひたすら「分配」し続ける。
「本来なら、あれは何人かで交代制にする仕事だ」
父は低く言う。
「だが――」
「レイン家が、押しつけられてきた」
私が言葉を継ぐと、父は苦い顔で頷いた。
「先祖の代からな。『大結界を維持できるのはレイン家だけだ』という言葉は、名誉でもあるが、枷でもある」
名誉と枷。
父の世代は、そのどちらとしても、その言葉を受け入れてきたのだろう。
「お父様が中枢に立っていたのは、どれくらいの期間だったのですか?」
「数年だ。若かったからな。多少無茶をしても、器がもった」
ふ、と父の目が細くなる。
「だが、あのころから、もう歪みはあった。中枢核と地中基底層に刻まれた古い術式。あれは、負荷分散という考えからはほど遠い」
「……ですね」
私も、同じものを見ている。
だからこそ、セイジュ様の手紙で示された「緩衝層」の考え方を取り入れ、少しずつ式を組み替えてきたのだ。
この国が、私一人の魔力でしか立っていられない構造から、ほんの少しでも遠ざかるように。
「今は、おまえがその役を担っている」
父の視線が、まっすぐに私を射抜いた。
「王都を覆う大結界の、中枢核から各層への配給。……本来なら、王家の魔導師団が担うべき仕事だ」
「王宮魔導師長が、補助には入ってくださっていますよ」
「“補助”だろう」
即答だった。
「実質的なポンプは、おまえ一人だ。王宮にいる間、眠れているのか」
「……平均よりは、少し短いかもしれませんが」
父の眉間の皺が、一気に深くなる。
「アリア」
名前を呼ぶ声に、いつもより少しだけ感情が混じった。
「レイン家は、“国の盾”の一部だ。それは否定しない。だがな」
そこで、一拍置かれる。
「“国の盾”である前に、おまえは、私たちの娘だ」
正面から受け止めたその言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
私は、うっかりスプーンを握る手に力を込めそうになって、慌てて力を抜く。
「……ありがとうございます、お父様」
きちんと礼を言うと、父は視線をそらした。
不器用な人だ。
その様子を見ていたリオが、口いっぱいにパンを頬張りながら言う。
「おねえさんがいなくなったら、王都だけじゃなくて、うちの家の空気も崩れるよ」
「リオ、口の中のものを飲み込んでから喋りなさい」
母が慌ててハンカチを差し出した。
「……でもさ」
飲み込んだあとも、リオは真剣な顔のままだった。
「本当に大変なんだったら、もうちょっと休んでもいいんじゃない? 王城にばっかりいると、帰ってくるの、たまにになっちゃうし」
その言葉に、父と母の視線が、同時に私に向く。
家族全員から見つめられると、さすがに落ち着かない。
「仕事ですから。王都全体の」
「それは分かっている」
父は静かに言った。
「だからこそ、王家はおまえを手放さないはずなんだがな」
その呟きは、ため息といっしょにこぼれた。
あまりにも自然で、あまりにも確信に満ちた言葉。
「王太子の婚約者であり、大結界の要。……そんな駒を、わざわざ盤面から外すほど、王家は愚かではないと信じたいのだが」
「お父様」
母が少しだけ険しい声で制する。
「アリアの前で、そういう言い方は」
「現実を言っているだけだ」
父は首を振る。
「王都の人間は皆、おまえを『王城の便利屋』として見ているかもしれん。だが、中枢の仕組みを知っている者にとっては、おまえは『替えの利かない部品』だ。……そんな部品を、わざわざ捨てる理由が、どこにある」
どこに。
ありますよ、と喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。
むしろその理由を、これから私が用意してあげるところなのだ。
「……そうですね」
私は、できるだけ穏やかな笑みを浮かべる。
「きっと、王家の皆様も、よくお考えになっていると思います」
「アリア」
父は、なぜかその言い方に眉をひそめた。
「おまえは、何か隠しているときほど丁寧になる」
「ひどい言われようですね?」
「父親の勘というやつだ」
じっと見つめられ、私は視線を皿の上に落とした。
父の勘は、だいたい当たる。だからこそ、ここで余計な情報をこぼすわけにはいかない。
セイジュ様から届いた手紙のことも。
『不要になったら、いつでも引き取る』と書かれた一文のことも。
全部、まだ私の胸の中だけにしまっておくべき段階だ。
「本当に、大したことはしていませんよ」
私は、あくまで軽い調子で言った。
「少しだけ、結界の負荷を整えているだけです。王家の負担を減らすために」
「王家の、な」
父の口元が、かすかに歪んだ。
王家への忠誠と、娘を守りたい気持ち。その板挟みでできた表情だ。
母が、そっと話題を変える。
「ところで、アリア。今度の休みは、どれくらい取れるのかしら」
「明日の昼には、また王城に戻ります。大結界の朝の調整がありますから」
「もう?」
母の肩が、ほんの少し落ちた。
「せめて、もう一泊くらい」
「ごめんなさい、お母様」
私は小さく頭を下げる。
「でも、次に帰るときまでには、今より少しだけ楽になっているはずですから」
「楽?」
父が反応した。
「どういう意味だ」
「中枢核からの配給方式を、少しずつ書き換えています。レイン家の負担が、将来的に減るように」
それは嘘ではない。
私がこの国を去ったあと、すぐに大結界が崩れないように。
数年分の余裕を残せるように。
そのための改修を、ここ数年、ずっと続けてきた。
父は、しばらく黙っていた。
スープ皿が下げられ、メインの肉料理が運ばれてきても、フォークを取ろうとしない。
やがて、ぽつりと漏らした。
「……本来なら、その改修も、王家と相談して進めるべきことだ」
「そうですね」
「だが、相談しても、どうせ『任せた』の一言で片付けられるだろう」
皮肉とも、自嘲ともつかない笑いだった。
「レイン家に生まれた時点で、ある程度は覚悟していた。だが――」
そこで、父は言い淀む。
私と視線がぶつかった。
「おまえの代で、その覚悟を終わらせてやりたい、とも思う」
静かな、けれど重い言葉。
思わず、胸が熱くなる。
「……お父様」
「だからこそ、さっきの言葉になる」
父は、少しだけ肩をすくめた。
「王家はおまえを手放さないはずなんだがな。……そうであってほしい、という願望込みでな」
王家が私を手放さなければ、私は一生この国の大結界と結婚したままだ。
でも、父はきっと、その方が「安全」だと思っている。
ガルディアへの誘いも、国境での彼との出会いも知らない今の父にとっては。
「大丈夫ですよ、お父様」
私は、フォークを手に取りながら、できるだけ明るく言った。
「王家の方々は、とてもお優しいですから。きっと、私の“お願い”も聞いてくださいます」
「お願い?」
「……いつか、お話しします」
今はまだ、準備の途中だから。
リオが、焼きたてのパンをちぎりながら笑った。
「なんか難しい話してるけど、ぼくは、おねえさんが笑っていればそれでいいや」
「リオ」
「本音でしょ?」
そう言ってにかっと笑う弟の横顔を見ていると、胸の奥の決意が、少しだけ形を変えた。
私は、この家を捨てるわけではない。
捨てるのは、国とうわべだけの婚約だけだ。
家族の笑顔と、この温かな食卓だけは、何があっても守りたい。
そのためにも――きちんと準備を整えてから、捨てられに行かなければならない。
父の「手放さないはずなんだがな」という呟きを背中で受け止めながら、私はひと口、肉を噛みしめた。
静かな夜の食卓。その中心で、私の中だけで、別の戦いの準備が着々と進んでいく。
お読みいただきありがとうございます!
今回はレイン伯爵家の「家族の食卓」回でした。
国の要でありながら、ただの娘であり姉でもあるアリアの揺らぎや決意、少しでも伝わっていたら嬉しいです。続く「捨てられに行く」計画との温度差も今後のポイントになります。
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